(四)浄化作用と「天津祝詞、神言」

 神に祈り、神に槌って、もろもろの苦痛、苦悩、つまり浄化作用を軽からしめんがための願いが「天津祝詞、神言」の奏上となって、古来から伝承されてきたのであって、これらの祝詞は一言にしていえば、主神はじめ祓戸の神、八百万の神々に、いっさいの罪穢を祓い浄めてください、と心からお祈りする言霊であり、この言霊の働きにより、神々の祓い浄めのご神力が発現して、人びとは幸福への道を進むことができるのである。

 だが、それだけで、人びとの罪穢がのこりなく祓い浄められてゆくとは、歴史的事実から見ても、とうてい考えられ得ない。

 神が、われらの教祖明主様をこの地上に生まれしめたまい、本教団を組織せしめられた理由もまた、その点に存するのではなかろうか。

 というのは、自己の霊身に負<お>うた罪穢は、神に祈る言霊の力に槌るということだけではけっしてじゅうぶんに浄められうるものではない。さらに一歩を進めて、われわれが神の子、神の下僕たる本質の自覚に立ち、祈りつつ、神より許されたる「神の光」をお互いにまくばることによって、積極的に浄めあうという神への奉仕の実践によってのみ、はじめて完全に浄めうるのである。

 そのために、神は明主様に、神の大愛とその経綸を人びとに説き知らせ、彼等を導く権威と、明主様の御許に集い寄りくる信者に「大神力」を賦与する大権とを許されたもうたのである。ここに「浄霊力」の発現となり、われら信徒のひとりひとりにもまたその「神力」を、取次ぐことを明主様から許されたのである。