(三)罪穢と禊祓、浄霊

このように、明主様は「天津祝詞」「神言」によって、罪穢が浄められ払われるということを重視されておられるが、このことはまた、本数独特の神事行法である「浄霊」にも、深い関連をもつことに注意しなければならない。

 浄霊のさい、普通は神前に礼拝するか、あるいは、祈念を捧げたのちに手を翳すが、ときによっては、天津祝詞を奏上してから浄霊をお取次ぎする。これは罪穢が浄まるという、共通のおかげの相乗作用を期待しているわけである。

 しからば、この両者によって、なぜ浄まるかということであるが、これについては、人間の本質そのものについて考えねばならない。

 元来、人とは、霊止<ヒト>、または日止<ひと>であって、明主様も、
『人の言霊を解釈してみると、ヒトのヒは霊であるから、霊が体に止まる。すなわち、とがトまるのである』
と仰せられ、その霊については
『神から受命された、すなわち神の分霊を有しているから』
と、神と人間との関係を定義しておられる。また、人は神の子、神の宮ともいわれ、「祈りの栞」にも、
 
 いと高き尊きものは人なりと
      思ふ人こそ人たる人なれ
 
 人はみな神のみたまのわかれなり
      洗ひ浄めむ元<もと>つ姿に
 
 たらちねの両親<おや>より肉体<からだ>神よりは
      霊魂<みたま>を享けて人は生<あ>れ来る

とあるゆえんである。このように、人はその内奥に神性を具有するにもかかわらず、それを自覚せずして、たんなる肉体的、物質的な存在に過ぎないと誤認している。かくのごとく、無知なるがために、自己の霊性が覆われ、包み隠されている状態が罪である。つまり罪とは「積み」であり、「包み」である。さらにかかる状態のとき、人はともすれば種々の過ちを犯しやすい。このような過ち……不義不正、不倫邪悪の行為をすることも、また罪といわれるのである。こうした正しい美しいものを包みこんで隠すことも罪なれば、逆に、よこしまなもの、醜なる事物を包んで、正しく美しきものであるかのように意識的にみせかけたり、行動することも罪であり、やがて神律によって病や不幸の原因ともなるのである。もちろん、病については、肉体的に考えれば、細胞はたえず新陳代謝作用によって交代し、また、種々の生理作用によって生ずる老廃物は、体外に排泄されている。それが順調に行なわれないとき、その人の健康に悪影響をおよぼすが、そうした肉体的な病的現象にのみ目を奪われて、その肉体の奥にある霊魂と、生命と健康の主たる神との関連性に気がつかないことも、また、罪といわねばならない。

「穢」とは、ケは“気”“霊気”であり、カレは“枯れ”の意味である。過ちを犯す不正不潔な考えや行為が、生命の根源ともいうべき霊気を枯れ衰えさせ、生命力が萎靡<いび>した状態になったことを指して穢というのである。

 これが原因となって、物質的、肉体的な形をとって表面的に表われた状態が、種々の不幸災難や病気である。

 また、こうした不幸や病気が、ある時期、ある周期をもって現われることもある。人びとはそれをよく「罪障<めぐり>」と称するが、これはその当事者である本人ばかりでなく、その家庭に現われることもある。これについては、その原因である罪積が祖霊にも関係あることを知らねばならない。

 こうした不幸な状態を、明主様は『浄化作用』 であると仰せられた。それは、そのような罪稜を消滅せしめる神の大愛の発現のひとつの形であって、これに対処する人びとの心のあり方、神との関連のいかんが、これを機会に幸福に転ずるか、より不幸に陥るかの岐路である、とお教えくださっているのである。
『病気に感謝せよ』というお言葉もあるが、これはただ、病気だけではなく、いっさいの不幸災厄にもいえることであろう。

 罪穢を恕し浄めたもう力は、神のみの持たれるものであって、人間力のいかんともなしうることではないのである。