三 演劇

 昔から世の中には多くの名人がでているが、名人になるには実に容易なものでないことは、名人なるものがまことに少いという事実によっても明かであろう。私は常にこう思っている。ある意味で名人が人類に対する功績はすこぶる大きなものがあり、全く吾々は名人に感謝すべきであると思う。そうして名人とは天才が努力の結果なるのであって、凡才の努力の結果が上手となるのであろう。しかしどんなに名人であっても昔の人は知る由もないから、私は今日まで実際見聞した名人を順次書いてみようと思う。 私が今も忘れがたい名人としては、劇壇では九代目団十郎であろう。彼が名人である事はあまりにも有名で今更私が云々するまでもないが、ここではただ私としての見たままの感想を書くのである。忘れもしない私が二十才(明治三四年)前後の頃であった。団十郎としての最も円熟した時代であったろう。私が多く観たのは彼の御家芸である歌舞伎十八番物のみであったといってもよい。彼は晩年は中幕以外はあまりでないようであった。彼の名人としての特徴は他の俳優の芸とはあまりにもちがう点で、舞台にあらわれた場合すこしも動かない。よく彼の芸を評して腹芸師というが全くそうである。ほとんど動きがなく芸らしい芸をやらない。それでいて観客を魅了すること百パーセントというのであるから彼は全く名人である。また彼くらい舞台を引締める俳優はないといわれているが、これらもその通りで彼の舞台について私は今日なお記憶に残つている二三の印象をかいてみよう。

 彼は好んで英雄や偉人に扮することで、これも彼の性格のあらわれであろう。そうして私が見た狂言のなかで忘れ難いものは、勧進帳の弁慶、「酒井の太鼓」の酒井左衛門尉、菊畑の鬼一法眼、紅葉狩の鬼女、地震加藤、為朝、水戸黄門、毛剃強右衛門等々である。そのなかでも酒井左衛門尉に扮した時などは、敵の大軍が城外にひしひしと押し寄せ、危い真只中にありながら、彼みずから太鼓を打つのであるが、その太鼓の音のいささかも乱れないことと、城門をひらいてあかあかと燈火をつけなんら平常と変りない状態をみて、敵将はなにか深い計略があるにちがいないと思い、終に退却するのである。左衛門尉は右のような大胆な計略のもとに泰然として時を待つという場面であるが、それを知らない家来の瀕々たる危機の迫れる注進を聞いても眉一つ動かさず、ただ黙々として時の推移を待つというわけである。彼は舞台の真正面に唯一人端座瞑目し、やや下を向いていささかの動きも見せない。故に最後に到っては家来の注進もなく、彼一人生ける人間と思えないまでに静まりかえって、およそ四五分におよんだであろう。その不動の沈黙者を観客は固唾を呑んで観ている。左衛門尉がいかなることをなすやと、次の行動を臆測しながら魅了されてしまったのである。その時私はつくづく思った。歌舞伎のような大きな舞台の真只中に一人の俳優が端座し、一頻一笑の動きもなく一言の声も発せずして、かくも観客を魅了するということは、全く技芸の極致である。実に名人なるかなとつくづく感歎したのであった。また菊畑の場面で鬼一法眼に扮した彼は、当時、平家の軍略家として優遇されつつあるにかかわらず、胸中ふかく源氏の再興を念願していた。たまたま牛若丸が鬼一法眼が所蔵せる六韜三略の巻を奪い、源氏の再興をはかるべく虎蔵と偽名し、智恵内とともに下郎として住み込んだのである。しかるに鬼一法眼の息女皆鶴姫が牛若丸の虎蔵に恋慕したのを、法眼は胸中ひそかに喜んだのはもちろん、虎蔵に三略の巻を皆鶴姫の手によって宝蔵から盗み出させたのである。法眼は内心満足しつつも己れが平家方に属している以上悟られまいとし、皆鶴姫の虎蔵に対する好意を見て見ぬ振りをするという腹芸であるが、その時の彼の演技の好さは何とも云えなかった。また水戸黄門が彼の藤井紋太夫の希望によって手討にするという場面であるが、紋太夫を一刀の下に打って捨て、刀を拭い鞘に納めるや、紋太夫の屍を見ようともせず、竜神の舞の謡曲を音吐朗々と歌いながら、悠然として高欄の続く橋懸を静かに歩みながら引っ込むというその呼吸は息詰るほどで、廻舞台と相まって今でも忘れられない感激であった。また為朝の舞台で、為朝は危難迫れる我が子を逃がすべく、大凧に身体を結びつけて空高く上昇させ、綱を切って放すのであるが、遙かの空を見つめつつ泰然たるその時の彼の表情は無類であった。親子の情が無表情の面に沸きたっている。全く腹芸である。彼の不思議な迫力と観客を魅了しつくすその演技は、到底筆や言葉ではあらわせないのである。当時、聞くところによれば、彼が演技中観客が拍手喝采する場面があると、翌日はそれを変えてしまうということである。察するに彼の演技の目標は大衆ではなく、一人の識者にあるのであろう。私は団十郎没後、歌舞伎劇に興味をもてなくなってしまった。それは団十郎の芸を観た眼には、他の俳優があまりに見劣りがするからで、そのため歌舞伎劇に愛着をもてなくなった私の淋しさは今日もなお続いている。しかしながら団十郎没後の名人といえば、まず中村鴈次郎であろう。彼の演技のなかで、「紙屋治兵衛」と「藤十郎の恋」だけは今もって忘れがたいものである。ここで私は歌舞伎に対してなぜ興味を失ったかを率直にいえば、根本において精神的方面の欠如にあるのではないかと思う。一言にして云えば形のみで見せようとし、見物に媚びたがる。それが芸のレベルを低くするからであろう。今日の俳優ことごとくといいたいほど芸をし過ぎ動き過ぎる。ところが団十郎は形を無視し、どこまでも心で見せようとする。それが最高にまで芸のレベルを上げるのである。また別の面から観ると、傑出した人物を描きだす場合、その人物そのものになりきってしまう。特に昔の日本人は喜怒哀楽をあらわさないことを本意とする以上無表情が本当であろう。したがって彼の描きだす人物それ自体、俳優の扮装とは思われない。その時代における英雄豪傑の再生を思わしめるものがある。私は彼くらいの名人が一生のうちに今一人あらわれることをねがってやまないものである。

 ついでに女優として、名人のなかへ入れてもいいと思う一人をかいてみよう。それはかの有名な松井須磨子である。彼女の売り出した初舞台であるイプセン劇「人形の家」のノラに扮した時である。まだうら若い女優として、その優れた演技には驚歎の目をみはったのである。それ以来彼女の舞台は見逃すことができなくなってしまった。そうして最後に観た彼女の舞台は中村吉蔵氏作「肉屋の女房」と「カルメン」の二つの狂言であったが、肉屋の女房は亭主の嫉妬のため、カルメンはホセのため、どちらも殺害される筋であったのも不思議といえば不思議である。私が見た日から二日目に彼女は自殺したのであったが、何ものかを思わせられるような気がした。しかしながら死の二日前の舞台に立って、いささかの破綻も見せなかつた彼女は、俳優としての心掛によるものと感心したのである