二 映画

 私が映画の好きなことは私を知るかぎりの人はみんな知っている。忘れもしない私が映画を観はじめたのは十六七の時(明治三〇・三一年)だから、今から五十年ぐらい前で、まず最古のファンといえよう。その頃が映画が日本へ入った最初であった。もちろん一巻物で波の動きや犬が駈けだすところ、人間の動作などで、今から思えば実に幼稚極まるものであった。それでもみんな驚きの目をみはったもので、今昔の感にたえないものがある。そうして一番最初の劇映画はフランス物で、船員が航海から帰宅し、家庭内でなにか事件があったがそれは忘れてしまった。一巻物で単純なものであった。それらの映画は浅草公園の電気館という粗末な小屋で上映された。それから間もなく説明者ができたのが、有名な染井三郎である。 一方、神田錦町に錦輝館というのがあったが、ここは相当立派な家で、まず大名局数の広間のような建物で演説会場などに当てられていたので、畳数で観客は座ってみたのはもちろんである。そこではじめてみた写真はやはり仏画で「浮かれ閻囁」という題で、子供向のものだが、なかなか面白く大当りしたのである。その時の将士は駒田好洋といって、頗る非常と云うのが昧噂で、それで売り出したものである。その後神田に新声館というのができたがここへも私は度々いった。一方浅草では電気館のほかに三友館、富士館、大勝館、帝国館、日本館などが次々にでき、市内にもボツポッ方々にできてきた。

 映画もはじめは活動写真といったことは皆様御承知の通りだが、ほじめの一巻物から二巻物、三巻物と漸次長尺になり、はじめの頃は鶏のマークがついたフランスのパテー会社のものが占めていた。その頃当った写真は「ジゴマ」という悪漢映画で、主人公のジゴマが変装しながら逃走するという筋で、それが大いに受けた。また伊太利映画の喜劇でアンドリューという小さな男が敏捷に活躍する、それが非常に面白く「新馬鹿大将」という題名さえ生れたのである。その後、独逸ウーファー会社の「天馬」という映画が大当りした。

 それから間もなく米国映画が入るようになったが、これは頗る大仕掛の点と、画面が鮮明で俳優の演技も力強く、大衆はほとんど米画に吸収されてしまったといってもいい。私なども同様であった。当時「名金」という映画は続篇もので大当りした。今でも観た人は随分あるようである。またその頃から西部劇が大いに流行したが、もちろん続篇物で俳優としてはロローという、日本人によく似た活劇専門のスターが人気の焦点となった。その後、活劇物が下火になると同時に米画独特の喜劇が流行した。彼のチャップリン、ロイド、キートン等の映画はその頃大いに歓迎されたものである。

 米画の影響を受けて仏、独、伊の欧洲ものは影をひそめてしまつた。伊太利映画の長巻物も一時は相当きたが、これも圧迫されて米画がほとんど独占してしまった。当時の会社はパラマウント、フォックス、メトロゴールドウィン、ユニバーサル等でそれぞれの特色を発揮していた。今でも忘れられないのは、ブリュー・バード映画の特作物で、これは特筆する必要がある。それまで映画といえば興味本位でケレンに満ちた他愛ないものであつたが、この会社ではいささかのケレンもなく真実そのままで、なにかしら胸に食い入る作品が多かった。あたかも十八世紀頃ヨーロッパの小説という小説はお芝居から放れなかった風潮に対し、彼のイプセンが深刻な心理描写の小説をかいて一新生面をひらいた。それと同じようである。故にその頃「ブリュー・バード」映画といえば映画通の観るものとして、識者は大いに歓迎したことはもちろんである。その影響によつてそれまでケレンたっぷりの米画も骨のある深味のある傾向となったのである。

 当時、有名な監督で頗る大仕掛の映画を得意としたグリフィスは、今でも忘れがたいものである。彼の作った「人類の歴史」という映画は、内容も深く感激の作品であった。

 また全世界をうならした稀世の美男バレンチノは忘れえないものがあった、といっても演技ではない、彼の美貌である。私が最後に観たのは「血と砂」というカルメンを作りかえたものであった。実に男がみても惚れぼれするくらいで恐らく彼ほどの美男は今後といえどもでないであろう。当時、全世界の女性の憧れの的となったのも無理はないが、惜しいかな天は美をあたえて寿をあたえなかったことである。

 特異の芸風としてダグラス・フェアバンクスも、一時は世界的人気を背負ったものである。

 以上は、無声映画時代の私の記憶をたどってかいたものであるが、大正八年、私は大本教信者となった頃から信仰の影響からもあり、およそ十年くらいのあいだ映画をみなかったが、丁度その頃トーキー映画ができたのである。

 以上は外画についてのみかいたが、実はそれまでの日本映画はみる価値がなかったのである。そうしてトーキーが生れてから、それまでなくてならない存在であった弁士も失業のやむなきに至ったことは誰知らぬ者はない。弁士の中で今も記憶に残っているのは染井三郎、滝田天範、石井天風、生駒雷遊、谷天郎などで、今も活躍している人には石川緑波、徳川夢声、大辻司郎、松井翠声、井口静波などがある。

 前述の如くで、私は大本教を脱退するころからまた映画を見はじめた。元来、私は映画が非常に好きであったから、俄然として映画熱は再燃しはじめたのである。それから引続き、今日までもできるだけみることにしている。

 前述の如く十年の空白をすぎてから最初にみた映画は「大阪夏の陣」という題名で、今の長谷川一夫、当時の林長二郎が坂崎出羽守に扮したが、この時は全く驚歎した。しばらく遠ざかっているうちに、これほど邦画が進歩したとは夢にも思わなかった。その時を契機として、私が邦画ファンになった事はもちろんである。それ以後みた邦画のなかで記憶に残つているものは丹下左膳、大菩薩峠、戦国群盗伝、鶴八鶴次郎、松井須?子、銀嶺の果などである。

 私は近頃の米画からは、どうも以前のような感激が感じられない。というのは筋に家庭物が多く、以前のような大任掛なものや優秀な喜劇がないからである。事実、家庭劇は言葉がわからないため、複雑な事件などはテンでわからない。面白くないのはそのためでもあろう。その原因としてはトーキーができたからで、無声映画のような動きでみせる必要がなくなったからでもあろう。米画で今も忘れえないものはハリケーン、シカゴ、大平原などの映画である。数は少いが近頃の英画には、なかなかみるべきものがあるが、仏画はほとんど恋愛物ばかりで、私はあまり魅力を感じないが、これも年のせいかとも思う。
 
 ところが終戦当時はそうでもなかったが、最近できる邦画にはなかなか良い物がある。また撮影技術やその他全般的に進歩したことは争えない。しかしまだ難点も相当ある。たとえばトーキーはもちろん大きな欠点は筋にケレンのまじることである。折角、画面の展開によつて息もつけないほど興味がわいてくると、馬鹿々々しいありうべからざる場面がでるので、それまでの興味は一ぺんに吹き飛んでしまう。この点映画人は大いに関心を持つべきで、あえて苦言を呈する。ただ賞めていいのは近頃の俳優の演技である。これは大いに向上したことは認めていい。もつとも以前とちがいクローズ・アップの多くなったことにもよるのであろう。最後に邦画に求めたいものは大仕掛けのものと天然色とで、これは一日も早く実現したいものである。