武蔵と甲斐の両国が境を接する奥秩父の甲武信岳に源を発する荒川は、途中、南東へと流れを変えて、関東平野の西部を潤し、旧利根川の傍流と出会いつつ、複雑な水系を形造りながら東京湾へと注いでいる。
この荒川の鐘ヶ淵のあたりから下流十数キロは、昔から庶民の生活にもかかわりが深く、両岸の土地の名に因んで、隅田川、浅草川の名で呼ばれ、あるいはまた、親しみをこめて俗に大川の名で通っていた。
江戸の昔、幕府の力によって、それまで東京湾に注いでいた利根川が、その本流を常陸(今の茨城県)、下総主として今の千葉県北部)二国の境界を東へ流れる川筋に切り換えられる以前には、隅田川はまた、利根川とも深いつながりをもち、関東一円の主要な流れが集まっていたといっても過言ではない。こうした水運の要の地として、古くから隅田河岸に繁栄を続けてきたのが浅草の町であった。
その後、時の移り変わりとともに埋め立てが進んで、海岸線はしだいに南へ伸びる形となっていったが、隅田川は文字通り江戸の町の発展を支える輸送上の大動脈となった。米や野菜をはじめとする関東一円の産物が、平田船底の平らな船)や高瀬舟(底を平たく浅くした舟)に積まれて川を下り、江戸の町深くにめぐらされた運河の河岸から次々に陸揚げされた。また、京都、大阪から、さまざまな工芸品や生活必需品を積んで、はるばる海路を航行してきた菱垣廻船(船の欄を菱形にした船)、樽廻船(酒荷を積んだ船)と呼ばれる大型の和船は、浦賀水道から今の東京湾を北上して江戸湊に至り、さらに隅田川をさかのぼって日本橋や蔵前、浅草の河岸に横付けされたのである。
こうした地の利のもとに、浅草は江戸時代を通じて、しだいに町を発展させた。商人や職人が数多く集まり、呉服や衣類、皮革加工品や高級の部類に属する草履まで、数々の消費物資を盛んに生産していった。また、幕府の定めによって新吉原という花街が設置され、江戸歌舞伎の劇場が移転してきたこともあって、浅草はまた、江戸における娯楽、文化の中心地という性格をあわせ持つようになった。それに加えて、隅田川は、風光に恵まれた行楽の地としても天下に知られ、春の桜、夏の花火、冬の雪景色と、四季折々の眺めは、絵入り地誌『江戸名所図会』や、かの安藤広重の、『東都名所』『名所江戸百景』の浮世絵などにもよく描かれ、広く世間に喧伝されるようになった。
しかし、このような上向きの繁栄にも、いつしか時代の曲がり角が訪れることになった。それは、けっして悪い意味ではなかった。それというのも、二七〇年来続いてきた江戸幕府が崩壊し、それに代わる明治新政府が樹立された結果のことだったのである。
新政府は江戸が長い間の封建制度のもとにあったことから生じた遅れを取り戻し、一日も早く欧州列強と肩を並べうるような近代的な力を得ようと、西欧化の国造りを急ぎ、各地に近代産業を起こす施策をとった。隅田川の両岸もその例外ではなく、水運を利して、官営の鉄工場や煉瓦工場、メリヤス、石鹸、マッチ、ゴムの工場などが造られた。そこで働く多くの職工が移り住み、商人たちも集まって、浅草は江戸時代とはうって変わった、東京の浅草として新たな発展期を迎えることになったのである。
明治にはいって大きな変革がもたらされたのは産業面ばかりではない。教育制度、徴兵制の実施、地租の改正などの、中央集権的な制度が次々に定められた。近代国家としての体制が急速に整えられていく一方で、髪型から履物、食事にいたるまで、一般庶民の生活万般はその形のうえで大きく変わりつつあった。
そうした風俗の変化は、浅草寺周辺の盛り場の性格をも変えていった。江戸以来、見世物小屋や楊弓店(坐って七間半─約一三・六メートル─先の的を射る遊戯場)、掛茶屋(路傍によしず張りで造った腰掛茶屋)を主とした盛り場であったものが、政府のお声掛かりの文明開化の歩みとともに、やがて水族館や映画館が造られて、装いも新たな娯楽街に成長していくのである。明治もなかばになって、浅草気質を反映した新奇な趣向の人工の山、浅草富士ができ、富士講社の一対象となったのが明治二〇年(一八八七年)ごろである。同二三年(一八九〇年)には総煉瓦造りの十二階建の凌雲閣が完成する。
しかし、こうした盛り場の繁栄は、一般民衆の幸福のうえに咲いた花ではなかった。全国で多くの民衆が貧しい生活を余儀なくされていたように、浅草公園の賑わいの陰には、その日暮しの人々が軒を並べる街並が広がっていたのである。
事実、近代産業を育て、軍事力を増強する富国強兵政策は、必ずしも一般民衆、とりわけ街の勤労者や農民の上に厚い配慮をしたうえで推し進められたものとは一概に言いにくいものだった。新しい国家の誕生を喜んだ民衆は、倒幕の興奮が薄れるとともに、それぞれの望ましい生活の在り方をめざして、自由に主張し、行動するようになった。明治の初め一部に起きた一揆や反乱は、そうした民衆の心が噴出したものと見ることができる。そうしたエネルギーは、また一方において、心ある識者が西洋の啓蒙思想の影響を受け、より良い立憲制国家の実現を求める自由民権運動へと発展していったのである。
駆け足で進められた西欧化、近代化の波は、一方においてまた、日本人の精神生活にも大きな影響を与えずにはおかなかった。それまで営々と築きあげてきた日本独自の伝統的な文化を忘れ、西洋の文化、思想に盲目的に追従しょうとする西欧心酔派の姿勢が生まれる一方、列強の現実に目をおおって、日本の独自性や優秀性のみをかたくなに固執する伝統派といった、二つの両極にこだわる思想を胚胎させていくのである。
こうして始まった日本における東洋文化と西洋文化の相剋は、すでに明治初年、国をあげて近代化に取り組む過程に根ざしていた問題であり、それから百余年を経た今日にも引き継がれているのであるが、日本史を顧みれば、仏教の伝来、唐文化、明の文化、キリシタンの伝来と、常に異教文化や外来文明との接触に腐心して、伝統文化のうえにこれらを摂取してきたことがわかる。したがって、明治に際会した西欧思想、文明の一大潮流をいかに融合し、調和させ、人類の高度文明をこの日本の土壌に熟成させるかという課題は、G・N・P世界第二位を誇る昭和の今日をもっても終わったとは見なされない。今後の世代のうえにも、なお大きな課題として引き続き残されていくものであろう。
世界救世教教祖・岡田茂吉が、隅田川に沿う浅草、橋場の地に生をうけたのは、近代日本の国家揺籃の時代、さまざまなか矛盾を孕みながらも理想の国家の姿が、国をあげて模索されつつ、着実にその歩みを進めていた明治一五年(一八八二年)一二月二三日のことである。
奇しくも一二月二三日は冬至〈とうじ〉の翌日にあたっている。冬至は一年のうちでも陽のさす昼の時間がもっとも短い日で、二三日はふたたび少しずつ陽のさす時間が長くなり始める、まさに日に向かう第一日日なのである。それゆえに洋の東西を問わず、冬至をめぐつて、万物の命の根源である太陽の光を尊び、光が甦り、新たに生まれる時として祝祭をあげる信仰が生きていた。イエスの誕生が事実史と異なり、この冬至の日に引き寄せられて、クリスマスとなったのはその良い例証である。その意味で教祖は一年の夜明けを象徴する奇しき日に、この世に誕生したのである。それはクリスマスのように、信仰によって変容させられたキリスト教・カレンダーではない。紛れもない歴史の事実なのである。それが幾重にも教祖の誕生にまつわる「不思議さ」の感を倍加する。