学問からうるのは知識でありますが、そのほかにもうひとつ神様から授かる智慧証覚があります。これは霊体の関係になっていましてどちらも必要であります。知識だけではだめでありまして、信仰することによって、そこに神様から流れてくる智慧証覚をいただくと、正しい批判力になるのです。どんなこみいった複雑<ふくざつ>なことでも、快刀乱麻を斬るように、真の批判ができるのです。それは学歴<がくれき>のない人にも、信仰があれば神様から授かるのであります。どこにいても善悪の判断ができ、人生を最短距離<さいたんきょり>で向上していけるのです。
これが智慧証覚であります。これがないといくら勉強しても間違った道にいってしまうのです。また、行き詰まって後戻りをしなければならないのであります。そうでなく、真っ直ぐに真理の道を歩めるというのは、この智慧証覚の力であります。
しかしまた、智慧証覚だけでもだめでありまして、やはり、現代の人を説得<せっとく>できるような、現代知識も必要であります。相手以上の知識を示せばわけなく従ってくるのです。ですから、いままでの知識も殺<ころ>してしまうのではなく、いいところはとって、悪いところは削<けず>っていけばいいのです。そのためには、まず自分が確固<かっこ>とした真理を握<にぎ>り、自主的に自分のものを持ち、そのあとに現代の知識やいろいろのことを知って、それを適宜<てきぎ>に出して使えばいいのです。相手を説得するのにはまず勉強が必要であります。何も学校へいかなくても、心がけがあれば、テレビなり新聞なり雑誌<ざっし>などを読んで、なんでもそれを自分の脳中に捕獲<のうちゅうほかく>して、時により千変万化に応用<おうよう>していけばいいのです。
あるものは何もわるいものはなく、それを正しく使えばいいのであります。好転<こうてん>していけばいいのであります。悪人といえども善人を作るために存在しているのでして、砥石<といし>としてそれが必要であります。自分さえ正しく神様につながっていれば、どんな悪の中に入っていても汚<よご>れるということはないのです。わるいものの中へも平然として入っていくだけの勇気がなくてはならないと思います。あそこへいくと汚れるから、というような姑息<こそく>なことをしていては、お救いにならないのであります。そういう中に入っても絶対にミイラ取りがミイラにならないという自己のもの、神様から流れてくる真理を把握<はあく>していれば、どこにいっても神様のひもはついているのですから、もとのところに戻ってこられるのであります。そのように、自分というものが神様とつながって確立したうえで、お救いができるような人間にならなければならないのです。
それには、身魂を磨くということが必要だと思います。いつも神様とともにあり、祈りと実践、奉仕によってますます智慧証覚をいただいて、向上していただきたいと思います。机の前で考えていても、智慧証覚は降<ふ>ってこないのであります。神様の御用をし、神様とともに生きれば、それがパイプとなって上から流れてくるのですから、行動しなかったらだめであります。神様の理想されることを具現しよう、神様とともに生きようということが、信仰の真髄<しんずい>であります。神様とともに嘆<なげ>き、神様とともに喜び、常住坐臥<じょうじゅうざが>神様とともにあるという気持が、神第一ということであります。すべてのことを神様のため、神様の目的のためとして、それを第一義にして動いていくのが、神第一の生活ということであります。