(一) 善言讃詞の歴史

 はじめに善言讃詞の歴史的経緯について述べてみたい。

 本教は昭和十年一月一日に「大日本観音会」なる名称のもとに、明主様によって立教されたものであるが、ご承知のごとく、明主様は実業人として活躍しておられた大正年間から信仰に深い関心を示され、ついに昭和三年の立春の日に、すべての事業をなげうたれ、専心各宗教の研究と、心霊面の探究に全身全霊を傾倒されたのであった。

 そして、ご自身が、地上天国建設の大使命を神よりの受命者として一身に負われていることを感得されるとともに、その使命達成の機関としての新宗教創立をご決意になられたのである。

 かくて昭和九年十二月二十三日、東京麹町区平河町にあった応神堂と名づけられたご自宅で仮の発会式を挙げられたが、この日はまた明主様の第五十四回目のご生誕日でもあったので、そのお祝いも兼<か>ねてのお祭で、この時はじめて天津祝詞についでこの善言讃詞が奏上されたのであった。

 ついで前述のごとく、約一週間後の昭和十年一月一日の正式な発会式(開教)に奏上されて以来、本教独特の祝詞として採用されたものである。

 この祭典において神道的形式が採られたが、「大日本観音会」という名称が示すごとく、この祝詞は、観音の妙徳を礼讃し、その威徳によって招来さるべきみろくの世の状態を描写した独特のものであって、その奥には夜から昼へ、仏界から神界への推移──霊界転換などの深い神意がこめられており、神道的祝詞ではあるが、明主様のお言葉に、

 『観音経を縮めたものです。この経はもとはインドの言葉である梵語で書かれ、二千数百年前のインド人の生活に合っていた。……現代には現代に適応する方法でなければならない。それで善言讃詞を作ったのです。ところで、日本の祭典は古来神の形式を採っていた。千三百年前仏教が入ってきたが、その前まではすべて神の形式であり、本来は祝詞であった。仏教のよい点を神式にしたのが善言讃詞なのです』『あれは仏教の観音経を土台にして、和歌のように作ったものですよ』
とあるがごとく、観音経中の字句も随所に使用され、韻を踏んだ流麗清澄なる美しい響きを魂深く沁み込ませる文字どおりの善言であり讃詞である。

 さて、昭和十年の開教後数年を経て、世界大戦前夜の暗黒時代に突入した日本では、思想統制、言論抑圧、そして宗教の弾圧が厳しく、昭和十三年になると政府は全面的に新宗教の活動を禁止するにいたり、明主様もやむなく宗教として活動することを断念されて、民間療法による救済運動として立たれることになった。善言讃詞もその時点において奉唱することが一時的に中止されたのであった。

 昭和二十年に戦争が終って信教の自由が許されたとき、本数が宗教法人日本観音教団として宗教的活動を再開したのであるが、それを期して再び善言讃詞は天津祝詞とともに奉唱されることになった。以来十年、ときに章句の改訂はあったが、信者に親しまれ続けてきたこの祝詞は、昭和三十年二月、明主様ご昇天とともに、二代教主様より、神前では奏上せず、仏壇、みたまやにのみ奏上するようにとのお言葉をいただき、さらに昭和三十七年五月、現教主様のお言葉によって、奉唱をとり止めることになったのである。

 右は単なる時間の経過に伴う表面的な事実の記述であるが、その内面には教団活動の変遷に伴う霊的な深い意味が存することと拝察されるのであって、明主様ご在世中にも、教義上きわめて重要と考えられる改訂が数次にわたり、特別な時期に、明主様のお筆によって行なわれている。

 したがって、現教主様も、ご神業の一大変転に伴う改訂の時期くるまでは一時的に奉上を見合わすべきであるとご判断になられて中止されたるものと拝察されるのである。

 このたび、箱根における光明神殿が竣成し、新しく御神体をご本座申しあげ、盛大なる御本座祭が執り行なわれたが、このご本座の意義についてはあえてここに事新しく述べるまでもなく、信者たるものはいろいろの機会に御教えもいただき、勉強もされ、また、さるべきことと思うが、いよいよ本教が地上天国建設の模型的活動という域を脱して、世界的に、世界平和と人類至福の希求という大神業──つまり光明遍満の理想世界建設という、外に向かっての活動と、神のみ許にある人間としての資質の向上という内面的人格形成への活動の二面をこの混迷せる社会にうち出さんとするに際し、本数の特質と理想を強調し、しかも従来の宗教を排撃するというのではなく、これと協調するとともに、真理を教えつつこれを吸収せんとする大理想を端的に表現しているこの善言讃詞こそ、もっとも本教を象徴しているものとして、箱根光明神殿が完成し、神力顕現の時期に合わせて、再び神前奏上詞として復活のお許しを得たものである。まことに本教思想の地上天国の様相とそこに住む人びとはかくあるべしと、本教創立のおりにすでにお示しくだされた明主様のみ心は、いまや信徒の胸にふつふつと湧きあがりつつ、その実現に向かって信仰実践を誓いまつる大言霊となって全大宇宙に鳴り響かんとしつつあるのである。