容貌は気にしなくてよい

 人間の美と申しましても形の美もあれば、精神の美もあります。両方揃うということが完壁<かんぺき>でありまして、そうありたいと願うのですが、なかなか揃うということは少ないようであります。

 けれども、形の美だけにしましても、天性の美しさを持って生まれてきた人は、やはり、前世の善根によるものです。それには、むろん、父母の形体的な遺伝<いでん>を受けることもありますが、とにかく、美しいということは恵まれたことであります。美人たるものは大いに美人たることを神様に感謝しまして、ますますその美を磨いて、世の中を明るくし、人の目を楽しませれば、それが自然に叶っているものと思います。さらに、外面の美ばかりに重点をおかず、信仰に入って内面を磨き、善<よ>いことをするならば、その内面の美は必ず外面に現われて、錦上花<きんじょうはな>を添えるのであります。

 古くさい教えの中には〝世の中には美人よりもおかめの方が多いのだから美人たるものは遠慮<えんりょ>して、なるべくその美を内輪<うちわ>にしなければならない〃と教えた道学者もあったのですが、美人はどれだけ世の中を明るくするかしれないのですから、そんな遠慮はいりません。どこまでも天性の美を伸ばしてもらいたいと思います。ただし、その美をどこまでも善のために活用<かつよう>してもらいたいのです。これを悪用したならば、その徳に傷がつき、やがてはその美さえも光を失<うしな>っていくのであります。 また、おかめの方もけっして悲観はいらないのです。内面の美というものは、さらに美しいものでありまして、内面に美がありますと必ず外面に現われてきます。それにいくらおかめでも、探<さが>せば形の上にも必ずどこかにいいものがあります。目がきれいだとか、口<くち>許<もと>に愛嬌<あいきょう>があるとか、それからまた、味のある顔もあります。人によるとお人形のような端正<たんせい>な美しさよりも、少し凸凹<でこぼこ>があった方がいいというような好みもあるのです。ですから、美の標準<ひょうじゅん>は時代により、人により、いろいろ変わっているものですから、けっして悲観はいりません。

 要するに、外面の美にしろ、内面の美にしろ、自分の美を認めてくれる人と結ばれれば、これが一番倖せなのです。大概<たいがい>の人は、自分の奥さんを天女か弁天<てんにょべんてん>さまの再来かのように思っているものですが、それでこそ天下泰平<てんかたいへい>、非常にいいのだと思っております。