『私の名称に就て』

 今度本郷弓二氏が、私か信者に対して、時々言う弟子の言葉について、色々心理的にかかれたが、これも面白いと思ったので少しかいてみるが、私は現在は光明如来の働きを主にしておるので、釈迦如来、阿彌陀如来と同等の地位として、釈迦如来がよく日われた十大弟子の意味と思えばいいのである。又浄霊を専門にしている人と、普通信者と紛れやすいので、そう言った方が判りやすいからでもある。

 氏のいうごとく、以前私は大先生と呼ばれた事があったが、その時は観世音菩薩という菩薩行であったからそれでよかったが、如来となってから明主の名にしたのである。また自観とは自分は観音の働きをしてるという意昧であり、その他和歌の名の明麿もこういう訳で付けたのである。それは皇太子殿下の御誕生が、昭和八年十二月二十三日で、十二月二十三日は私も同じ月日に生れたので、忘れもしない、生れて初めて、右の昭和八年十二月二十三日に、信者の勧めで誕生祝をしたのである。そんな訳で殿下の御名が明仁と発表されたのを記念したい為、その時明麿と名付けたのである。又、ユーモアー的のものには、明鳥阿呆<あけがらすあほう>の名を用いているがこれも由緒がある。それは明治の初め頃、大阪に朝寝坊喜楽という冠句の宗匠があって、この人は当時相当認められた宗匠で、その二代目が大本教の出口王仁三郎師で、朝寝坊閑楽の名で、旺んに信者間に冠句を奨励されたので、私もその弟子となり、好きな為大いに努力し、その甲斐あって三代目朝寝坊暉月という名を貰ったのである。それから笑の泉でも知らるる通り、選者となって一時は、私の弟子数十人に対し大いに冠句を奨励したものである。ところがその頃、私は非常に朝寝坊だったので、早起きになりたいと思い、そこで改名したのが今の明烏阿呆である。すると不思議にも、それから早起きになって、今日も続いているのであるが、言霊の妙用も馬鹿に出来ないのである。

 そうして神様は、私の霊的地位や、仕事の関係などから、相応した名前を御付けになるので、今後といえども名前が変るかも知れないし、変らないかも知れないと思うが、考えてみると、明主の言霊は、メシヤと五十歩百歩だから、あるいはメシヤの名前になるかも知れないとも想っている。 

「栄光121号」 昭和21年09月12日

栄光