若いうちは求めてでも下座の行

 下座<げざ>の行<ぎょう>をいやがらずにやることは青年にはよい鍛練となり、大切なことです。もちろん、みなさまはやっておられましょうが、若くていい位置<いち>につかれる場合もあります。たとえ、そういう位置につかれても、自分から求めてでも下座の行をするということは、人の上に立つものとして、極<きわ>めて必要なことであります。

 また、救世教の青年は、普通<ふつう>の青年のようなことをやっていてはいけないのであります。一歩も二歩も前に出て、信徒としての奉仕もしなければならないのであります。人によっては困難<こんなん>な事情もあると思いますが、困難があればあるほど、神様からより大きな力と光を授けていただけるのですから、けっして心配はいりません。

 神様はできないことをしろとはおっしゃいません。やれば必ずできる、いやできるように神様がしてくださるのですから、まず、なそうという心そのものが大事であります。できないからしないというのは消極退嬰<たいえい>のやり方であって、なんでもなせばなるのであります。これからは積極的精神を大いに発揮<はっき>して、万障を克服<ばんしょうこくふく>し、信仰に立脚<りっきゃく>した青年のすばらしさを、世の人びとに示していかねばならないと思います。