当時の学校制度

 明治政府の指導者たちは、西欧列強に対する日本の近代化の遅れを取り戻すために、西洋の文物や科学、技術の導入、摂取に懸命の努力を払った。とりわけ、国家に有為な人材を育成するため、近代教育を重んじ、学校という組織的な教育機関の普及に大いに力を注いだ。

 たとえば、明治初期のわが国の大学の様子を調べてみると、官学では、現在の東京大学は幕府時代の開成所と東京医学校を合併し明治一〇年(一入七七年)に東京帝国大学として発足したものである。私学では、安政五年(一八五八年)に、福沢諭吉が独立自尊の精神を建学の目標に掲げ、洋学の塾(後の慶応義塾)を創設。これに遅れること二十有余年、官学に対抗し、在野の溌溂とした自由の学府を旗印に、大隈重信が東京専門学校(後の早稲田大学)を開設している。明治一五年(一八八二年)のことである。そのほか、東京法学社(後の法政大学)、明治法律学校(後の明治大学)、イギリス法律学校(後の中央大学)、皇典講究所(後の国学院大学)なども、明治一〇年代にそれぞれ開校されている。

 政治面では、明治一八年(一八八五年)には、伊藤博文が総理大臣となって、わが国最初の内閣が生まれた。翌年には、教育制度上重要な法令が相次いで公布をみた。

 明治一九年(一八八六年)の三月には「帝国大学令」、四月には「小学校令」「中学校令」「師範学校令」、五月にはこれらの法令に基づき、小・中・師範学校の教科書の検定制度が実施されることとなった。また、「小学校令」によって、初等普通教育は尋常小学校(義務制)と、高等小学校の二段階が、それぞれ四か年と定められ、義務教育の制度が確立したのである。 明治二三年(一八九〇年)七月には、初の衆議院議員選挙が行なわれ、一一月には国会の召集をみた。その前の月、すなわち明治二三年一〇月三〇日には「教育に関する勅語」(通称「教育勅語」)が発布された。それは、憲法の制定、帝国議会の開催、内閣の更迭などにより、一国の文教方針に動揺があってはならぬとする明治天皇の深慮からなるもので、わが国の教育の根本方針が明示されている。これが第二次世界大戦の終わりまで、長くわが国民教育の規範となったのである。

 このように明治一〇年代から二〇年代にかけ、近代的な国家としての形態が整えられていった時代に、教育制度の整備、充実がその重要な施策の一つとして図られたのである。

 多くの公立小学校が新設されたばかりでなく、江戸時代以来の「寺小屋」とか「私塾」などまで、公立、私立の小学校として次々に公認された。そのために明治初期の小学校の増加ぶりは大変なものであったという。

 私立の小学校の中には、一人の先生が自宅の一部を教室とし、一つ教室の中に何組もの生徒が同居しているといった、いわば寺小屋式の学校も多かった。教祖が初めて入学した日新尋常小学校は、現存している「小学校設置願」という記録によれば、「敷地二五坪、生徒五〇人、教員一人」とあり、これによって、おおよその様子がわかるというものである。

 このような規模が小さく粗末な小学校もあった反面、後に教祖が転校した公立・浅草尋常高等小学校のように名実ともに内容、形態の整った名門校もあった。新政府のお膝元、東京の小学校でさえ、実態はこのような玉石混こうこう淆〈ぎょくせきこんこう〉の状態であった。