手数をいとわず愛情をもって

 この世で長生きして、善徳を瞬々<しゆんしゆん>に積んでいくならば、だんだんと幸福な境地に達せられるのであります。といって、その境地にいきたいから善をするというのでは、まだ真の善とは申せません。真の善とは、善のために善をするもので、なんら報酬<ほうしゆう>を求めないものであります。真のために真を、善のために善を、また、美のために美しいことをする。これが真善美の世界であります。

 万一、善をしたために、他の人からひどいめにあったとしても、これは神様のご都合であると思って、人を恨<うら>まぬのが最上の善でありますが、私どももこの最高の善にいかなければならないと思います。もちろん、一足飛<いつそくと>びにはいけません。最初は低級の善からはじまるのです。まずお金がほしいとか、こういう利益があるから入ろうとか、商売が繁盛<はんじよう>するとかいう、小乗善から入るのが順序<じゆんじよ>であります。そして、だんだん階段を踏<ふ>んで感謝をし、ありがたいということがわかって、神様のお心と同化<どうか>し、神様のお仕事を自分の仕事と思い、神様の喜びは自分の喜びというように、神様と一致<いつち>するようになって、信仰がだんだん大人<おとな>になっていくのです。

 ですから、「人見て法説け」で、相手の現在の立場を考えてやり、だんだんに喜ばせて、だんだんに近づけるという、この親切さ、手数<てかず>を厭<いと>ってはいけないと思います。やはり手数をかけているうちに、切っても切れない愛情が作られていくのですから、手数なくして、いい所だけを望んでもだめなのです。ですから、私どもはつねに親切<しんせつ>を旨とすべきであります。