魂を打ち込んで立派な信者に導く

 自分のお世話している信者の信仰を足踏<あしぶ>み状態のまま放っておいてはなりません。少しでも前進し、向上させることが大切であります。万一自分のお導きした信者さんから、白分に勝<まさ>るものが出れば、鼻<はな>が高いと思わねばなりません。

 いずれにしても導くためには、まず自分自身が進んでいくよう努力せねば、人を導ききれません。人に働かせるだけでは駄目で自らも廻っていなくてはいけません。車の心棒<しんぼう>はじっとして、一見動いていないように見えますが、よく見ると、一番早<はや>い速度<そくど>で回転<かいてん>しております。それと同じく上に立つ者は、全身全霊<ぜんしんぜんれい>を気くばり、心くばりに使っていかねばならないわけで、人間生きているかぎり、みな御用があります。御用のつとめぶりで誠の有る無しがわかります。

 たとえば、家を建てる場合、体裁<ていさい>だけを作って、手が抜<ぬ>いてあったとしたら、その家は外見<がいけん>はよくても、雨や風でたちまちガタついてきます。信仰生活においてはことに手を抜くことはできません。人を導くにも、自分の魂を打ち込んで、試でやっていただきたいと思います。