立春祭から三日後の二月七日は、前年一一月、箱根から戻って以来の浄化の中でももっとも強い浄化があり、激しい苦痛に見舞われた。教祖は終日、床について静養した。しかし翌八日、浄化が幾分弱まり、気分も好転すると、瑞雲郷に行くという。教祖の身を案ずる奉仕者が、はらはらする中を、瑞雲郷におもむき、自動車から車椅子に乗り換え、工事の進捗を見て回った。
それはこの世に命がある限り、聖地建設の指揮を執ろうという、文字通り命がけの情熱から、刻々と衰える肉体の限界を越えて、神業に生ききる、凄まじいまでの姿であった。
視察を終え、碧雲荘に無事帰ってきた教祖を目のあたりにして、奉仕者は一様に安堵の胸をなでおろしたのであった。
この八日には、教祖にとってこのうえない喜びごとがあった。それは長年、望んでやまなかった色絵藤花文茶壷が午後になって届けられたことである。
通称「藤壷」といわれるこの壷は、江戸時代の初期、京都に出て京焼きの祖となった陶工、野々村仁清の作である。仁清は轆轤(陶器の泥土をこね、形を造るために用いる滑車)の名手〉といわれただけに、この壷の豊かな姿のすばらしさが、さらに、満開の藤の花が微風に揺れ動く様を、色彩も美しく描き出した絵付けのみごとさはほかに類を見ない。仁清を代表する傑作である。
教祖は昭和二九年(一九五四年)の暮れごろ、藤壷を入手できそうだと知るや、即座に購入の意志を固めた。しかし、名品とうたわれ、国宝にも指定されていただけにその値は、三〇〇〇万円を下らず、教団にも、それほどのまとまった資金はなかった。そこで教祖は、かねてから係争中であった玉川・宝山荘を譲渡することを決め、それを示談によって解決し、その金を壷の購入にあてることにした。
この「藤壷」が届けられた時、教祖は椅子に坐って庭を眺めていたが、木箱から壷が取り出されると、黙って感慨深げに見入り、しみじみと喜びをかみしめている様子であった。天下の名品を前にして、あたりには限りない静寂の気がただよっていた。
教祖はその夜ずっと、「藤壷」を枕元近くに置いて寝についたのであった。
当初、「藤壷」が届けられる日取りは、八日よりもあとになるはずであったが、先方の都合によって急遽繰り上げられたのである。教祖は翌九日の昼過ぎから意識不明の重体となったから、もし一日到着が遅れていたならば、教祖は長い間待ち望んでいた名品を間近に置き、その実を愛しみ堪能することもできなかったであろう。昇天という大事の後、関係者は、
「間に合ってよかった。明主様にお喜びいただいて本当によかった。」
と、「藤壷」が教祖存命中に届いたことを大きな奇蹟として受け止めたのである。