宗教の役割とこれからの学問

 日本は過去数世紀に亘<わた>ってインドや中国、欧米の文明を学んでまいりました。これはちょうど、みなさまの年ごろのように日本も若かったためで、もっぱら他人のものを吸収<きゅうしゅう>する時代だったからです。日本ほど根気<こんき>よく長期に亘って、全世界の文物<ぶんぶつ>を片<かた>っ端<ぱし>から吸収してきた民族は、他に類例<るいれい>を見ないでしょう。それはなぜかと言いますと、日本は二度目の世界改造にあたっての大役、つまり、世直しの先頭<せんとう>をつとめる平和世界の建設者とならねばならない運命を担<にな>わせられているからで、この大役があるがゆえに、永い間世界のことを学んできたのであります。

 日本が他から学ばなかった個有<こゆう>のものといえば、日本に伝<つた>わる惟神<かんながら>の道であります。一名霊主体従の教えであります。物質の学問に世界中の人間が嵌<はま>り込んでしまって、二進<にっち>も三進<さっち>もいかなくなっているとき、日本のもつこの惟神の道は、人の造ったものでなく、大自然の道そのものであり、光であり、救いであります。

 真の日本青年ならば立ち上がって、日の本の霊主体従の道、霊体一致の行ないを自分自<みずか>らしてみせて、唯物一辺に傾いた世界人類の迷妄<めいもう>を、開いていかねばならぬと思うのです。社会や学校で教えられることは、すべて物質の学問であって、これは知識のみです。知識は物質面のたすけにはなりますが、精神の糧<かて>とはなりません。だから、神様を否定<ひてい>するのは当然であります。

 神様を見る力は六感<ろっかん>、七感、八感の力であって、これは神様から内流<ないりゅう>する真の智慧即叡智でなければだめです。宗教はそれを与えるのであって、学問は物質面を向上<こうじょう>させ、宗教は精神面を向上させる、それではじめて霊体一致の人間ができあがるので、どちらもなくてはいかぬものなのに、今日の人は宗教を毛嫌<けぎら>いし、無用の長物と思い、それどころか、すべてインチキ邪教<じゃきょう>と看做<みな>して、侮蔑<ぶべつ>することをもって、文明人の誇<ほこ>りとしているのは残念であります。

 これも過渡<かと>時代のご経綸として、止<や>むなきご時勢<じせい>であったのですが、もはや、神様の出現の時期、本教で申す昼間の時代となって、二十一世紀ごろからはだんだんと玄学<げんがく>と言いますか、霊学を含<ふく>むすべてのもとを突<つ>きとめる学問が、次第に抬頭<たいとう>していくことになると思います。そこまでいけばもう大丈夫<だいじょうぶ>で、一般人も神様の存在を疑わなくなるでしょう。それまではやはり宗教が霊界について教えさとし、物質一辺に片寄<かたよ>る世界を、矯<た>め直<なお>す力となっていかねばならぬと思います。