總斎の修行

 總斎自身もこれまでに多くの霊的修行を積み重ねてきていた。だからこそ、明主様の偉大なご神格をたちどころに見抜くことができたのである。

 總斎は宝山荘に明主様を訪ねる以前、信仰を求めて解脱会に入会していた。解脱会とは、昭和四年に岡野聖憲が設立した宗教で、信徒は岡野の教えを日々の生活の中で、実践し体得することが求められる。すなわち「生活即宗教」である。

 岡野は大正十四(一九二五)年に大病を患うが、この時、病院で神秘的体験をする。退院後、ある霊能者との出会いによって霊的な世界へ目を開き、神奈川県の丹沢山系での修行によって霊能力を身につけ、次第に宗教の世界を目指すようになった。昭和三(一九二八)年には東京下高井戸の別荘に来訪した皇族との交流の中で、模索してきた道が明確化する体験を得ることになった。そして「一切の欲望を抛擲<ほうてき>し専ら精神教化の道を樹つるに構造する」という決意を固め、昭和四年に解脱会を立教したのである。

 教義は昭和九年に「五法則」としてまとめられ、昭和十年に創刊された月報『解脱教』において、「敬神崇祖、感謝報恩」「自己反省、自我没却」「三網(国土・父母・社会)五常(忠孝仁義礼の生き方)」などを中心にさまぎまな形で展開された。

 また解脱会の聖地である埼玉県北本宿の霊地を整備し、萬霊魂祭塔、太陽精神碑、頌徳碑を建立、ここに教えの根本があるとしたのである。しかし總斎と解脱会のつながりの詳細は現在のところよく判っていない。

 大正十年頃、三十代半ばであった總斎は、東南アジアからインド、ビルマなどの東南アジア諸国、ニュージーランドにまで出かけている。船員として海外に出たらしく、總斎の海員手帳が現在も残されている。總斎の海外渡航はこの手帳によって二度ほど確認されている。なぜ若い頃に海外に出ていったのか、これは總斎自身が何も書き残していないので理由は不明である。しかし、船員として出国する以上、船舶海運業者とのつながりがあったことは確かであろう。岡野は解脱会を開く前、明治の終わり頃から大正期にかけて海運業を営んでおり、特に大正の中頃には、好景気の折相当手広く事業を広げていた。總斎が船員として海外に出た頃と、岡野の海運業時代とがほとんど一致する。岡野は明治十四年生まれで總斎より五歳ほど年上であった。總斎はこの頃、海運事業の関係で岡野と親しくなったのかもしれない。しかしこの時代の總斎に関しては不明の点が多く、今後も広い角度からの調査が望まれる。

 さて、總斎は解脱会での活動ばかりではなく、毎朝、水垢離<みずごり>をとってから神社に参拝に行ったり、あるいは滝行を行なったりと、自ら修行に励んでいた。もともと總斎は自分に具わっている霊的な力に早くから気づいており、その後、ますます霊能力の開発に努力していたのだ。だからこそ、特に言葉を交わさなくても、明主様と總斎の二人は見えない世界でのつながりを感じ、霊的な力によってお互いが分かりあえたのであろう。明主様のご慧眼や總斎の霊的直観、人を見る超常的能力を持った二人だからこそ、このような出会いがあり得たのである。あるいは、この出会いはあらかじめ神が予定されていたのだろうか。