總斎の霊能と先見性

“この人は大きい”という言葉があるが、その意味するところはいろいろとある。この言葉以外、總斎を評することはできない。多くの人たちに渋井總斎の思い出、印象などを聞くと、大抵の人は「大きな温かい方でした」と答える。たしかに気宇壮大であったが、体も大きく感じたというのである。だが、実際にはそれほどの大男ではなかった。身長は、当時としての平均の五尺三寸から四寸(約百六十四センチ)であったが、横巾と厚みがあった。目方は二十六貫(約百キロ)近くあったという。また頭の大きさは格別であった。俗に鉢が大きいというが、總斎の頭も現実の大きさ以上に見えたようだ。考えることも行動も桁はずれに大きかった。そのような總斎が、“大きく見える”のは当然であった。

 昭和十四、五年頃の詣であるが、当時、新宿・角筈の店と總斎の母の隠居所とは別であった。ある時、その隠居所に柴の薪が大八車で続々と運び込まれてきた。隠居所の周囲から庭に至るまでいっぱいになり、まるで柴で建物が埋まってしまうような具合なのである。伝えられたところによれば、この柴を運び込んだ植木職は、
「隠居所で薪がなくなったので届けようとしたところ、旦那のほうで山ごと買おうと言ったそうだよ。大きいことが好きな旦那と聞いていたがびっくりした。すでに柴が貨車で新宿駅についているので、今日中に運び込まなければならないんだ」
 と言っていたという。一山買った理由として、總斎は、
「山を買えば材木も取れ、炭を焼くこともできるなどさまぎまな有利がある。大きいことはいいことであり、たいそう得になるのだ」
 と教えていたようだ。

 この話はのちに明主様の耳に入り、明主様は總斎を前にして、「渋井さん。薪を買うのに山ごと買った方が得だからといっても、普通の人ではできない。渋井さんだから考えることで、あなたの発想は飛び抜けている」
 と感心されたというが、隣に座っておられた奥様(二代様)が、
「えーっ、薪を買うのに山ごとですか」
 と絶句されたという。以後この話も伝説化し、古い幹部にはよく知られる話となったが、実はこの薪買いの伝説と同様な話がいくつか伝えられている。

 のちに教祖のご印を刻された書家で、かつ二代様ならびに三代教主様の書の師となられた松林天上先生に、總斎の家人が書を習うことになった。家族全員が稽古することになり、出張教授をお願いした。

 始めて間もなく、稽古に使用する半紙について、先生から、
「少量ずつ買われるより、一〆(二千枚)買われたらいかがか」 と勧められた。当時は半紙は貴重品であり普通は五帖(一帖十枚)、十帖の単位で購入する人が多かった。

 總斎はさっそく、
「紙はどのくらいありますか」
 と質問をしたが、最初、先生はどういう意味か判りかねた様子であった。結局、總斎の言いたいのは“紙屋に在庫がどのくらいあるか”という質問であったことが判り先生はびっくりされたという。

 数日後、トラック一台の半紙が總斎の家に届いたが、前述の薪の例と同様、今度はその紙の置き場に困り、結局、家作の空いているところに置いた。しかし、そのお蔭で、「これだけ紙がある。全部を使い切りなさいとは言わぬが、毎日稽古するよう」 
 と家人は申し渡されたので、これには家族全員が閉口したそうである。のちに松林先生は、 
「お稽古に半紙一〆を買われる方も稀にしかいないのに、トラック一台分を買われた方は空前絶後です」 
 と、總斎の話になると、終生この話をされていたという。

 總斎の霊能力のなかでは特筆すべきことがある。例えば曇天のなか、雲を裂き富士山を見せたり、雨を降らせたり、豪雨を鎮めたり等々した。「予知能力」においても戦争中に空襲によって火災に遭い焼失する家を地図を見ながら予見したり、その実例は枚挙にいとまもない。
「昭和二十一年五月、渋井先生に随行して地方の講習に出向しました折、東海道線沼津駅での出来事です。ホームで汽車を待つ間、ふと思い出し『先生、ここから富士山が見えたのではないでしょうか』と申しますと、先生は『ああ見えるよ。見せてあげようか』と言われ、じっと北の方を凝視されました。二分も経った頃、富士山の八合目ぐらいから上が、まん丸い雲の切れ目からくっきりと見えるではありませんか。治療の偉い先生とは存じておりましたが、この時、いったいこの方はどういうお方かと全身が硬直するようなショックで物も言えずに立ちすくむ私を、先生は微笑まれながら見ておられました」(『明主様と先達の人々』)と田原和子は語っている。

 しかし、晩年は単なる予知能力ではなく、自分の意志通りというか、言霊の力というのか、その言葉通りに実現することがあったのである。

 これは堀籠芳夫(宝生教会信徒総代)がよく總斎について語る場合に必ず話の中に出てくる内容である。同氏が生前語った言葉を引用したい。

 昭和三十年春、私は英国ロンドンに海外転勤が決まり、渋井先生のところに挨拶にいった時の話である。海外赴任が決まった私は、病床の渋井先生を見舞いがてら海外転勤の報告にうかがった。見舞いの辞を述べた後に、
「先生今度海外に転勤することになりました。転勤先はロンドンです」
 と報告したところ、渋井先生はそのことを聞き、私の顔を見ながら、
「堀籠さん、あなたの転勤先はロンドンよりニューヨークがよい。ニューヨークに行きなさい」

 私はびっくりして病床の渋井先生に、
「先生、転勤は私が決めるのではありません。会社が決めるのです。もう決定をしたので、せっかくの先生のお言葉ですが無理です」
 と、渋井先生はその言葉を聞いてさらに強く、
「あなたはニューヨークがよい。ニューヨークへ行きなさい」
 と重ねて私に言うと、すべてを言い尽くしたようにクルリと背を向け、静かに寝入ってしまった。

 渋井先生は浄化以来頭が少しおかしくなったと噂されているが、本当だろうか。私の言ったことが十分にご理解していただけたのかを疑問に感じ、一抹の不安と淋しい思いを抱きながら熱海の家を辞した。

 その後、しばらくして会社より呼び出しがあり出社したところ、急遽転勤先の変更を申し渡された。
「たいへん突然で悪いけど、赴任先をニューヨークに変更してほしい」
 と、その上司の言葉に私は驚愕した。
「ニューヨークヘ行きなさい」
 と言われた渋井先生の言葉が急に甦った。会社はいったん決定した辞令を簡単に変更することはない。今回の変更は会社の都合というより、渋井先生の言葉によって引き起こされたとしか思えない。渋井先生の言葉とその時の状況を思い出し不思議な思いで帰宅した。

 さっそく渋井先生に報告すれば喜んでいただけると思いながらも、出発まで多忙をきわめたため、報告が遅れそのうち節の訃報に接した。ついに偉大なる師にこの世で報告する機会を失ったことは終生の痛恨事であった。

 次は總斎が本教の専従になり、洋服店を廃業してからの話である。