總斎・渋井總三郎は明治十九年三月二十二日、埼玉県北埼玉郡村君村字名、現在の埼玉県羽生市大字名において、父倉次郎、母せいの四男としてこの世に生を受けた。四男として生まれたにもかかわらず「總三郎」と名づけられた理由は、兄がひとり死産だったからである。總斎にとって、この「三」という数字は意味ある数字として、その人生の終わりまでついてまわることになる。この点についてはのちに触れることになろう。本名は前述のごとく總三郎だが入信時、明主様に「總太郎」と改名していただき、後年、観音教団管長に就任した時に、明主様からさらに「總吉」という名をいただいた。また、これ以前に「練斎」という号もいただいている。
總斎の兄弟は十二、三人にものぼると思われるが、夭折した兄弟も少なくなかったので正確な人数は詳らかではない。總斎の長男、嘉丸が会ったことのある伯父と叔母、すなわち總斎の兄弟は、長兄茂十郎、次兄国松、すぐ下の妹マス、トモ、弟の卯助、礼作、哲夫の七名である。渋井哲夫はのちに總斎に請われ教団の役員に就任、事務関係の総責任者となったが、昭和二十五年の法難を磯に教団を去った。
渋井家の先祖には、管領上杉家に仕え、大宮・堀之内の城主であった渋井越前守や江戸中期の儒者渋井大室がいる。渋井家の先祖については、江戸中期に出版された『先哲叢談』に記載されており、また『漢学者伝記集成』(名著刊行会・昭和五十三年)に、渋井大室の事歴が記載されている。渋井總斎は、ある霊能者から、渋井大室の生まれ変わりと聞かされていたようであった。
渋井家は三つに分かれ、本家と二つの分家で構成されていた。總斎の家は分家ではあるが、本来は、長兄であった渋井總斎の先祖が家督を継ぐべきであったという。しかし、ある時期に家の都合があって、家督を弟に譲って分家したといわれる。
總斎は小学校を終え、その後、漢学の塾で四書五経を修めた。總斎の蔵書の中には四書(『大学』『中庸』『論語』『孟子』)、易、天文関係の漢籍が多く残されていたという。
塾を終えた後、彼は佐野にある鉄製品を扱う商店に勤めた。後年、よく家族に茶釜・製鉄・玉鋼等の作り方など、鉄にまつわる話をしていたという。その頃の商品の注文書、仕様書なども残されているが、すべて達筆な毛筆で書かれており、品物の図面もていねいに描かれている。この商店をやめてから、總斎は長兄茂十郎を頼って東京に出た。總斎の生家は濠<ほり>を廻らせた立派な屋敷であったというが、總斎の出生時には、相当生活が苦しくなっていたようである。一方、長兄の事業は順調だったので、總斎はしばらく長兄の事業を手伝った。当時の長兄の事業を親族の間ではポンプ屋と呼んでいた。今日でいえば水道配管工事の請負であり、宮内省御用達の看板を掛けた大きな事業であった。長兄は渋井兄弟の中で出世頭となり、埼玉の父母も長兄を頼り、上京するようになっていったのである。
その当時の技術では、井戸を掘る場合、水脈の当たり外れがあり、工事はなかなか難しいものであった。昔から山師というが、鉱脈を見るのと水脈を探る技術は共通する所があった。そのような作業をする人たちを霊能者集団であるとする学者もある。何本か掘って一本当たればよいが、簡単には当たらない。ところが、總斎が来て指示したところは必ず水が出た。總斎は気分のよい時に当時のことを家族に自慢げに話していた。工事の仕上げもたいへんていねいで、そのために担当の役人からもよく褒められていたという。
ところで、宮内省関連の仕事との因果関係はよく判らないとしても、總斎は霊的な問題で皇室というものの存在に大きな影響を受けていたようであるが、当時の状況では内容を口外することははばかられた。しかし、總斎の言葉の端々からそれはうかがわれた。のちに「大内」という屋号を自身の商店名に使うが、宮中の別称、大内山より採ったと總斎自身が語っている。
總斎は、長兄の会社での業務を一通りこなすことができるようになると、新しい仕事を求めて転職した。總斎の妹・マスの夫が洋服の仕立、裁断等を行なう洋服商を営んでいたので、興味を覚えたのである。彼は以降、その仕事を覚えるまでマスの家で居候をしながら洋裁の学校にも通った。この話は總斎の身内に伝わっており“總三郎はたいへんに器用で、物覚えがよく、洋服の仕立裁断などを早く覚えたので、教えた人がその呑み込みの早さに困るほどであった”という。のちにこの洋服縫製業が總斎の定職となる。總斎は明治四十五年、二十代もまだ半ばの頃に、明主様と因縁浅からぬ浅草で初めて洋服店を持つようになった。しかもその店の最初の屋号を武蔵屋と名づけた。明主様のご先祖の屋号が同じ武蔵屋だったことを思えば不思議な感に打たれる。屋号は次いで日東屋と改称された。その後、店を大正八年頃に新宿の角筈に移し、“大内”と名乗るようになったのである。当時の名刺には、
東京府下豊多摩郡淀橋町字角筈一丁目七三八 大内洋服店
とある。
總斎は若い頃、住居も職も定まらず、仕事を覚えるとすぐ他に移るということを繰り返したが、仕事は何をやらせてもうまく、商売もたいへん上手であった。しかも若くして人望もあり、協同事業や資産提供の申し出も多かった。總斎には多方面から仕事の引き合いがあった。にもかかわらずそのほとんどを断り、さまざまな仕事をしたようである。總斎は自分が関心を持つことのできる、また力を本当に発揮できる仕事を求めていた。結局、總斎の性に合い、その後の生業となったのは洋服商であり、この仕事で成功した。当時としてはたいへんモダンな業種であった洋服商を、昭和十五年に本教の専従として立つまで続けたのである。その間、幾度となく他の事業にも成功し、相当な資産をつくったらしいが詳細は判らない。しかし、總斎は現状に満足することができず、いずれ何か大事なことに身を投ずる予感があった、とのちに教団に専従した子息に語ったという。
總斎としては、洋服商は明治の末とすれば新しい職業であり、将来たいへん有望な仕事と思ったに違いない。彼は当時から、時代を見る目、感覚に素晴らしくすぐれており、俗にいう進取の気性に富んでいた。その表れとして、總斎はその頃、すでに海外に目を向けている。