食事のさまざま

 食事に好き嫌いの無かった教祖は、和食、洋食、中華料理など、なんでも食していたが、味に関しては、衣頬と同様に、これまた非常に鋭敏であった。

 和食で好んだものは、まず天ぷらで、とくに海老、鯔〈ぼら〉、穴子、それから野菜では薩摩芋、セロリー、また、獅子唐幸子、青紫蘇のような青味のものを揚げたのが好物であった。

 「天ぷらは毎日でも食べる。」

というくらい好きだった。東京に住んでいたころには、浅草の老舗「中清」をはじめ、有名な店に、よく天ぷらを食べに行った。昭和五年(一九三〇年)三月二四日の 『日記』につぎの歌が記されている。

 観音堂賽して人込中を分け中清に久方ぶりに入りけり

 昭和二三年(一九四八年)から教祖の料理係として奉仕した志太清が、ある時、天ぷらを食事に出した翌日、教祖に報告する献立表から天ぷらをはずしたことがあった。二日続けて同じ品を出せないというのは、料理人の意地でもある。教祖にそのわけを聞かれた志太は、
 「昨日の今日で、メニューとして書けません。」
と言った。すると教祖は、
 「昨日出したから今日食べないとは言えないだろう。好きなものは毎日でも食べたいのだ。」
と言い、さらに井上茂登吉に命じて、「大先生は天ぷらがお好き」と紙に書かせ、志太の部屋に貼らせたのである。その後も一本気な性格の志太は、何度か天ぷらを省略したので、その都度同じ貼り紙がふえていったという話が伝えられている。

 天ぷらと並ぶ好物は、鮎の塩焼きであった。初夏の解禁から一〇月末までは、毎晩のように食膳に乗せたが、長良川のものがとくに気に入っていた。

 そのほか、鱸〈すずき〉や鯛の洗い、鮪のとろも好きなものであった。

 洋食では、ビーフステーキが好きで、そのたれは味醂と醤油、葡萄酒を使った独特の味付けで裏面には歯切れがよいように隠し包丁がしてあった。舌鮃や太刀魚のムニエル(小麦粉をまぶし、バターで焼くフランス料理)、鱒のバター焼きかども好物のメニューにはいっていた。     

 *見えないように、肉の裏などへ、包丁で切れ目を入れること

 それから薄いスープで煮た鰤<ぶり>に、マヨネーズソースをかけたものや、鶏肉をシチューのように柔かく煮たものを好んだが、とくにチキンカレーは大好物であった。昭和六年(一九三一年)一〇月一日の 『日記』には、つぎのような記事がある。

 新宿へ廻りて中村屋方に入りライスカレーを初めて喰ひけり

 みずから店へ食べに行くばかりでなく、箱根、熱海に移ってからも、側近者を使いにやって中村屋のカレーを買ってこさせるなど、戦後になっても、変わることのない好物であった。

 野菜では、くわい、セロリー、薩摩芋などを好み、毎朝食後に、ふかした薩摩芋を食べることにしていた。それからセロリーをスープで煮たものも必ず献立の中にはいっていた。ある時、このスープ煮が切れたことがあった。するとさっそく教祖は係に、半分冗談をまじえて、

 「私にどういう恨みがあって、スープ煮を食べさせないのか。」

と注意するくらいであった。

 昼食は、チキンカレーとか、ムニエルにスープ、天丼に野菜の旨煮などがおもであったが、夕食は大体七品であった。そして夕食の時間が早いこともあって、夜の遅い教祖は、一〇時になると、夜食をとるのが常であった。内容は「日課」の項に記したようにごく簡単なもので、寿司や蕎麦、茶漬けのようなものを好んだ。

 美的感覚の鋭い教祖は、ごてごてしたもの、毒々しい色のもの、姿がグロテスクなものなどは嫌った。たとえば、「鯛のかぶと焼き」などが出てくると、

 「こわくて食べられない。もっと小さく切ってほしい。」

と言ったという話が伝えられている。

 また、正月の雑煮の餅は一寸一分(四センチメートル弱)と一寸三分(四センチメートル強)というように、料理によって、その材料を切る寸法が決まっているものもあった。

 志太はつぎのように話している。
 「明主様は嫌いなものはほとんどなく、何でもおいしい、おいしいと召し上がってくださいました。しかもそのスピードがじつに早い。洋食のフルコースでも大変早く、全部お上がりになりました。けれども、なんでも沢山食べるというのではなく、バランスを考えて召し上がった ようです。ご飯など、お茶碗に盛りよくつけますと、
 『私は肉体労働者じゃないよ。』
とおっしゃって、ごく軽くつけるように言われました。

 三時のおやつには、きんつばやホットケーキ、桜などをよく上がりましたが、
 『うちで作ったものには誠がこもっているのでおいしい。』
と喜ばれ、お客様に対しても〝うちの料理〟をけなすことはけっしてありませんでした。世間ではよく、『まずいものですが……。』といって勧〈すす〉めますが、明主様は反対で
『うちのものはおいしいから食べていきなさい。』
とよく言われてました。

 明主様の関西巡教には、いつも私もお供をして、一流料理屋の会食の時など、同じものをいただきました。ただしあとで、
 『あの店で食べたあれを作ってほしい。』
とよく言われましたので、いつも吟味しながらいただいたものでした。これは、早く私を一流の料理人にするためのご配慮からで、料理人として大変有難く思ったことでした。」

 神奈川県小田原市出身の衆議院議員だった小金義照は、ある時教祖に招かれた。そして、そのおりに出された鶏料理について、つぎのように絶賛している。
 「フランス料理では、とくにリヨンの鶏の味が世界一ということになっていて、私もそう思って食べたことがありますが、教祖のお宅でご馳走になった鶏料理にはかないません。そもそもうまい料理を作るのは、コックの腕だけでは駄目で、そこの主人の細かい指導が必要なんです。ああいう料理を作らせる教祖の日ごろの指導──心配りがよくわかります。

 あの日のスープも良かったが、鶏の味はまったく世界一でした。」

 教祖は味に敏感で、いわゆる食通として、日々の食事を大いに楽しみとしていたが、一方でみずからの体調に十分気を配ってもいた。

 昭和二七年(一九五二年)のこと、作家の大庭さち子が教祖に招かれて箱根を訪れたことがあった。美術品を見ながら歓談中、当時としては珍しい菓子や果物が次々と出されたが、教祖自身は茶をすするだけで、菓子などには手をつけなかった。不思議に思った大庭は、そのわけを率直に尋ねた。すると教祖は、「私は教団を背負って立っている者です。自分の身体であって、自分の身体ではない。決めた時間以外は、絶対に食べ物を口にしないように身体をいたわっているのです。」
と静かに答えた。大庭はこの時の印象を、

 「おいしいもの、珍しいものを食べるということは、われわれ凡俗の人間にとっては、大きな楽しみの一つです。教祖様もたしかに例外ではあり得ないと思うのですが、それを厳しく自制し、禁忌されるこの並々ならぬ決意の裏には、自分の身体であって、自分の身体ではない、命さえも信徒に捧げたものだという、崇高なお気持ちがなければ、容易に実行されることではありません。』と述べている。このように教祖は体調をくずして神業遂行にさしつかえることのないように、一方で絶えず自重を怠らなかったのである。

 すでに記したように、教祖は、信者から届けられた物、神から与えられた物を感謝しつつ、楽しみつつ食した。したがって、あり余る物を贅沢に食するというようなことはなく、質素な食事で済ませることもあったし、また、残り物は無駄にならないように気を付けていたのである。

 昭和二四年(一九四九年)、碧雲荘へ移って間もないころ、教祖は冬になると、ときおり、朝食に「浅草鍋」と称する惣菜をみずから作った。これは前日の夕食のおりに残った牡蠣フライなどをキャベツを敷いた帆立貝製の手付き鍋に入れ、火鉢に乗せて煮込み、ソースで味付けして卵とじにしたものである。浅草鍋という名は教祖の思い付きで、貧しかった幼少年時代を忘れず、食物を粗末にすることのないように、みずからの戒めとしたのである。また、係の者が、その日の献立を聞きにいくと、まず、あるものを尋ねてから、その範囲の中で作らせることが多かったのも同じ心からである。
 
 教祖は若いころから、酒はあまり飲まなかった。晩年になって、夕食のおり、多少酒をたしなんでいたが、その分量は大変少量で、猪口に一、二杯くらいであった。そのため、そのまま燗をつけると徳利が浮き上がってしまうので、それが倒れないように割箸で支えをしたというほどであった。

 教祖が好んだのは、酒よりむしろ煙草である。煙草については前述したように、実業家時代、外国製の刻み煙草を愛用していたが、後年は「朝日」を好み、ときにはパイプや、葉巻をくゆらすこともあった。教祖の吸い方には特徴があり、吸い込むのではなく、軽くふかす程度にとどめていたのである。若いころから、よく人に向かって、

 「煙草は胸に吸い込むのでなく、ふかすだけにすれば害どころか、頭の疲れを回復するのに有効である。」

と話していた。