試練によって信仰は飛躍する

 神様は、仁慈無限<じんじむげん>にまします反面、厳<きび>しく鍛練<たんれん>なさる場合もありまして、なかなか人の意表<いひよう>を衝<つ>かれることもあります。かつて私も、教主とならしていただく直前の数カ月、神様からとくに身魂磨きを命ぜられた覚<おぼ>えがあります。それによって、私は、大きな力を授けられ、少しぐらいのことには、ビクッカぬ肚<はら>ができたと申しましょうか、一切万事<いつさいばんじ>を神様にお任せできる心境に、ならしていただけたのでありまして、いまにして思えば、全く神様の大慈愛<だいじあい>、明主様のご慈愛の賜物<たまもの>であったことがわかり、ありがたさ、もったいなさに感泣<かんきゆう>する次第であります。もし順調に甘<あま>やかされてばかりおったのでは、到底<とうてい>今日の反省も飛躍も、でき得なかったでありましょう。試練ほどありがたいものはないと銘記した次第です。

 ほんとうのご神徳は、一見ご神徳とは受取れぬようなことの中に隠<かく>されていて、むしろ、そのようなときこそ、より強い信仰が培<つちか>われていることに、気づきたいものであります。喜びごとが与えられたときはだれしも喜び、有頂天<うちようてん>になり、感謝感激<かんしやかんげき>はいたしますが、それによって魂<たましい>が練<ね>り鍛<きた>えられ、高められることは少ないようです。それのみか調子にのって、かえって気持にゆるみを生ずる危険<きけん>すらあります。失意の時にはつつしむ心が湧<わ>いて、かえって善い種を蒔くのに反し、得意の時には、失敗<しっぱい>の種を蒔くものです。
“好事魔多<こうずまおお>し”の諺<ことわざ>もありますように、好調の時こそかえって警戒<けいかい>すべきときともいえましょう。人生は変化に富むほど、過ぎ去ってみれば楽しいもので、内容<ないよう>の豊富<ほうふ>であることが何よりであります。

 結局、確固<かつこ>とした信仰さえあれば、喜びも悲しみも、すべて人格陶冶の具とならないものはないのでして、刀にしても鈍刀<どんとう>は別として、名刀<めいとう>ともなれば、幾度<いくど>となく火水をくぐり、打って打ってうち鍛えられ、はじめてものになるわけで、人間も優<すぐ>れた人格者になろうとすれば、それ相当の痛い目、辛<つら>い目を経<へ>なければ、まことの光は出ないのであります。ことに、教えの道のしるべともならせていただくには、楽しい道の反面、厳しい試練にも耐<た>えていくだけの覚悟<かくご>なしにはつとまりません。自分に都合のよいことばかりを期待<きたい>するようでは、御用の永続きはいたしません。明主様からも、『人並外れた仕事をする人や、神からの使命の重い人ほど、名刀的鍛練を課せられるものと思え』との御教えを賜わっております。

 また、神にも善悪ある世の中ゆえ、つねに抜<ぬ>き身<み>の中にある心構えをもって油断<ゆだん>なく、気くばり、心くばりをして、地上天国建設を目ざして、浄霊奉仕に専念させていただきたいものと思っております。