真の信仰をもった人は、たとえば、理不尽<りふじん>と思う迫害<はくがい>にあったとしましても、けっして向こうがそうなら、自分もそうしてやれといった、やぶれかぶれの態度をとるものではなく、相手が未熟なのであると思って許し忍<しの>ぶことで、思いあたる原因があるならばなおのこと、たとえ、自分で思いあたらぬことでありましても、やはり、自分の過世<すぐせ>に何かあったんだ、というふうに考えて、忍耐<にんたい>し、あとは神様にお任せして、楽な気持でいればよいのであります。やぶれかぶれになって、自暴自棄<じぼうじき>のふる舞<ま>いにおよぶというようなことは、一時的衝動<しようどう>を押えることのできない、弱い人のすることなのであります。
卑怯未練と忍耐とは、内容において雲泥の相違があります。神様からの智慧証覚をいただけば、正しい判断もつくというもので、これは忍ぶべきことと判断したら、あくまでも耐<た>え忍ぶことがよく、またこれは言わねばならぬと思ったならば、どこまでも所信を披瀝すべきです。言うべきことも言わず、だまっていたのでは、相手にもよいのかわるいのか、わからずじまいになりましょう。
このお道にある人は善意だけではなく、叡智<えいち>もともなわなければ、最善とはいい難<がた>いのであります。愛と智慧がほどよくかみあわされて、美しい正しい行動がとれるようになれば取次者としても一人前です。伊都能売的行動<いずのめてきこうどう>とは、これを指<さ>していうのでしょう。つねに伊都能売行をめざしていけば、いつかはそれに近づけるはずであります。