真の教育は中道の見方を教えること

 先日、プロテスタントの牧師<ぼくし>さんがこられまして、明主様の奥津城<おくつき>へ参拝<さんぱい>されましたが、その立派なのに非常にびっくりしておられました。ところが、プロテスタントはあまり形式<けいしき>を重んじない宗教ですから無理もないのですが、奥津城を見て、「こんな贅沢<ぜいたく>なものを作って、よく信者さんが文句を言いませんね」と言われるのであります。あまり意外な質問だったので、案内した教団の役員の方が驚いてしまったのですが、「実はこれは教団がこしらえさせたのではありません。教祖明主様のご恩、お徳<とく>を慕<した>って、大勢<おおぜい>の信者の真心<まごころ>が結集<けっしゅう>して、一週間で林を切り拓<ひら>いて、二月の厳寒<げんかん>を不眠不休で、みんな火の玉になってこしらえあげてしまったのです。言ってみれば、止むに止まれぬ最後のご奉仕<ほうし>である、という気持でわれを忘<わす>れて作ったものです」と話しましたところ、「なるほど、そういうわけですか」と理解<りかい>されましたが、形だけを見て、その当時の事情や精神を知らないと、こうした見当違<けんとうちが>いのことになります。

 唯物的観念<ゆいぶつてきかんねん>をもとにして見ますと、ほんとうの生きた人間感情というものがわからなくなって、物だけでもって善悪を批判<ひはん>するようになってしまいます。これは大いに改めていかなければなりません。今日学校の教育者は、ほとんど唯物的な学問を基礎<きそ>にして歴史<れきし>を解<と>き、いろいろなものを解いております。

 まだ考えの柔<やわら>かい双葉<ふたば>のころから、唯物的に教えられると、この世の真理というものがわからなくなってしまいます。これは大変なことだと思います。

 われわれの仕事は、そういう片寄<かたよ>った教えでなく、神様のほんとうに中道<ちゅうどう>の正しい見方を教えることなのです。この誤<あやま>った教育を呼<よ>び戻<もど>して、正しくものを見、正しく道を歩むというように、ほんとうの思想の中で、ほんとうの生き方をしてもらうというところに、本教の教育の使命<しめい>があると思います。