信仰は祈りから始まって、祈りにつきるのです。もちろん、人事<じんじ>をつくすことはいうまでもありませんが、根本<こんぽん>は祈りであります。もし、信仰者にして祈りの心を忘れましたなら、努力家<どりょくか>であり、技術的<ぎじゅつてき>に秀<すぐ>れ、経験<けいけん>に富んでおりましょうとも、それは、歩む方向が違うのでありまして、信仰の本筋<ほんすじ>からは離れていくものであります。行<ぎょう>即祈りで一体でありますが、とかく信仰が古くなりますと、しらずしらずご神徳をいただくことは普通のことのようになってしまい、たとえば、浄霊の場合でも自分では祈りつつ行なっているつもりでも、いつのまにか気持がゆるみ、動作<どうさ>だけが習慣的<しゅうかんてき>になされている場合がしばしばあります。だれしもあることでしょうが、そこを自戒自省<じかいじせい>してゆく心がけがないと、なまくらな浄霊になってしまいます。
みなさまはいま張<は>り切<き>って浄霊に、倍加活動<ばいかかつどう>に懸命のご努力をされておられますが、祈りつつやっておられるところは常に発展しておられるようです。祈りつつ行なう仕事には仇花<あだばな>はないはずです。すべて根本を大切にすれば、当然の帰結<きけつ>としてよき実<み>が得られるわけです。浄霊が救世につながるのも、常に祈りの精神<こころ>からなされているからなのです。このことは信仰の世界でなくとも、心の籠<こ>もらなかったときと、籠もったときとでは、仕事の結果において大変な相違があるものです。まして神様の御用においてをやであります。
人間の本能<ほんのう>として、だれでもが希求<もと>めたり、恐怖<おそれ>たりいたしますが、なかでも内にある最<もっと>も切実なものを祈りとして現わすのは、本質上当然なことであります。普段は祈らぬ無信心<しんじん>の人も、まさかのときになると思わず祈るものです。このように、祈りとは人間の本質から迸<ほとばし>り出るものであって、他から強要<きょうよう>されたり、義務づけたりしてすべきものではないのでして、自然に祈らずにはいられぬ心境<しんきょう>、それが、真の折りでありましょう。現在<いま>、全人類のうえには、はなはだ憂慮<ゆうりょ>すべき生命の危機<きき>が、おとずれようとしているのだと知りましたならば、だれしもが全力をあげてその危険を取<と>り除<のぞ>き、安泰<あんたい>になりたいと願わないものはないでしょう。祈りと実践<じっせん>とほ常に一致すべきものなのです。衝動的<しょうどうてき>な祈りに、順序と道をつけ、実践に導くことが信仰者のつとめです。
信仰は植えつけるというよりも、蔽<おお>われている人間の本質を正しく抽<ひ>き出すと申した方がより適切でしょう。唯物<ゆいぶつ>の教えばかり氾濫<はんらん>する現代では、人間の本質は曲<ゆが>められ、閉<と>ざされて、人間性はともすると失われがちです。これを正すには真の信仰以外にはないと思います。真の信仰者は形式はとにかく、必ず、神様への祈りがあります。信仰が弱まれば祈りもまた弱くなり、さらに、信仰を失えば祈ることもないでしょう。そして、内分<ないぷん>は閉ざされ、外分<がいぶん>のみに生きる人間となってしまえば、それは人間の堕落<だらく>であり、社会の堕落でなくてなんでありましょう。