学校も夏休みに入り、ちょうど、きょうは日曜日でもありますから、海や山も大変な賑<にぎ>わいであろうと思いますが、人々が涼<りょう>を求めて海や山へまいりますとき、みなさまはお光を求めて、このお山へ来られたわけでありまして、同じ山へ来られましても、その内容にはだいぶ相違<そうい>があると思います。しかも、こうしてすし詰<づ>めのお坐<すわ>りの行<ぎょう>をしてでも、(箱根日光殿)お光をいただかれにまいられましたことは、信仰なればこそであります。
信仰のない人がこのありさまを見ましたら、おそらく、酔狂<すいきょう>なことだという受取り方しかしないでしょうが、同じ人間で、かくも見解の相違があるということ、これが有神<ゆうしん>、無<む>神<しん>の相違でありましょう。
それはそれとして、本教信仰向上のポイントは、まず聖地の土を踏<ふ>み、そこから出発しなければ、真の力は得られないのでありまして、その自覚<じかく>が末端<まったん>にまでおよぶことこそ大事なことで、これは救世教信徒の信仰の在り方を決定するものと、私は思っております。