信仰に入りましたならば、初歩の段階からだんだんと中段、上段へ向上していかねばなりません。向上の遅速<ちそく>は人によりいろいろですが、向上すればするほど、自分のためというより、世のため、人のため、よりよき社会をつくらねばならぬ、あるいは真理を具現するためには真を教え、真を行わなくてはならない、という自覚が芽ばえ、利他愛に代ってくるものであります。これがほんとうの信仰のありかたであって、代償<だいしょう>を予期して信仰をするなどという行為は、初歩の段階なら許されますが、信仰の本質ではありません。代償を求めるということは、言わば取引であって信仰ではないと思います。たとえば、親は子を愛するがゆえに愛するのであって、いま愛しておけば、のちに孝行してくれるだろうと思って愛する者は、ひとりもいないようなもので、信仰も真の信仰ならば、せずにおれなくて信仰するのですから、ほんとうは報<むく>いをのぞむはずもないわけです。ところがそういう空<むな>しい心でおると、神さまの方から願わぬのに、どんどんご神徳を授けてくださるので、信仰とはまことに皮肉<ひにく>なものであります。
「栄光 五八〇号」