渋井總斎 年譜

明治一九年(一八八六)
・三月二二日 埼玉県北埼玉郡村君村字名 (現、埼玉県羽生市大字名)で父倉次郎、母せいの四男として生まれる。
 大宮、堀之内の城主渋井越前守、江戸中期の佐倉藩儒者、渋井大室の後裔

明治中頃
 村立小学校卒業後、漢学和塾に学ぶ

明治の終わり頃
 まず佐野へ行き鉄瓶製造などの技術を修得する。その後上京。 長兄の茂十郎が千駄ケ谷で宮内省御用達のポンプ業を経営していたため、その仕事を手伝う。そして、浅草に長らく下宿生活 を送る。実業家渋井總三郎の人間関係は浅草が中心。洋服裁縫 業を開業

大正五年(一九一六)(三一歳)
 この頃戸籍を浅草に移している

大正八年(一九二〇)(三四歳)
 この頃戸籍を新宿淀橋角筈へ移す
 アジア各国、台湾、上海、香港、ビルマ、シンガポール、カル カッタ、ボンベイ等を遊訪。海員手帳では二回の出国記録がある
昭和六年(一九三一)(四五歳)
 解脱会に入会(霊の研究を始める)。角筈二丁目に大内支部(約七〇〇~八〇〇人)があり、支部長を務める。母の隠居所だ ったところ

昭和一二年(一九三七)(五一歳)
・一一月「岡田式指圧療法」に入会。入門の動機は母親の病気を治そうとすることにあったという 

昭和一三年(一九三八)(五二歳)
・一月二六日 上野毛・宝山荘を訪ねる。明主様と渋井總三郎の最初の出会い。特に許しを得て特別講習を受講する。この日 に總斎は明主様にすべてを捧げることを決心する
・二月二一日 宝山荘を訪ねる。この日が二回目。明主様より直接、治療を受ける
・三月一日 この日より特別講習を受講する

昭和一五年(一九四〇)(五四歳)
・九月一五日 明主様ご夫妻を東京目黒の雅叙園に招待。これが発端となって翌年から毎年映画と会食の会が催されるようになった
・一一月二八、二九、三〇日 第二次玉川事件起こる。玉川署から二人の刑事が訪れて明主様が同行を求められる。医師法違反 でそのまま三日間留置される
・一二月二四日 明主様が廃業の届けと療術行為をしないという誓約書を提出される
・この年、一切の職を擲げうち専従として布教活動に専心

昭和一六年(一九四一)(五五歳)
・一月二二日大内会(五六七会)の発会式をかねた第一回会合が 東京芝の紅葉館で持たれる(この日は明主様の戸籍上の誕生日 )
・五月 明主様の綾部、丹波・元伊勢のご旅行に随行
・六月二二日 明主様の鹿島、香取両神宮参拝に随行
・七月二二日 大内会の会食会が江ノ島の対岸、片瀬の旅館「岩本楼別館」で行なわれる。台風の最中であったが、無事に明主 様の講話と会食会が行なわれた
・八月二二日 日光東照宮、二荒山神社、湯西川温泉への明主様のご旅行に随行
・一〇月二二、二三日 熱海、箱根への明主様のご旅行に随行
・一一月二五日 御岳神社旅行随行

昭和一七年(一九四二)(五六歳)
・一月二五日 總斎は幹部一同と、明主様ご夫妻を新宿の角筈の治療所に迎えた。大内会は、日の出の勢いでますます発展する ようにとの願いから、「日の出会」と改められた。明主様がこ れを記念し、色紙に和歌や冠句を書かれている
  天の岩戸開け初むるなる此時に日の出の会を吾作りける
  これからは 日の出の勢(いきおい)と出来た会
  朝寝坊いよいよやめて 日の出会
 この日は引き続き、新宿の武蔵野館で映画を鑑賞し、東京会館で講話と会食の会が開かれている
・五月 大宮・氷川神社、吉見百穴への明主様のご旅行に随行
・七月一四、一五日 熱海、伊豆海岸、修善寺、箱根への明主様のご旅行に随行
・夏 医薬問題で一週間留置される
・一一月五、六、七日 善光寺、戸隠、草津温泉旅行に随行
・一二月二三、二四日 明主様の還暦祝いが、房州鋸山麓の志保沢多計司の別荘で開かれる

昭和一八年(一九四三)(五七歳)
・二月五日 明主様の『明日の医術』再版出版記念会が中央亭で持たれる。午後六時より祝宴。七時より一時間半、明主様の講 演が持たれる。参加者は一一四名に及んだ 
 なお、この日これより前に、明主様は總斎の案内で、東宝小劇場で洋画『美貌の敵』を、その後日劇で『ふるさとの風』を観 覧されている 

昭和一九年(一九四四)(五八歳) 
・一月 千葉県勝浦の斎藤貴和子宅で講習会 
・三月五、六、七日 名古屋で初の地方講習が開かれる
・四月二五、二六、二七日 名古屋で二回目の地方講習が開かれる
・四月二八日 大阪で初めての地方講習が開かれる
・四月 和歌山市内の信徒・中谷種彦の別荘で講習会を開催する・五月 豊橋地方で初の地方講習会が催された。この時に總斎に 同行したのは岩松、小泉、大西、稲葉、大久保の幹部
・五月五日 明主様が玉川・宝山荘から箱根・神山荘に転居される
・五月一七日 明主様が移られた後の宝山荘に總斎が転居する
・秋 伊東市で初の講習会。總斎、大西が出向く。この時の受講者は三六名
・一○月五日 明主様が箱根・神山荘から熱海・東山荘に移られる
・一○月 大阪箕面市で講習会が開かれる
・一一月 奈良で講習会が開かれる
・一二月一七日 大阪で講習会が開かれる
・この年 日の出会を五六七会に改称

昭和二〇年(一九四五)(五九歳)
・一月 和歌山市内で講習会
・八月一五日(終戦)岐阜県美濃町で講習会
・八月二〇日 埼玉県越谷で講習会
・一二月二三日 東山荘の面会所である別館広間で明主様との会食会が行なわれる

昭和二一年(一九四六)(六○歳)
・三月 宝山荘で還暦祝い
・四月 防府で初の講習会。参加者二〇名
・五月 地方講習に回る。沼津など。田原和子が同行

昭和二二年(一九四七)(六一歳)
・二月一一日 各弟子たちがその姓を冠して行なわれていた「指圧療法」の名称と体制を改め「日本浄化療法普及会」を結成して組織の一本化が行なわれる。明主様が会長に就任され、總斎 が副会長となる。また本部は熱海におかれる
・八月三〇日 新憲法に信教の自由が認められたことにより明主 様のご意図のまま「宗教法人 日本観音教団」を組織、總斎は 選ばれて初代主管者に就任。この時、地方組織を五六七会(渋 井總斎、天国会(中島一斎)、大和会(坂井多賀男)、生和会(高頭信正)、進々会(荒屋乙松)、メシヤ会(木原義彦)、木 の花会(内藤らく)、大成会(大沼光彦)の八分会とした。な お翌年七月に日月会(小林秀二郎)を加えて九分会となる 
・一一月一一日 日本観晋教団の発会式が玉川・宝山荘で行なわれる
・暮 別府で講習を行なう
・この年、明主様から「總吉」という新しい名前を頂戴する。これは「總べて吉」という意味と、明主様のお名前から一字を賜 わった名前である 

昭和二三年(一九四八)(六二歳)
・一〇月「日本五六七教会」発会後「日本観音教団」の教団本部を熱海別院(熱海市清水町)に移し、そこを仮本部とする
・一○月三〇日 地方組織の一つである五六七会が「宗教法人 日本五六七教会」として独立する。「日本観音教団」の管長は 志保沢多計司となる(昭和二五年一月まで) 
・一二月一日 機関誌『地上天国』創刊。明主様自ら編集にたずさわられる。なお発行元は「宗教法人 日本五六七教会」
・この年軽い脳溢血で倒れる

昭和二四年(一九四九)(六三歳)
・二月五日 陰陽の形体として、地上天国建設の実体を備うべく、「日本五六七教」なる名称のもと教団を組織、同管長に就任・六月五日 「日本五六七教会」が「日本五六七教」の傘下とな る

昭和二五年(一九五〇)(六四歳)
・二月四日 「日本観音教団」と「日本五六七教」の二つの独立 組織が発展的解消して統一され、「世界メシヤ教」が
 創設される。明主様が教主に就任。この際三つの大教会制が敷かれた。これにともない總斎は教主補、五六七大教会首席とな る
・四月三日 一回目の熱海大火。駅近くの仲見世、商店街で九四軒焼失
・四月一三日 二回目の熱海大火。清水町仮本部奇蹟的に類焼を免れる
・五月八日 法難始まる。碧雲荘、東山荘ほかで当局による捜索が行なわれる
・五月二九~六月一九日 贈賄容疑で明主様逮掃・留置される
・六月一九日 贈賄容疑で逮捕
・一○月 「日本五六七教会」の信徒施設として建設中の熱海市咲見町の施設を明主様の命により、教団の仮本部としご面会所 となる

昭和二六年(一九五一)(六五歳)
・二月 大教会制度廃止とともに、本部総務部長、相談役となる
昭和二七年(一九五二)(六六歳)
・七月 宝生教会を開く

昭和二九年(一九五四)(六八歳)
・四月一九日 明主様、浄化に入られる
・九月九日 浄化に入る。四度目の脳溢血。熱海桃山台で静養
昭和三〇年(一九五五)(六九歳)
・二月一〇日 明主様が熱海市水口町の碧雲荘にて午後三時三三分 ご昇天になる
・二月一七日 救世会館にて明主様「昇天祭」執行される
・三月三十日 明主様夫人・よ志、二代教主推戴式が執行される
・五月九日 容態が一変、大浄化が始まる。昏睡状態
・五月一七日 午後三時三〇分帰幽。享年六十九歳
・五月一九日 密葬が行なわれる
・五月二一日 救世会館にて明主様の百日祭が行われる。咲見町仮 本部にて教団葬が行なわれる  
 戒名は“大観院殿總覚伝光大居士”。  
 遺骨は菩提寺である新宿四谷の笹寺に祀られる