千手観音像

 昭和九年(一九三四年)九月一五日、教祖は千手観音の画像を描くようにとの神示を受けた。さっそく構想を練り、構図の下絵作りに取りかかった。そしてこの観音画像は、いずれ新教団の神体とすべきものであると考えて、幅五尺(一・五メートル)縦六尺(一・八メートル)という大作を描きあげることにしたのである。しかし当時住んでいた応神堂は手狭なので、とてもこのような大作を描く部屋はなかったが、たまたま教祖によって病を救われた金高真城という信者から、
 「自分の家の三階に、観音様のお部屋として増築していた六畳間ができあがりましたので、どうぞお使いください。」
との申し出があった。教祖は大変喜び、さっそく一〇月二日から雲上蓮華台上の千手観音像の制作に取りかかった。

 金高の三階画室に今日よりは観音の画を描く事となれり

 金高の家は赤坂田町、日枝神社の真裏にあり、応神堂からもほど近い所にあった。
 これより三年ばかり前の昭和六年(一九三一年)ごろ、金高は一〇人ほどの従業員を雇い、「ルリ」という美容院を経営していたが、病弱で、まだ三〇代という若さであるのに、肌は荒れて土気色をし、大変やつれた顔をしていた。しかし、教祖の浄霊を受けるようになってから、すっかり若返り、見違えるような健康になった。

 そのころのある夜、彼女は霊夢を見た。それは、自分が霊界へ行き、三途の川を渡ろうとした時、何ものかに襲われて窮地に陥ったが、光明燦然と輝く観世音菩薩が現われて、危機一髪のところを無事に救われたというものであった。金高は教祖に救われてから、この夢の中の観音こそは、ほかならぬ教祖であったことを覚り、非常に喜んで、一生懸命奉仕を続けていたのである。

 昭和九年(一九三四年)一〇月一一日午後二時ごろのこと、東光男という写真家が初めて応神堂を訪れた。教祖はその名刺を見て、「神業に関係のある面白い名前だ。」と興味を覚え、さっそく面会したのである。

 すると東は、その日教祖をたずねるにいたった経緯〈を縷々〈るる〉(あれこれ、こまごまと)述べ始めた。

 大正時代の初め、東は中国旅行をする途中、縁あって道教の信者となったが、ある時、神憑りとなり、 
 「今から二〇年後に日本に観音力をもった人が現われる。」
という神託を得た。その後日本へ帰り、ひそかに時を待っていたところ、その年(昭和九年・一九三四年)の春、すでに自分の家の東方に観音力をもった人が出現しているという霊感を得た。そこで自宅のある渋谷の東方にあたる赤坂、麹町あたりにそのような人物がいないかと、探し求めていたところ、たまたま麹町の知人から、 
 「平河町に観音様の力で病気を治す人がいるからたずねてみなさい。」と教えられたというのである。教祖は東の探す相手がほかならぬ自分であることを確信し、なお一時、宗教的な語らいをした。そして、話を終えた帰りがけのことであった。東は教祖の姿を写真に撮影させてほしいと頼んだ。そこで教祖が快く承知すると、床の間へ坐るように言って写真を撮り、帰っていった。

 その翌日のことである。東は、
 「こんな不思議な写真ができました。」
と言って乾板に焼き付けた写真を持参した。それは教祖の左脇腹のあたりから白色の明るい煙のようなものが立ち上って頭上に広がり、その中に千手観音の画像が現出する神秘な霊写真であった。

 教祖は前日、床の間に坐った時に、すでにある種の予感を感じていたが、やはりこの写真には目をみはらざるを得なかった。それまでに欧米諸国や日本の霊写真を数多く見たことがあったが、多くは人間の死霊である。まれにキリストの写ったものがあっても、トリック写真であることが歴然としていた。しかしこの霊写真の真実性は疑いようがなかった。そして、いずれか、さだかでない遠方に実在する画像を一瞬のうちに写し出すその力が、今後どのような奇蹟を現わすことになっていくのか、それを思えば無限の希望がふくらむのであった。

 教祖が浄霊や祭典など忙しい間を縫って、連日のように金高の家へおもむいて絵筆を執っていたのは、観世音菩薩の霊写真の神秘があった、ちょうどそのころであった。霊写真が届けられてから、一週間後の一〇月一九日の『日記』には、

 応神堂早く済みけり金高へ観音描きに行きにけるかな

とある。ところがその翌日になって一大事が起きた。金高真城の夫の公義が酒に酔って帰り、三分の一くらいできあがった画像をズタズタに切ってしまったのである。

 千手観音描く半ばに金高の主人破りしと語りたりけり

 知らせにより駆けつけた教祖は、丹精込めて描いていた観音像の無残な様子にしばらく茫然としていたが、その時ふと霊写真に思いあたることがあった。なかば近くまでできあがった観音像が破られるからには、それなりの理由と意味がなければならないはずである。しかも立教成ったうえは、新教団の神体にと信じて描き続けてきた画像である。軽々な理由からであるとは思われない。

 教祖は当初、古い時代の観音画像の粉本(後の制作や研究のために僧侶などが模写した画像)を参考に描いていたが、そのような画像には、観世音菩薩が満足せず、霊写真に現出した姿を手本にして、新たに書き直すよう命じられたのではないのか。そのように思いを潜めて考えると、今回のことは不祥事どころではなく、むしろ感謝しなければならないと感ずるにいたったのである。

 こうして、初めの画像では顔の周囲に限られていた円光は全身大に拡大され、雲の上から岩上に座した姿となり、髭もない若い容貌の観世音菩薩像が揮毫されることとなった。

 描き直された新たな観音像は、より躍動的で、大規模な救世の業が天上ではなく、この地上に具現されるという経綸を、一層はっきりと象徴するものとなったのである。

 下絵を作り直し、筆や筆洗も新しく整えて、ふたたび描画に取りかかったのは、一一月五日のことであった。同日の『日記』に、
 
 千手観音二度目の画像金高の三階に描きはじめし今日かな

と詠んでいる。そして一一月一七日、ついに大作の千手観音の尊像は完成したのである。

 千手観音漸く今日の夜遅く出来なして心足らへり

 なお、東光男による教祖の霊写真は、この千手観音のほかに二枚残されている。どちらも初めの霊写真から一〇日たった一〇月の二一日に撮影をしたもので、そのうちの一枚は、端座、合掌している教祖の周囲に、鮮やかな円光が出現しているもので、円光から発した強烈な光が室内に満ちて、座蒲団と水盤のほかは朦朧と霞んでいる。残りの一枚は睡気を催た教祖が、前のテーブルにうつぶせになって居眠りをしているところを撮った写真であるが、その頭上には龍が塒〈とぐろ〉を巻いて首をもたげ、しかもその龍体からは幾条もの光が発散しているものである。
教祖はそれが金龍神であると直感した。

 東光男は鋭敏な霊的感性のもち主で、ときおり平静な様子のまま神憑りになり、瞑目して何ごとか自問自答することがあった。それは霊感が訪れているしるしである。東は龍神の霊写真について、「先生には龍神さんが守護しておられますね。なぜかというと、いつも先生と面接する時はかならず小雨が降るんです。これは龍神が守護している証拠です。今晩も先ほど、雨が降ってきたので、きっと龍神が写るかもしれないと思って撮ったのです。」 
と述べたのである。

 千手観音の霊写真について、立教後発行した機関誌『光明世界』(第一巻第一号、昭和一〇年・一九三五年・二月四日発刊)につぎのような解説が掲載された。

 「此の霊写真は昭和九年(一九三四年)〈*〉十月十一日午後三時半、麹町区平河町一丁目二番地、応神堂二階床の間(九尺)〈**〉に於て岡田仁斎先生(教祖)〈*〉が正座されたる所を心霊写真の研究家、東光男氏が撮影したるものにして何等の予期なき偶然の現象なり。然し、当時、 仁斎先生は千手観音の大幅画像を描筆し始めし時なり。斯くの如き現象は恐らく世界空前の事なるべく斯界に一大問題を提供せるものと謂ふべし。」
  *( )内は編集者・挿入 
  **二・七メートル