「日本観音教団」が、社会の注視の的となるほどの急激な発展を遂げえた理由としては、一つには、当時の社会情勢と深いかかわりがあった。昭和二〇年代、日本の国民は敗戦の荒廃と窮乏、混乱と不安の渦巻く中から、気力を振るい起こして土を耕し、家を建て、瓦礫の山と化した都市には復興の槌音が響き始めた。しかし、都市が破壊され、産業施設がほとんど灰燼に帰したうえ、空前のインフレという悪条件が重なった中から、日本が立ち直り、戦前の水準に回復するにはかなり長い時日を要したのである。
昭和二七年(一九五二年)、サンフランシスコ講話条約の発効によって占領時代は終わった。
日本は独立国家として主権を回復したけれども、左右両政治勢力の村立が激しかったばかりでなく、保守、革新ともにみずからの陣営内部に深刻な派閥争いをかかえ、政局は混迷を極めた。このような紆余曲折の中で、日本が自立する契機となったものは、昭和二五年(一九五〇年)六月に始まった朝鮮戦争であった。日本列島の対岸に勃発したこの戦争は、皮肉にも日本経済に軍需景気をもたらすことになった。日本の一方的な立場から言うならば、この戦争は干天の慈雨のごとき結果となったのである。また朝鮮戦争は極東という地域が、共産主義勢力と自由主義陣営の角逐(競いあうこと)の場であるという、緊迫した事態を内外に強く印象付けることになり、日本の立場がこうした国際政治の上できわめて重要であることが改めて認識され始めた。その結果、日本と連合国、わけてもアメリカとの講和条約の締結<ていけつ>が急がれ、日本の主権回復と国際社会への復帰が早められる結果となったのである。
朝鮮半島における戦いは熾烈を極め、事の成り行きによっては第三次世界大戦となるのではないかという恐怖が世界をおおった。幸いにして最悪の事態は回避されたものの、朝鮮は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国(南朝鮮)という北と南の二つに祖国が分割されるという悲劇に遭遇することになってしまった。
教祖は昭和二五年(一九五〇年)一月号の 『地上天国』誌で、
「いよいよ一九五〇年、昭和二十五年の年になった。というだけならいつもの年と変りはないが、実は今年こそ吾等からいえば大変な年である。という事は吾等の唱導する処の夜の世界が昼の世界に転換する、その節に当るからである。」
と書いている。その言葉を裏付けるように、この年、教団の内外に大きな事件が相次いだ。一月には教祖の高弟、中島一斎が帰幽。二月四日、立春を期して「世界救世<*>教」が創立され、四月には、熱海市中心の大半が焼失するという大火が起こった。次いで五月には教団の熱海・清水町仮本部をはじめ、教祖の住んでいた熱海・水口町の碧雲荘などが突如家宅捜索を受け、間もなく教祖自身が留置されるという事件が発生した。しかもその留置中のことであるが、後に詳しく述べるように、教祖は、みずからの神格についてきわめて重大な神秘体験をしたのである。
朝鮮戦争が起こったのがさらにその翌月の六月のことであった。
*近来「メシア」と書かれることが多いが、本数では「メシヤ<ヽ>」を用いている
この年の二月四日の立春は、教団の歴史上意義ある重要な日である。一年三か月余にわたって神業の両輪をになってきた「日本観音教団」及び「日本五六七教」の二つの独立組織が、ともに発展的に解消して統一され、「世界救世教」として創立され、教祖直属のこの「世界救世教」のもとに、左に記す三つの大教会制が敷かれたのである。すなわち、天国、五六七、大成の三大教会がそれである。つぎにそれぞれの主管者及び住所をあげる。
天国大教会 中島暉世子
静岡県熱海市伊豆山西足川一三六
五六七大教会 渋井総斎
神奈川県小田原市緑四丁目五八九
大成大教会 大沼光彦
神奈川県足柄下郡宮城野村強羅一三〇〇
その後、佐賀県三養基郡鳥栖町轟木の光宝大教会(主管者、木原義彦)が加えられて、大教会は四つとなった。
そしてこの四つの大教会のもとに七六の中教会が置かれ、その下に七一〇の分教会が設け
られたのである。また本部組織として、内局、総務、教務等の部が置かれ、役職として顧問、理事が任命された。
教祖は、その二月四日発行の機関紙『光』を改題して『救世』とした第一面に、「世界救世教の誕生に就て」と題して関数の辞を寄せている。すなわち、
「昭和廿二年(一九四七年)<*>八月三十日、宗教法人として創立された日本観音教団並びに同二十三年(一九四八年)<*>十月三十日同じく創立された日本五六七教会は、今回自発的に解散し、右両会を打って一丸としたる新しき構想の下に、本年二月四日立春の日を期して、標題の如き宗教法人世界救世教の創立出現となったのである。」
*( )内は編集者・挿入
という言葉に始まり、これが神の経綸によるものであること、また仏として人類救済にあたった観世音菩薩が、その本体である本来の神の働きにはいったこと、また、それとともに、これまでの東洋的な働きから全人類の救済という世界大の働きに一大飛躍がなされること、そしてその現われが「世界救世教」であることを説いている。
こうして新体制が発足し、神業の基礎的な工作もできあがったので、教祖は「日本観昔教団」を設立した昭和二二年(一九四七年)以来続けてきた教団顧問という立場から、主管者として の教主となって教団の表面に立つこととなった。この時から神命に基づいて「明主」という名を用い、今や身も心も新たに、神業の一層の展開にあたることとなったのである。
「世界救世教」を開数し、本格的な神業を推進するにあたって、教祖は、
「私が御神業に身を投じたそもそもの第一歩は昭和三年(一九二八年)<*> 二月、節分の日であったから、今年でちようど二十三年目である。この二十三年間に基礎工事が 成ったので、いよいよ本格的に発足すべく陣容を整え、世界人類救済の大旆<**>を翳して、本格的活動に入らんとするのである。言はば今迄は楽屋で扮装していたようなもので、扮装が出来上ったので、ここに舞台へ登るようなものである。」
* ( )内は編集者・挿入
** 支那<シナ>で天子または将軍が用いた大きな旗
と書いている。