キーワード:「先祖」

人は祖先に基き、祖先は神に基いている

 人間というものは祖先に基<もとず>き、祖先はまた神に基いているのであります。この順序のとおり、祖先を大事に思う方は、その祖先の親である神様をまず各家にご奉斎して、同時に、ご先祖さまを祀るということであれば、これが一番いい状態なのです。

 ご先祖さまだけを大切<たいせつ>にしてお祀りしても、子孫<しそん>が神様をお祀りしなければ、ご先祖さまはご加護<かご>を受けにくいのであります。やはり、ご先祖さまを守るのは神様なのでありますから、現界にいる人間がご先祖さまに代<か>わって、神様をお祀りさせていただくのは、私ども子孫の義務<ぎむ>であろうと思います。

 そうなれば、また、ご先祖さまのお喜びを受けて、私どものすること、為<な>すことが守られ、同時に、また、神様を祀ってあれば、神様の偉大<いだい>なお光を受けながら、善<よ>いJことならば必ずその達成<たっせい>を助けていただけるのであります。このように正しい行ないをしながら、正しいご神徳を受けて、正しい世の中を作っていくということに、邁進<まいしん>させていただきた いと思います。

神様への一番の報恩はお導き

 ひとりの人をお導きするということは大変なことなのでして、心からその人を救ってあげ、親身になって、その信仰を育ててあげるということは、一代の立派な御用になるのです。ひとりの人間はひとつの世界に相当するのでして、その人には先祖があり、子孫があるというように、大きなつながりをもっているのですから、それが信仰によって救われたら、大変な救いになるのです。ただひとりの人間を救ったと考えますけれども、その世界は永遠のつながりを持っているのでして、その子孫が栄えれば、同時に、自分の先祖も子孫も救われるのであります。

救われた祖霊さまはご神業に従事している

 遠津御祖<とおつみおや>のようなかなり古いご先祖さまは、神様のご神業に従事<じゅうじ>され、また同時に、現界にいる子孫をもたえず見守っていて下さるのですから、われわれも祖霊祭祀はできるだけ心をこめて、盛大にやらせていただかなければなりません。

昭和二十九年四月一日御講話(13)

 それから教会の場合にはいまのと違うのです。教会の場合は御先祖様は次の間がよいです。一緒ではいけないのです。けれども、そうはいっても、一間しかなくてどうしてもそういうことができない場合にはしかたがないです。そういう場合には、あんまりスソでも御祖霊さんに悪いし、そうかといって神様にあんまり接近しては、どうも格好が悪いという場合には、それ相当の部屋の位置を決めるのです。

昭和二十九年四月一日御講話(18)

〔 質問者 〕墓につきまして、個人名前の墓がいくつかあり、先祖代々の墓がありませんが、

〔 質問者 〕個人に作った墓で、特に良かった時代に立派なのを作ってあります場合に、それを先祖代々のに替えることは……石をけずりまして、

【 明主様 】それはよいです。早くやったほうがよいです。それは非常に間違ってます。自分たちばかり救われて、先祖はないがしろにしているということは、たいへん間違ってます。先祖だけは個人のよりか大きい墓でなければいけないのです。さもなければ真ん中を先祖代々にして、そこに個人を並べて、それでもよいです。

【 明主様 】古い、少なくとも一〇〇年ぐらいたったものは先祖に入れてよいですが、そうでないのは、そうしてはいけないです。それから子供の墓はずっと小さくてよいです。それで大人のほうは石に切りつければよいです。その順序を間違えないようにしなければならないです。

〔 質問者 〕ふつうの家では、先祖代々のがあり、あと墓石は別に作りませんが、

【 明主様 】それでよいです。それも墓地の狭い広いで判断するのです。もし広いとすれば新しい仏は祀ってやらなければならないです。それも臨機応変に常識で考えていって、ちょうどよいというやり方でやるわけです。お寺参りに行くときには、御先祖は挨拶に出てくるのですから、そのときにあんまり墓がひどかったり、もっとできるにかかわらず人間の怠慢でしないと、御先祖はおもしろくないから、「こいつはびどい奴だ、ときどき灸をすえてやれ」というので、御先祖が災難を与えたり、病気にさせたり、そういうことがあります。ですから思いもつかない、お寺参りに行った帰りに電車が衝突したりということがあるのです。だからこれはやっぱり人間界と同じで、できる身分でやらないということや、またその人の境遇やいろいろに合わないということは、御先祖としてもおもしろくないのです。また御先祖の中にも、怒リッポイのとそうでないのがありますが、怒リッポイのはお気づけとかそういうことがあります。