昭和二十八年十一月十七日の御講話(2)
いま書いていますが、その前に、気のつきそうなことで、ちょっと気のつかないことがあるのです。それは、つまり運が良いとか悪いとか言いますが、すべて順調に行くときにはなんでも順調だし、これが、悪いときになると泣き面に蜂で、悪いことばかりが重なってくるものです。それは健康とピッタリと関係しているものです。これは私の経験でもそうです。私は薬毒がウンとあります。どこか体が悪いときには必ず悪いことが来るのです。疥癬をだいぶ長くやりましたが……私の疥癬は今年で九年目になります……まだすっかりとはゆきません。耳が痺《かゆ》いので始終こうやって掻いてますが、これも疥癬が耳に来ているのです。それから腰のまわりから足が痺いとか、いまでも蒲団に入って暖まったりするといくぶん痺いです。それで、一番最初に玉川警察署に一一日間留置されたことがありますが、そのときには疥癬が一番酷かったのです。それから静岡事件のときには足にまだ残っていました。一昨昨年……二五年ですが、このときには疥癬がいやに悪かったのです。それで警察に行って、そのことを知らしたほうがよいと思って、足を掻いたところ血が出たら、「ああ君はまだ悪いね」それで朝になったら、「自分の足が痺いが、君のが染《うつ》ったのではないか」と言ってました。それから私は疥癬のほかに歯が始終痛んだり、頭が痛んだり、始終いろいろありますが、そういうときにはなにかしら、つまり苦しむことがあるのです。これはだれでもそうなので、その理屈なのです。というのは、そういった悪いということは、毒素に対する浄化が起こっているのですが、浄化というものが人間の体ばかりではないのです。浄化というものは、あらゆるものに相応してくるのです。だから体のどこかが悪いということは、やはりその人の運命に苦しみがあるわけです。毒素があるとその部が曇っている。そうすると体全体が曇っていると、毒素は肉体的苦痛によって除《と》ってゆき、それから運命はいろいろな災いで除ってゆく、というわけですから、たとえてみれば、人を苦しめずになにかやっていて発展する……われわれのほうでも宗教が発展して信者ができますが、それでこのメグリが来るのです。それはなにかというと、他の宗教が影響を受けるのです。仏教とか、そういうもののほうで非常に信者が減るとか、おとろえるとか、また維持に苦しむとか金が足りなくなるという場合に、どうもこのごろ新宗教がだいぶ勃興《ぼつこう》してきたので、その影響を受けるのだ、特に救世教というのが一番活動して、あんな立派な美術館を造ったりしている、シャクに障《さわ》る、羨ましい、といった想念が、やはり曇りになってこっちにぶつかってくるのです。ですから善いことをしておれば、なにもないかと思うと、決してそうではないのです。かえって善いことをすると悪のほうで怨むのです。またたとえてみれば、泥坊とか人殺しをして、警察に引っ張られて酷い目に遭って調べられたりすると、自分がその因《もと》の種をまいていても、やっぱり警察官を怨むのです。昔、首斬朝右衛門という、いまの死刑係で首を切る役人ですが、首を切ることは朝右衛門が役でやるのですからなんでもないことですが、やはり朝右衛門を怨むのです。そのために朝右衛門はいろんな災いがあるので、まったく自分が首斬りをしたためだということが分かって、止めてしまって、子孫代々首斬りをしてはならないという遺言を残したそうですが、そういうようで、良いことをしても怨みがあるのです。しかし他でその良いことのために助かって喜んでゆく人がありますから、その人からは良い光を受けますから、さのみではないので、非常に少ないわけです。自然栽培が非常に拡がれば、今度は肥料屋がたいへんです。最初は、この肥料屋の怨みのほうが農村の喜びよりも、多いかもしれません。そういうようで、それが曇りになると、その部の血が濁りますから、やはり体が悪くて肉体的苦痛もあるし、運命的苦痛もあります。それから人に瞞《だま》されるとか、泥坊に盗られるとか、相場や競輪で損をするとか……パチンコはしれたものですが……いろんな損をします。それから火事で焼けるとか、この間のような水害とかありますが、そういうこともやはり浄化作用なのです。それについてこういう考え方があるのです。すなわち伜《せがれ》が二人あります。一人は非常な道楽者で、親の金を使ってしようがない、一人は律儀全《りちぎまつと》うで、親の心配をかけないというのです。これはどっちが親孝行かは分からないのです。その家は先祖代々のいろんな罪を背負ってますし、それからその親の財産というのは、人をいじめたり苦しめたりして作った財産とすると、祖先はその罪を早く除ってしまわなければその子孫は繁栄しないので、そこで祖霊がついてそういう道楽者を作ってドンドン使わせるのです。ですから早く使ってしまえば早く罪が除れるのです。ところが律儀全うなほうの伜は、減らないようにし、かえって増やそうとするのです。これは早く除ったほうがよいのですから、大乗的に見るとイコール道楽者の伜のほうが親孝行ということになります。そこで、そういう道楽者の伜を治そうとして、いろいろ苦心惨憺しますが治らないのです。それはそういうことを知らないし、ぜんぜん思いもしないからです。そこで学校を怨んだり、傭っている主人を怨んだりするようになるのです。そういうわけで、いっさいのそういう苦しみは浄化作用ですから、その苦しみというものも、それが分かれば喜ぶというまでもゆかないが、そうクヨクヨする必要はないわけです。それで除かれるだけ除かれてしまえば、あとはないので良くなるばかりです。それと同じように、信仰に入ってから損をしたり、いろんなことがあります。これはたいへん結構なのです。それからまた熱心になればなるほど、そうなるのです。信仰がボヤボヤしている間はそうでもないが、これは熱心にやらなければならない、というようになってから損をしたりすることがありますが、これがたいへんにありがたいのです。これは神様が、お前は熱心だから大いに褒美をやろうとする。ところが入れ物が汚いから、これを掃除しようというわけで掃除をされるのです。それを待っておれば、それがきれいになった後は一度に良くなります。私が借金で苦しんだのが昭和一六年までの二〇年ですが、最初のうちは金が欲しくてしようがない、なんとかしてと思っても、駄目で、この借金の催促が苦しいのです。それに下手に動くと差し押さえになるのです。それで金が欲しい欲しいと思っているときは駄目なのです。そのわけが分かって、これは神様にお任せしておこう。食ってさえいればよいと思って、気やすく思った。そして昭和一六年にやっと返しきったのです。そうすると一七年からは、予定していたのより多くの金がドンドン入ってくるのです。ですから金なんかどっちでもよいと思うようになったときに入ってきたのですから、そう嬉しくもなかったのです。だからかえって欲しい欲しいと思って、いまいくら金が入れば助かる、というときには決して入るものではないのです。これはなにごともそうです。変な話ですが、女を思っていて、アノ女をどうにかならないかと思っているときには、決して女のほうでは振り向きもしないのです。それでアンナ女なんか勝手にしやがれと思うようになると、かえって女のほうで来るのです。つまり逆になるわけです。それが真理なのだから、そこを本当に知ると非常に気楽になります。だから苦しいことが起こると、これは楽しいことの前提だ、これによって楽しいことになるのだと思うから、さのみ苦痛ではないということになります。ちょうど病気が起こって、熱が出て痛んだり苦しいが、これによって良くなると思うから、心から苦しくはないのです。それで病気のことはよく分かるが、ほかのことになると気がつかないのです。それで火事によって丸焼けになるが、これは非常に良いのです。これは祖先が、金銭的、物質的の罪穢れが溜まっているから、そうなるのです。ですからよく「焼け太り」と言うが、焼けたために後が良くなるのです。それで信仰に入ると浄化があるが、つまり神様の御恵みによって小さくてすむのです。大難を小難にというわけで、小さくてすむのです。熱海などはずいぶん良くなりました。まるで東京の銀座に行ったような気がします。他の都会でこんなに新しいピカピカしたような町は、いま見られないくらいですが、熱海はたいしたものです。これは焼ける前の熱海と比べたら、それこそ乞食と大名ほど違います。というのは、焼けたためにそういった汚いものが霊的に消えたわけですから、そこで後は良いことが来たわけなのです。これなどもよい見本です。ですからいっさいの人間の苦しみというものは、病気ばかりでなく他のものもある。それで病気の浄化のときには他のことの浄化もちょうど同じに来るか、続いて来るか、どっちかなものだ、ということを知っていればよいのです。ですから人間から毒素が減り、曇りが除れるということは、どうしても運が良くなるということですから、これを心得ていればよいわけです。それから神様は、人間というものは働かせるようにできているのですから、本当に神様の御意志通りの働きができれば、その人は神様のほうでは重要な人ですから、なるべく病気で苦しまないように、長生きをするように、いつまでも働けるようにと、神様のほうでやるのです。ところがあんがい早く死んでしまったりするのは、神様のほうに対して、世の中のために間違ったことをしたり、間違った考えを持っているからして、どうしても神様のほうでは、その人を間引かなければならないのです。そういうことは一点の狂いもなくやられているのですが、ただ人間がそれを看破することができないだけのことです。
地天50「教えの光」昭和二十八年七月二十五日(1)
仏壇は三段にて上段に御屏風観音様お祀り、二段目中心にA家先祖代々、向かって右に祖父母、左に私の妹、子供、本家の先祖の順序にお祀りいたしております。
地天50「教えの光」昭和二十八年七月二十五日(3)
先日長男(二二歳)が意識不明の御浄化をいただき、先祖が出てまいりまして 「七賢人は美術館に献納させてもらいなさい。すると、七体がおのずから集まってくる」と、申しましたが、いかがさせていただきましたらよろしゅうございますか。また、七賢人の霊および作者の霊は、はたして抜けておりますでしょうか。私の酒呑みと、七賢人および酒呑みの車夫の霊とはいかなる関係がございましょうか。尊き御神業の一端をまっとうさせていただきたく、右謹んでお伺い申し上げます。
地天50「教えの光」昭和二十八年七月二十五日(5)
私が扱わせていただいております信者の中に、先祖代々から家の中に祀ってありました正一位稲荷のことでございますが、五年ほど前に御教えをいただきまして、その節間違いいたしまして外へ宮を建てまして、光明如来様の御奉斎日に外へうつしましたところ、二、三年はなにごともなく過ごさせていただきましたが、昨年一〇月ごろより、そこの奥さんが大浄化の際たびたび憑霊いたし、外へ出されたのが残念だ、狐の財産を自由にしたから、奥さんの生命を取るなど、種々申しましたが、救世教のお話をよく聞かせてあげ、先方の要求も入れてあげましたところ、お詫びして、再度出ない、地上天国建設のお手伝いに協力する約束で帰りましたが、最近において、またその状態を繰り返しているようなわけでございます。再度家の中へ入れるべきでございましょうか、いかがいたしましたらよろしゅうございましょうか。御垂示賜りたくお願い申し上げます。
地天51「教えの光」昭和二十八年八月二十五日(2)
〔 質問者 〕最近結婚いたしまして分家いたしましたので、新たに先祖の位牌をお祀りしたいと思いますが、私の家も妻の家も代々神道でございますが、やはり神道にてお祀りすべきでございましょうか、あるいは仏壇に黒塗りの位牌でよろしゅうございましょうか。また黒塗りの位牌でお許しいただける場合、神道では、戒名をつけませんが、位牌に記す名前は、神道の仕来り通り、何々之命之霊位でよろしゅうございましょうか。
地天54「教えの光」昭和二十八年十一月二十五日(2)
一、沖縄の本籍は戦争のため役場もなく、無戸籍状態になりましたので、そのときに改姓いたしております。理由と申しますのは、歴代を調べてみますと旧姓のCの姓は女のほうの姓でございますので、一門会議の結果、戸籍面から根本的に男のほうのM姓に改姓いたしております。仏壇には現在M家先祖代々の位牌を真ん中に、同じ段のその前にC家先祖代々の位牌をお祀りさせていただいておりますが、それでよろしゅうございましょうか。
昭和二十九年二月一日御講話(15)
昨夜読んだお蔭話で、今度『地上天国』に出しますが、死んだ霊が代わる代わる、死んだ人の奥さん(信者)に憑ってきて救われる、それが実によく書いてあります。「お茶を飲みたい」それでお茶を出しても飲まない。「お許しがないから飲めない」と言うのです。それで「水だけはお許しがあるがお茶は飲めない」。そうしているうちに、そこの家族の者が神様にお願いしたり、祝詞や善言讃詞を奏げているうちに、お茶を飲めるようになったとか、そういうことが実に細かによく書いてあります。それから、そこの家の子供や兄弟や、死んだ者がみんな出てきて、みんな「救われた、救われた」と喜んでいるのがよく書いてあります。少しも嘘とかそういうものがないので、本当のことです。あれは霊界における状態と、救世教によって救われたということがはっきりしてます。この次の『地上天国』に出るでしょう。それで、一三年前に死んだ霊が、お茶をくれと言う……一三年間お茶を飲めなかったのです……。上げるのだが飲めないのです。これは前によく話がありましたが、私が扱ったのは、お茶をおさんどんに上げさせたので、仏様に上げるという気持ちがぜんぜんなかったから飲めないというのです。上げる家の人が、御先祖に飲んでいただきたいという気持ちがあるとおいしく飲めるのです。そうでないとぜんぜん飲めないのです。私はそういう経験がありました。今度はお茶を一杯一杯飲んでいって、一三杯でもうよいと言ったのです。そうすると一年で一杯のお茶を飲むことを許されたという、そういうところが実におもしろいです。霊界は想念の世界だから、人間の想念どおりになったり、またすべて神様のお許しがないとできないということがよく分かります。
昭和二十九年二月一日御講話(18)
【 明主様 】もう論争はいらないので、事実です。そうすれば、もし薬毒の影響がないとか、薬が良いというものなら、薬を服まない以前の人間が非常に弱くて、薬を服んでから非常に強くなったというのなら、薬は良いものです。それから薬が本当に効くものなら、もう病人がなくなっているはずです。先祖代々飲んだのだから……。さもなければ、まだ薬の服み方が足りないということなら、病院に入ってウンと服ませるとよいです。効くものなら……。「あなたはどのくらいやった」「三年服み続けた」「それでは治っているはずだ」。「あなたは」「三ヵ月」「それではまだ服み方が足りない」というわけになり、薬が効くものなら、とうの昔に病人はなくなっています。
まず他人に徳をとらせる
多くの人の中から選ばれて、神様のお仕事をさしていただけることは、これは前生<ぜんせい>の因縁<いんねん>によるものであります。自分は身魂<みたま>が浄いから神様に寄せられたということもありますが、一概<いちがい>にそう考えることは間違いです。むしろ、罪があるために、人よりもさきに集められて、人よりも苦労<くろう>をさしていただくのだ。そのかわり、つとめあげたならば、私どもの家の名誉<めいよ>になることでありまして、どんなにご先祖さまがお喜びになるかわからないのであります。
参拝は神様にお縋りする努力の現われ
入信した後の聖地への参拝は、信者として欠<か>かせない大切なことであります。入信して「おひかり」を胸にかけたからといって、それだけで救われることはなかなか難<むず>かしいのであります。もちろん、熱心にお取次<とりつぎ>をして多くの人を光の道へお導きすることは、その人が救われるための立派な道ですが、しかし、なんといっても、私たちおよび先祖代々が、しらずしらずに積み重ねて来た罪けがれを洗<あら>い浄<きよ>め、病、貧、争より救っていただく第一番の門は、聖地参拝であります。