キーワード:「先祖」

『御垂示録』二十六号 昭和二十八年十一月一日(8)

【 明主様 】一つにしてもよいし、二つあってもよいです。なにしろ仏界というものがもうないのだから。けれどもないと言っても、代わりのものができたかというと、代わりのものもできてないので、霊は宙に浮いているようなものです。従って戒名などはどっちでもよいので、意味はありません。いずれ私は仏界を作ることになってます。救世教の信者の祖先というのは、みんな救世教の本部とか支部に霊が来てますからそれでよいのです。ここならここがもう天国になっているのだから、そこでみんな非常な活動をして働いているのです。だから仏教のほうで救われたのと違います。仏教のほうの極楽の霊というのは、私が前に霊をやっていたときに霊から言われるのは、極楽というのは楽は楽だが、働く必要がないからつまらないと言うのです。自分は働きたいから、神様のほうの世界に行かしてもらいたいということをいくども聞きました。極楽というからして、極く楽は楽なのですが、活動ということはできないのです。ですから年中歌舞音曲をやり、碁将棋をやってますが、そういうことが好きな人はよいですが、働くことが好きな人は困るのです。救世教信者の先祖というのはみんな働いてます。その霊というのは何十万何百万とたいへんなものです。いずれメシヤ会館のほうができてから冠婚葬祭のこともボツボツやるつもりです。

垂録27 昭和二十八年十二月一日(5)

〔 質問者 〕御屏風観音様につきまして以前いただいた御教えでは、光明如来様を祀って以後でなければ先祖が苦しむということでございましたが。

教集19 昭和二十八年二月十七日(2) 

 それで特に女などは漢方薬中毒をすると、肌が非常に悪くなってカサカサです。艶もなにもありません。だからいまの女の人は先祖から親代々漢方薬で悪くして、それから近来は西洋の強い薬や注射というものでだんだん悪くするのです。そこにもっていって、いまの化粧品には薬がはいっているのです。昔はおしろいというと、鉛毒くらいでしたが、いまは鉛毒のほかに化粧品に薬毒が加わってますから、いまの女の人は実に肌が悪くなってます。若い人でも、化粧をしなければ見られないくらいになってます。それで化粧品はますます進歩してます。進歩といっても、ごまかす進歩です。それで、ちょっと見るときれいなのです。その代わりにいろんな化粧品を厚くつけなければならないのです。美容院に行ってタオルでむしたりしてやりますが、だいたいそんな手数をかけなくても、女はきれいになっているべく神様が造ってあるのです。それでいま世界で一番皮膚の悪いのはアメリカの国です。それはとてもアメリカの若い女は、まるで荒<すさ>びているそうです。というのは、いろんな薬や方法で始終やっているから、だんだんそうなってくるのです。第一いま口紅をつけますが、これは唇の色が悪いからです。それから頬紅というのもおかしいのです。ホッペタは赤いに決まっているものなのです。ですからみんな薬毒で悪くしているのです。だから近ごろの女の子というのはますます化粧品に身をやつしているのです。いまの若い人の支出では、化粧品代が一番の王座を占めているでしょう。顔を気にしていろいろするのは、少しおシャレをする人は命がけというくらいです。それこそ夫婦などは、外出するといっても、女房のほうは化粧するのに鏡台の前で一時間や二時間はかかりますから、亭主はそれを待っていなければならない。そのための被害というものはたいへんなものです。そういうような具合で、ほとんどかわいそうなくらいです。それもこれも、みんな薬毒です。ですからいまの世の中に美人というのはおりません。昔の小野小町の時代にもそうとう漢方薬がはいってますが、いまほどではありませんから、それこそ美人だったに違いありません。それで救世教信者になると女の人もだんだんきれいになります。それはなぜかと言うと薬をのまないで、浄霊で血がきれいになるからです。それはまだまだずっときれいになりますが、先祖代々のが残っているから、孫の代くらいになったら、ずっと美人が出てきます。しかし孫の代より、自分がきれいになったほうがいいでしょうが……。そういうようで漢方薬は非常に悪いのですが、また量が多いのです。そのために、いくら浄霊しても、あとからあとから溜まってきます。それは漢方薬です。西洋の薬はすぐ腫れもの、オデキになって出ますから、その点は割合に始末がいいです。西洋の薬では、いま読んだように、消毒薬が怖いのです。また漢方薬で一番怖いのはげんのしょうことどくだみです。どくだみとは毒溜めということでしょうが……このどくだみというのは花柳界の人が多くのんでます。昔の話ですが、お女郎はお茶の代わりに始終どくだみを煎じてのんだものです。ですから花柳界の人はやはり化粧しないと非常に顔色が悪いのですが、それは煎じ薬のためなのです。それで漢方薬中毒は女のほうがずっと多いのです。中将湯<ちゅうじょうとう>とか、いろんなものがありますが、みんな漢方薬です。だから女の美しさというものは、漢方薬が非常に害をしているわけです。だからそのつもりで、漢方薬を多くのんだかのまないかということによって、多いほど浄霊に暇がかかるということを言い聞かせてやるのです。こっちもそれを心得てやればよほど違うわけです。

教集19 昭和二十八年三月七日(2) 

 それから『結核信仰療法』も本はできてますから、近日中に新聞広告をして売り出します。これはあるいは『アメリカを救う』よりも良く売れるかと思ってます。というのは、結核患者は長いですし、医者の言うことを聞いたり療養所にはいったりいろいろしても、どうしてもなおらないですから、煩悶懊悩<はんもんおうのう>して「もう医者では駄目だ、なにかほかにないか」という人がたくさんありますから、「このうえはもう信仰をするよりない」ということになる。医者ではどうしてもなおらないということになれば、まず信仰ということが頭に浮かびます。そうなって、なにを信仰しようかということになると、不動様や観音様といっても、絶対安静ですからお参りに行くわけにもいかないのです。そこで古い先祖からの宗教もあるが、これでは病気がなおるほどの御利益がない。天理教とかいろいろな新宗教などをみても、これならなおるというものもちょっと見出せない。そうすると「救世教という奴はだいぶ病気がなおるということをときどき聞くが、どんなものかな」と思っているところに『結核信仰療法』となると、それでは読んでみようということになって、どうしても買うということになります。ですからあれはそうとう読まれるだろうと思ってます。それで項目の一番目に「医学が結核を作る」というのがあります。それから「結核は感染しない」ともあります。そこでどうしてもちょっと見たくなります。「医学が結核を作る」というと、医者を信じてこれほどやっていてなおらないのだから、これはあるいはそうかもしれないということになります。そうしてだいたいお医者が見ずにはいられないと思います。「とんでもないことを言う、もしか間違っていたらうんとやっつけなければならない。救世教というのは生意気な奴だ、宗教のくせにして医学のほうにはいって、医学が病気を作るなんてとんでもない」ということになったらいいのです。そうして質問してくるのを、こっちは待っているのですが、おそらくその勇気はないと思います。

教集21 昭和二十八年四月二十六日(3)

 美術館もだんだん各方面に分かってきたようですから、今年は観覧者もずっと増えるだろうと思ってます。いずれ熱海にも美術館ができますが、お寺の仏教美術というものでも、不思議でもないが、まあ不思議とも言えますが、あんがいすばらしい物が出てくるのです。それでだんだんお寺を調べてみると、財政についての一番致命的のことは、たいていな大きなお寺は田地<でんち>を持っていたのです。これが一番の財源であったのです。ところが戦後の農地改良問題で強制買い上げでみんな取られてしまったのです。そのためにお寺の一番の財源がなくなってしまったのです。それでお墓のある寺は檀家がありますから、それでどうやらやっていったが、京都、奈良辺りはそういう寺はほとんどないのです。つまり田地を持っているお寺と、さもなければ勅願寺で、これは徳川幕府の時代に、少し良い寺は一〇万石くらいの扶持をもらっていたのです。一万石、何千石というのはざらにあったのです。それがなくなって、それから明治になってから、そうとう由緒のある神社には、宮内省とかそういった関係方面の援助もそうとうにあったのです。それから華族とかその土地の先祖代々のしきたりで援助するということがあったが、そういうことがほとんどなくなったから、今度京都に行って由緒ある寺もまわってみましたが、無収入という寺がほとんどです。ですからそうとうに有名な寺でも、畳は破れてヘリなどはなくなっていて、実に気の毒なくらいです。そういう所ですばらしいのを持っているのです。中には京都、奈良の見物の人に、一つの見世物的に観覧料を取ってやっている寺もありますが、寺によっては、在方<ざいかた>のほうで不便な所ではそういうことがないので、維持して行くのにたいへんなので、良いのをボツリボツリと売って、わずかに繋げているのです。そこでそういう所からなかなか良い物が出てくるのです。そうかといって買い手はなかなかないのです。なにしろ今度私のほうで買うことになった三尊<さんぞん>の弥陀<みだ>というのは、中の本尊は等身大くらいあります。脇仏は小さいですが、これだけの物を飾るには四畳半くらいの大きさがいりますから、それを買って飾るというのは個人にはないのです。美術館でもほかにはないし、博物館では買わないことになっていて、借りることになっているのです。全部お寺の名前が書いてあります。お寺で売るとしても買い手がないのです。ですから割合安く買えるのです。そこで寺を助けるという意味で、箱根の美術館は小さいから並べることはできないが、熱海、京都のときにと思って金の続く限り買っておこうと思って、ボツボツ買ってます。そういうようで仏滅の世ということが、霊的でなく体的に出ているのです。それでお寺の仏像というのは、ほとんどなくなってしまうだろうと思います。それで国宝や重美になっているのはアメリカ人はたいへんに欲しがって、すぐ売れます。そういうようでお寺にある仏像はだんだん減ってゆき、だんだん形に出る仏滅になって行きます。中には本尊様を売っているのがあります。それには氏子<うじこ>の承諾書がついているのです。氏子がそれを承諾しなければ、自分も税金になかなかいじめられているので、お寺の維持費まで出すわけにはゆかないというので、判を捺すわけです。そういうようで仏教美術の良い物が集まりつつあるのです。と言っても仏像ですが、この彫刻はたいへんなものです。これは世界のどの国でも頭を下げます。世界で彫刻で良いというのはギリシアで、その後にダ・ヴィンチ、ロダンが出て作りましたが、日本の仏教彫刻とは段が違います。それから支那にも仏教の彫刻はありますが、とても日本のように秀<すぐ>れた作はありません。近ごろ、日本の仏像の彫刻などはだいぶ認められてきました。私は日本の仏像彫刻というのを世界的に認識させようと思っているのです。そういった寺にある傑作がだんだん集まってくるだろうと思ってます。そういうようなわけで、神様はあらゆる方面にわたり、いろいろな方法で集めたり、いろいろしてます。だいたい開祖や偉い坊さんが霊界で働いて手柄にするのです。自分がこしらえた寺にある良い仏像を、救世教の御用に使ってもらえばたいへんな手柄で、霊界においてそれだけの功労を認められて出世もするし、仏様は元はみんな神様ですから、その仏のほうから脱却して神様の位にしてもらって大いに働きたいのです。ですから近ごろになって、大いにそういった仏教美術が集まってくるのです。ですから道具屋がこんな物は出るはずがない、売るはずがないと言ってます。それは信者でないから不思議不思議と言ってます。そういう意味もあるのです。

教集23 昭和二十八年六月十七日(3)

 そんなわけで、最近の新宗教でも美術館を非常に造りたがっていますが、金がいることと、鑑識がきかなければならないので、なかなか難しいのです。天理教でも造ろうとしてポツボツ品物を買っているそうです。私のほうはずいぶんと厳選をしますから、道具屋が悲鳴を上げてます。なにを持ってきてもお気に入らないと言うのです。あんなにたくさんあるのだから、ない物なら買う、と言うと、そういう物はありません、と道具屋は弱ってます。私のほうでは、後はいくらも買わないから、天理教に大いに売りなさいと言っているのです。そういうようで、どの宗教でも腹の中では、美術館をこしらえたがっているが、手が出ないので悔しがっているようなわけです。それでこれはたいしたものだと、近ごろになってだんだん認めてきたようです。宗教に関係なく、ただ美術館としても、これほど完備した美術館、また周囲の庭園の状況なども、みんな見るとおりすばらしいものとなっています。この美術館などは、実は見本としてこしらえたものです。私が思い切ってやるのは熱海の美術館ですが、これは来年あたりボツボツやるつもりですが、これはここの三倍くらいの大きさになります。それにここで経験を得てますから、すべてにわたってもっとも完備したものを造るつもりです。ここのでもそうとう世界的なものですが、これからだんだん外国にも知れて行くような様子ですが、熱海にできる美術館こそ、世界一と言ってもよいでしょう。建築の豪華なのはアメリカにもありますが、なにしろ中身が肝腎なのです。結局美術は東洋美術です。西洋の油絵やガラス器具、陶器と言ってもここに出ているエジプト、ギリシア、ペルシアといったようなもので、たいした物はありません。支那陶器は英、米に一番集まってますが、それとても日本に比べたら劣ります。ただ日本はほうぼうに散らばってますが、一カ所に寄せたら断然世界一です。それでその一カ所に寄せるそのために私は骨折って支那陶器を集めていたのですが、いままで集まったまでの支那陶器のレベルとしても、アメリカに比べて劣る所もあるし勝る所もありますが、平均して少なくとも負けてはいません。あるいはいくらか勝っているかもしれません。それで日本にはまだ隠れた支那陶器がそうとうあるのですから、それがわずかずつでも集まってきつつあります。これは私が集めるのでなくて神様が運ばしているのです。ですからどこになにがあるということはだいたい分かってますが、なかなか売らないのです。私は、神様はどういう手続きでこっちによこすかと興味を持って見てます。そういうようで熱海の美術館こそすばらしいものができると思います。それからまだ負けていると思われるのは銅器ですが、しかし日本全体から言えば負けてはいませんが、一カ所に集めているというのではアメリカのフリアー美術館が一番です。日本にもありますが、だいぶ散らばっています。今度少し並べましたが、あれではまだまだ一級品ではありません。あの中での一級品は二、三点くらいです。あれよりかもっと良い物があります。これは少し人が悪いが、先方の懐が楽では駄目なのですから、どうしても売らなくてはならない、というような状態にならなければならないのです。これは別に私がやるのではないので、神様がやるのです。また中には、自分の家の先祖からの秘蔵品だから売らない、と頑張っている婆さんや爺さんがあるのです。それで伜はそういうことはなにもないので、売って事業に使ったほうがよいというので、もう少したって婆さんが死ぬまで、と言っているところもあります。そういうことなども結局神様はうまくやるものです。それからお寺でも、お寺の宝物や本尊様というのがありますから、どうしてもそれを売らなければならないようなお寺の状態になるのです。つまり屋根が漏るとか修繕する所ができてくるのですが、修繕するにはどうしても金がいるので、檀家のほうに言うと、檀家のほうでは額を寄せて相談しても、出るのは溜息ばかりで、とても金が集まるわけがないので、それでは寺のなにかを売らなければならないというので、取っておきの物を売らざるを得なくなります。そうかといって、そういう物の買い手がないのです。そういうのはいずれ国宝ですから、国宝は外国に売ることはできないのです。アメリカでは非常に欲しがってますが、そういう規則のために買えないのです。では日本ではというと、日本で買う者はどこにもないのです。それは仏像の大きな物をふつうの個人で買ってもしようがないのです。床の間には飾れません。そうすると美術館よりありませんが、日本の美術館では油絵を買う所はありますが、そういう古美術を買う所はありません。だから私の所で買うよりありません。そういう売り物もそうとうありますが、私のほうでは、わざと安く値をつけて、ほうっておくのです。そうすると最初は文句を言ってますが、ほうっておくと結局だんだんまけることになります。まだそうとう各寺にいろいろあります。また各寺の本尊様がこっちに来て御用をしたら、霊界にいるそこの宗祖、開祖などは非常な喜びなのです。その手柄によって上人とか大師が救われるのです。それによって仏滅の境目に救われるわけです。だから今度の歌にもあるとおり、みんなそういう人たちが救世教の手柄をしたいと大騒ぎをやっているのです。それにはそういう寺の宝物を、つまりこっちに差し上げるということが一番ですから、結局そういうことになってきます。

教集24 昭和二十八年七月七日(3)

 それから自然栽培をやる人で、まだ徹底しないところがあります。それは土を生かすということです。いままで金肥、人肥で土の力を殺していたというのを、今度は反対に土を生かすようにするという場合に、連作が非常によいのです。それはどういうわけかというと、土自体が植物なら植物を育てるような一つの性能をだんだん発揮して行くのです。それで農村では連作を嫌って年々畑を変えることをよいとしてますが、そういうことを言うとちょっとおかしいと思うことは、米くらい連作しているものはありません。先祖代々昔からやってますが、もし連作がいけないものなら年々悪くなるはずです。もっともいまは肥料で悪くしていますが。とにかく肥料をやるために土が変質してしまうのです。そのために連作が悪いように、土が一種の片端になったようなものです。だから二毛作で米と麦を半々にやることをよいとしていたのを、私が二毛作はいけないということを言って、一毛作にして非常に成績がよいという報告がありますが、そういうようで無肥料にして連作をすれば、土はいくらでもその作物に対する性能が増して行くのです。だから実際言うと米にしてもだんだん増えていって、いまの三倍くらいになります。最近来たお蔭話で、その人は七年目ですが、最初一、二年というものは、やはりどうしても無肥料が信じられないで、なにか他の肥料もときどき混ぜたようです。それが分かって、三年目くらいから本当にぜんぜん無肥料にしたのですから、とにかく正味五年目くらいでしょう。それで去年は反当り一〇俵いくらというのです。それで他の近所の収穫は五俵いくらというのですから、ちょうど倍は穫れたわけです。そういうようなわけで倍くらいはなんでもありません。私は五割増産としましたが、本当は倍と書きたかったのです。しかしあんまり穫れ過ぎるように書くと、かえって本当にしないのです。なにか常識外れのように思われますから、割引して五割としたのです。それで農村の人はなかなか肥料迷信にかかってますから、本当にぜんぜん無肥料に切り替えるのはなかなか難しいのです。というのは土が連作によって、いま言うようにその作物に合うような力が出るということを本当に知らないからです。そこでそれをよく知るようにいま話もし、また書くつもりです。この連作により土の性能が増すということをよく心得てもらいたいと思います。

教集25 昭和二十八年八月六日(2)

 それについてハワイ、アメリカですが、ハワイは今年の三月から樋口さんと安食さんが行って開拓を始めたのですが、今度はあっちでそうとうに大きな支部ができて、とてもこっちに報告を出せないくらいに忙しいのです。またその発展のすばらしさは、これこそは予想もつかなかったくらいです。そういうわけで、至る所支部とか出張所というものがドシドシできてます。あっちで新しく信者になったハワイの人で、夢中で働く人がずいぶんできてきました。だからこの分でゆくと、どれほど発展するか分からないくらいで、また非常に早いのです。いろんな報告を見ると、病気などでもかえって日本よりもよく治ります。よく治るとともに信者になる人も、簡単に信者になります。ではどういうわけでそうかというと、神様は、あえて特別に力を与えられるわけではないのです。むしろ日本のほうが中心ですから、神様は力を与えられるが、ただ日本は邪魔が多過ぎるのです。ハワイは邪魔がないのです。むりのままに受け入れるのです。「病気が治る、それはたいしたものだ」「医者で治らなかったものが治る、それはすばらしい」と、そのまま受け取るからドンドン発展するのです。ところが日本となるとこじれてしまっていて、実にしようがありません。なにしろ新聞雑誌でさんざんいろんなことを言われて、それに噂が尾鰭<おひれ>をつけて拡がったり育ったりしますから、そのためにみな誤解してしまってますから、救世教でいくら治そうと、どんなお蔭があろうと、なかなかそのままは承知しないのです。ですからお蔭話にもそういうことがたくさんあります。いったん治って、それなら信じそうなものだが、それが再発したりまた新しい病気が出ると、やっぱりお医者のほうに行ってしまうのです。だからちょうど惚<ほ>れた女がついているようなものです。どんなに美人でも、どんなに言っても、やっぱり元の惚れたほうに行ってしまうのです。そういうようで始末が悪いです。それでさんざんやって懲りて、やっぱり救世教がよいということが分かるのですが、それまではやっぱりいろいろなややこしい経路をへる人が多いのです。それでも信者になる人はよいですが、分からなくてアノ世に行ってしまう人があります。ですからとにかく日本のやりにくいということはたいへんなものです。救世教も最初のうちはハワイと同じようにおもしろいようにできました。その時分にはなにも問題はなかったのです。問題というと、こっちで作ったようだが、こっちにはなにもないが、先で問題を作ったのです。問題をこしらえていろんなことで悪口を言ったのです。ですからそれからだんだんやりにくくなってきたのです。そういうようなわけで、日本とハワイの違いさはたいへんなものだと思ってます。それからもう一つは国民性にもだいぶあります。ハワイはそうでもないでしょうが、アメリカは特にそうだと思います。アメリカにも今月から樋口さんがロサンゼルスに行くことになってますが、それについて非常に驚くことがあります。というのはこういう点が大いにあるようです。すなわちアメリカの人はアメリカ風と言いますか、そういった気風というものは非常に単純なのです。どんな偉い人でも、日本人みたいに変なこだわりがありません。良ければいいではないか、治ればそれでいいのだという、すこぶる単純です。右か左か早く決まりがつくのです。つまりイエス、ノーの判断が非常にはっきりしているのです。ところが日本人は、そんな新宗教などで病気がそんなに治るということは変だ、やっぱり精神的にそういう具合にうまいことを言われてウッカリ乗って、それで治るのだという、考えをややこしくもってくるのです。日本にはそういうことがあります。そのためにアメリカがあんなに発展したのでしょうが、これは日本ばかりでなく、古い国の一つの非常に悪い癖です。ヨーロッパなどもそれが大いにあります。今度の英国の戴冠式などを映画で見ても、それは何百年前のいろんな形式を尊んで、それを大いに誇りとするような点が見えるのです。もっとも伝統的にそういったような誇りをもって、国民の忠誠とか植民地の尊敬ということに対しての一つの利用という意味でしょう。そのためにかえって進取的な、新しく進むとか進歩するということが、非常に力が弱くなってしまいます。フランスなどもそうですが、これはフランスに行ってきた人によく聞きますが、フランス人はよく次のように言います。「アメリカ人というのは、美術とかそういうものはよく分からない、つまりあれは田舎者だ」と、田舎者視しているのです。つまり古い国というのは伝統を重んじ、伝統にこだわって、どうも進取的の気分が少なくなっているということが、かえって国の発展を妨げているという点があります。ですから日本人などもそういった気分が多分にあるから、病気を治したり新宗教などというと、どうも区別したがるのです。それで古い宗教から離れるということがとてもできないのです。これは始終あることですが、救世教の宣伝する場合などに、その家族の一人が奇蹟的に病気が治っても、自分の所は先祖代々南無阿弥陀仏だから、それは結構だが、その信仰にはいるということは自分にはできないとか、自分は何代前から南無妙法蓮華経だから他の新しいものは駄目だと、そういうことが大いにあります。だから日本で発展するには非常な困難があるわけです。つまり理屈どおりにゆかないわけです。ところがこれは簡単に考えると、新宗教でもオマジナイでもなんでもよいから、治ればよいのです。治って仕合せになればそれでよいので、他にはなにもありません。日本人は簡単なようで、進歩的考えが起こりにくいのです。そういう人はないことはないが、ごく少ないのです。それについて昨夜これを見たのですが、非常におもしろいのです。

教集25 昭和二十八年九月五日(1)

 それからこれは参考になるからちょっと話しておきますが、この間ある支部で、一生懸命に働いていた人が、ちょっと理屈に合わない変なことがあったのです。その事情は言えませんが、それで私は変だと思って、その支部を監督している中教会長とその変な人もチャンと良くなって一緒に来ましたので聞いてみると、そこは出張所になっていたのです。……中教会は地方にあって、東京に出張所をやっていたのです……。出張所をおくということは別に悪くないが、そこの支部長がいないのです。支部長がなくて出張所があったのです。それは嘘であって、それを知らせるために神様がなさったのです。ですから支部は結構ですが、支部長がいなければならないのです。支部長がいなければ、もしかそこの信者が病気とかいろんなことがあった場合に、中教会は地方にあるのですから、支部長という責任者がなかったら、カラッポのようなものですから嘘なのです。支部と名のつく以上は必ず支部長がいなければならないのです。それで「それは閉鎖しろ、支部長ができたらやるように」と言ってやりました。ですから理屈に合わないときには必ずお知らせがあります。ちょっとでも変なことがあると、それをすっかり調べてみると必ずなにか間違ったことがあります。ですからそういう理屈に合わないことや、なにかおかしなことがあると思ったら、そこを考えて、どこかに間違ったことがあると考えると必ずなにかあります。それもこれもやっばり智慧証覚がないとそれを発見することができないのです。ですから急所を発見することと、それから順序を間違えないことです。この順序を違えるということはよくあります。違えるということは、気がつかないのです。それから知らないことがあります。例えばこれを先にやり、こっちを後からやるという区別が分からなかったり気がつかないことがよくあります。そういうことはちょっと面倒なようですが、それを知ってしまうと無意識で順序を正しくします。霊界は霊主体従<れいしゅたいじゅう>であるとともに、それから体主霊従<たいしゅれいじゅう>のこともたくさんあるのです。しかし結局は霊主体従になりますが、一時的には体主霊従のことがあるのです。というのは最近のことで、この間放送局で録音をとりに来たのです。……その放送の予定は明日の午前一一時半ですが、これは私と、立正佼成会の会長の庭野という人、PL教団の御木徳近<みきとくちか>、もう一人、日之教<ひのおしえ>とかいうそこの教主と、四人が出る予定ですが……最初一〇日くらい前に来たときにしゃべったところが、どうも思ったようにしゃべれないのです。なんだか圧迫感があるようなのです。それで私は気に入らなくてしようがないのです。だからテストしてみて具合が悪いと思ったらもう一度やるから、遠慮なく来てもらいたいと言ったところが、先方でもそう思ったせいか間もなく来て、今度は私は無事にやれたのです。それで前にやったときにはどうして思うようにゆかないかというと、坐る位置が違っていたのです。先方が上座でこっちが下座になっていたのです。ですから仮に坂なら、先方が上でこっちが下です。そのときには気がつかなかったのですが、後でさっきはどうも変だったなと思ったら、順序が違っていたなと思ったのです。それは上座でなければならなかったのです。このことは無理にしなくてもよいが、肝腎なときにはその位置が非常に影響するということがよく分かります。ですから浄霊の場合にも上座に坐ると効きがたいへん違います。上座から下座に向かってやると効きがたいへんな違いです。しかし急なときにはそうはゆかないことがあります。怪我をして出血が多いというときにはすぐにやらなければならないが、やっぱり臨機応変にやらなければならないのです。こういうことも急所なのです。前に『信仰雑話』にも書いてあったと思いますが、「順序」というものがいかに影響があるかということです。いまの人は順序ということにはぜんぜんかまわないのですが、いま一番いけないことは、建築をするときにたいていな所は子供の部屋を二階にとるのです。これがたいへんな間違いです。それで親不孝が出るのです。それでふだんいるということより寝る所がたいへんなのですが、親よりも上に寝るということは、形では分からないが、霊界ではそういうようになるのです。霊界はでたらめではないので、実に厳格になってますから、霊主体従の法則によって、順序が違っているとそれだけ影響がきますから、苦しかったり思うようにゆかなかったり、なんだか気持ちが悪いものです。ですから、私がこうして高い所でしゃべるから、しゃべりよいし、またあなた方も聞きよいのですが、これが逆になったら変なものです。ですから「神は順序なり」で、神様は非常に順序がやかましいのです。仏様を拝むたびに祖霊がたくさん来ますが、それは実に順序がキチンとしています。大先祖は上段にいて、それからだんだん新しい先祖ほど下にゆき、親子兄弟、親戚と、その順序は正確に並んでいるわけです。だから家庭でもいろんな場合は、親子兄弟の順序をでたらめにしないようにするのです。そうするといつも気持ちよく平和にゆくのです。争いや言い合いがあったりいろいろしますが、そういうときには坐ることとかいろんなことでみんな順序が違っているのです。それで親が坐る所、長男、次男の坐る所と、決まっているのです。それで食事のときに順序がチャンとしていると気持ちよくゆくのです。それが順序が違っていると食事中に喧嘩したり気持ちが悪いことがあるのです。そういうことは些細なことのようであって、大きなことです。ところが霊界にはいろんな邪神もいるし、反対派のほうの霊がいて、それが順序を壊そうと始終やっているのです。それが体に写っていろんなことがあります。それで私を邪神は始終狙っています。しかし光が怖いから側には来れないが、遠まきにやっているのです。なにかあると、これは邪神がやっているなとすぐに分かりますが、それでとんでもなく順序を変えるのです。詳しく言うとこんなことで影響するかと思いますが、私を下にしようとするのです。といっても目に見えるようにではないので、それは実に微妙なものですが、そうすると私の光がちょっと跡切れるのです。それで跡切れるほど邪神の寿命が延びるのです。それはどうせ自分たちはもう長くないということは分かっているのですが、やはり邪神としての権力を持ってますから、その権力を一日でも長くさせたいのです。そこで私の光を妨げるのです。いままでのいろんな事件もみんなそれです。それによって一時延びるのです。しかし私のほうがだんだん強くなって、しまいには先が往生します。それからがミロクの世になるのです。

昭和二十八年十月二十六日の御講話(1)

 それでおかしく思うのは、信者の人でまだ肥毒に気がつかない人がいままでにそうとうあったようですが、今年からはみんな目が覚めるだろうと思います。古い信者はそういうことはありませんが、新しい信者などは「病気はなるほど明主様のおっしゃるとおりだ。しかし肥料のほうは、オレたちが先祖代々やっているので、明主様は百姓の経験はないし、どうもそこまでは」というように思っている人がだいぶあったらしいです。私は知ってましたが、やっぱり時期が来ないといけないと思っていたのですが、やっと時期が来たのです。そういう人たちが他の百姓に対して説明しても、それは駄目です。自分が本当になってないから説明に力がありません。それからまた肥料はやらないと言いながら、肥料に似たような物をやっているのです。だいたい堆肥ですが、私は最初は「無肥料栽培」でやったのです。堆肥もいけないのです。ところがぜんぜん無肥料でやっては法規に違反するというのです。それは進駐軍のほうなのです。それで投書か訴えをした者がいたのです。やっぱりアメリカ人も、ぜんぜん肥料なしだったら米はとれなくなる、そういう宗教は禁止するということなので、これはなんとかしなければならないというので、名前を「自然栽培」としたのです。ですから前には「無肥料栽培」と言っていたのです。そういうわけで堆肥はやってよいということになったのです。それは金肥人肥よりはずっと被害が少ないです。しかし今日になればもう本当のことをやらなければならないので、去年あたりからは堆肥もいけないということを言うようになったので、本当はいけないのです。しかし赤土系の土は固まるから、それではいけないので固まらせないために最初の二、三年でよいから堆肥をよく腐らして混ぜるというそれでよいのです。しかし肥料迷信にかかっているから、堆肥を肥料と思ってウンとやったので失敗した人がいままでにもあります。そういうわけでだんだん分かってはきました。この話はそのくらいにしておきます。