昭和二十七年五月十五日 『御教え集』九号(7)
この間の日比谷のときも言いましたが、こういう点が自然農法の効能ですね。で、それは非常においしいんですよ。野菜でもね。これは、米に限らない。いっさいの作物ですね。ところがいままで肥料を使っているために不味いんですね。不味いからして、どうしても肉や魚を食いたがるんです。私でもそうですからね。やはり、近ごろ自然農法で穫れたものをだいぶ食べるようになりましたがね。だいぶおいしいから肉より野菜を食べたいんですが、以前ときたら、野菜は不味いんです。だから、ついごちそうといったら、動物性のものを食べるようになるんです。だからして西洋は昔からそうですが、日本でも近ごろ非常に肉食が多くなってきた。動物性が多くなってきた。そうすると、精神的にどうしても気が荒っぽくなる。怒りたくなる。そこで白人くらい戦争好きなものはない。野蛮人が戦争好きと言うが、野蛮人より白人のほうが戦争好きです。野蛮人は部落と部落の戦争はやります。ところが白人は、戦争によって自分の野心を遂げようとするのが、歴史にたくさんありますよ。それから社会的の争いですね。裁判とかあるいは警察の取り締まりとか、そういうことが非常に必要になるのは、肉食の原因が非常にあるんです。私は七、八年前に……私の本にも書いてありますが、川治温泉というのがありますが、川治温泉と日光の間くらいの所に、湯西川という温泉がありますが、そこに行ったときに、戸数が九〇戸で、人間の数が……六〇〇人という村人がおりますが、そこでは絶対菜食です。川に鮎があっても食べないんです。先祖から食べたことがないから食べたくないと言うんです。鶏もないんですからね。鶏を食べようと思ってもないんです。とうとう隣村まで行って買ってきましたがね。鶏がいないから、無論卵もないんです。そこでは問題が起ると、宿屋の親父が一人で裁いている。それですんでいるんですからね。病人なんかないんです。肺病なんか無論ない。というのは、そこの村は絶対に東京なんかの都会人とは結婚しない。絶対に村中の人間と結婚しているんですね。たまに……日光が一番近いから、日光の人とはたまには結婚するらしいですがね。あとは絶対に村中でやる。なぜかというと、東京なんかとすると肺病になりやすいので、そんな危険なことはやらないほうが良いというので、村中ですんでいるんですね。そういうわけですから実際理想的ですね。天国みたいな村です。私はそのときに……だからみんな心が穏やかで、そこのいろんなことを宿屋の娘に聞きましたが、娘も二〇くらいで女学校ですがね。女学校は日光の女学校に行くが、非常に頭が良くて、話し方もめったにないくらいにはっきりして気持ちが良いんですね。そういう点を聞いてみると、菜食というものの影響……これが非常にある。だから、つまり自然農法も、そういった米にしろ野菜にしろ非常においしくなりますから、どうしても多く食べるようになる。そうすると、そのために人間に、精神的効果が非常にあると思う。だから、自然農法の効果は、いままでそれを言わなかったが、近ごろそういう点に非常に影響があると思ってお話するんですがね。だからそういうふうになると、西洋でも野菜をもっと多く食べるようになりますね。外人ですね。もっとも外人でも菜食家というのはありますがね。死んだバーナード・ショウなんかは有名な菜食家ですね。ですから、やっぱりミロクの世の、一つの条件になるわけですね。
昭和二十七年七月十五日 『御教え集』十一号(7)
浮世絵ですが、真ん中にある大きいのは、浮世絵としては日本一なんです。これは掛物で、湯女といって、昔の湯屋に……まあパンパンみたいなものですが、有楽町のガード下にいるようなあんなのではない。もっと高等なんです。それが散歩しているところで、実に良いです。桃山時代の絵です。日本にその湯女と、彦根屏風がありますが、屏風のほうは疎開するについて、剥がして……まだできないでしょう。こっちは掛物ですから、これは日本一と言って差し支えない。その隣が土佐光起の高尾の絵ですが、これも実に良く画いてあります。あとは蒔絵ですが、これも一つ一つみんな謂があるようなものばかりですが、それをいま話すると時間がかかってなんですから、それは見てもらうとして、ただそのうちに一つすばらしい手箱があるんですが、それはあそこに説明書がついてますから、それを読んでもらう。あとは印籠があります。これは珍しいものです。印籠一つ一つが最高のものです。いまそれが一つでもたいへんなものです。それが一二並んでます。それで蒔絵が画いてあって、それに印寵箪笥があります。私は一つ一つ蒐めたんですが、不思議に一致した。これは神様のお働きがあるんです。そこにある巻物ですが、巻物は二、三ありますが、住吉具慶という、昔の大和絵の名人です。その人の「源氏物語」ですが、歌と絵と交互になってますが、その時代の気分が実に良く表われている。それを見るとなんとも言えない気品に打たれます。宗達の巻物、光琳の団扇……それも珍しいです。光悦の書ですが、一つは漢字です。光悦は仮名書きの名人ですからね。支那の詩かなにかです。あとは光悦の画帖です。これは色紙を何枚も貼ってあるんですが、これは近衛家の先祖が、じかに光悦に画かしたんだそうです。ですから光悦の色紙でも最高のものです。いくらもありますが、このくらいのものはめったにないです。次は第五室です。これは支那のものです。これはまず道具屋やそういったものの専門の者でも驚いてました。掛物で、宋時代のものですが……元もあります。宋元時代のものです。そのうちの一番のものは、牧蹊の画いた双幅で、鶺鴒と翡翠です……小鳥のね。これは実に良いです。なんでも、関雪の弟子のなんとかいう人……鉄香ですね。その人が二日続けてきたんです。それだけを見にね。いつまででも見ているんだそうです。それは実に良いんです。あとはその隣に梁楷という人の寒山拾得があります。その隣の三尊の弥陀ですが、これは国宝です。有名なものです。まだいろいろあります。徽宗皇帝のもあります。徽宗皇帝の本物というのは非常に少ないんです。めったにないんですが、これは本物です。それから馬遠だとか因陀羅、銭舜拳、高然暉、李安忠の鶉……これは鶉の名人です。支那のものは妙なもので、一つのもので名人がある。それだけ画いている。ですから日観の葡萄といって、葡萄ばかり画いている人、また檀芝瑞の竹といって、竹ばかり画いている人もある。そんなようで宋元画はたいへんなものです。それから陶器類も、いま鎌倉の美術館で支那陶器の展覧会をやってますが、この間も各国大使を招んで、たいへんな名器を蒐めたということになってますが、商売人がここの美術館を見て、てんで鎌倉の美術館とは違うと言ってましたから、すばらしいものには違いないです。第六室はふつうですが、この中でぜひ知ってもらわなければならないのは、例の天平因果経です。これは、説明が昨日出てましたから、それを見たら分かります。ただ、一二〇〇年くらい前で絵具なんかちっとも浅せてないです。これは不思議なんです。そういった絵巻物の中では日本一です。たくさん因果経はありますが、これは最高のものです。知らない人はないくらいです。アメリカでも珍重しているんです。それで、アメリカ人が欲しがってたいへんです。一五行いっているんですが、一五行もここにある因果経の次の因果経です。これは非常に欲しがって、いくら高くても買うそうです。これを知っている人は決して売らないです。これは国宝以上のものです。なぜ国宝にならないかというと、切ってあるからです。まとまっていないからです。切ってあるのは国宝にならない。それから推古仏で、一番古い……一三〇〇年くらい前です。肘をついている観音さんで、金銅仏ですが、これは日本で四九体できた。で、四八体だけ法隆寺から献上した。ですから四八体仏といって、御物になっている。そのうち一体だけ、よけいできたのが、ある所に非常に大事に隠されていた。それがうまい具合に私の手に入った。ですから民間にあるのでは、これが最高です。それから旗があります。これも奈良朝ですから一〇〇〇年以上前です。持統天皇の……その時分の錦の御旗です。ですから、もうボロボロになってますが、肝腎な所だけは残ってます。これは歴史的におもしろいです。あそこに出てます。それから、仏画の中でちょっとおもしろいのは、不動さんの絵があったのを、宗達が矜羯羅童子と制多迦童子を画いたんです。衿羯羅童子と制多迦童子は、かなり大きく画いてありますが、それは宗達の仏画です。それは珍しいんです。良く画いてあります。あとの仏画は、たいしたことはないです。
昭和二十七年八月一五日 『御教え集』十二号 (2)
あんまり専門的になってますが、ここにある支那陶器だけではやっぱり日本で一番です。ただ、これだけ蒐まってますが、去年の五月までは支那陶器というのはまだ知らなかったのです。もっと精しく書いたら書けますが……。その代わり去年からは支那陶器のある所にはどこにでも行きました。東京にも行きました。一品でもある所には行きました。それから支那陶器に関した本も集めました。ふつうなら一〇年二〇年はかかるでしょう。それを私は一年ですから馬鹿に早いのです。これは、将来外人を誘致するには非常に力があります。英、米に行きますと支那陶器というのはほとんど美術の代表みたいになっている。だから今度もロサンゼルスで支那陶器の展覧会をやりましたが……二、三日前にその図録が来ましたが、ずいぶん数があります。日本で一五点出しましたが、十五点が断然良いのです。品数としては二、三百ありましたが、十五点を向こうの新聞、雑誌に書いたそうですが、記事の三分の二は日本に関するものだそうです。それで、世界一というのがあるのです。そんなようなわけで、なにしろ英、米で蒐めたのは明治以来です。ところが明の時代のを蒐めたのが多いのです。日本は天平時代から来ているのです。唐時代のものがその時代から入ってきているのです。それから藤原時代。足利時代が一番多く入ってます。そんなわけで伝世といってきれいなのです。ところが英、米に行っているのは土中物といって土に埋まっていた物ですから、艶がなくて色もずっと変わっているのです。だから日本の支那陶器は断然良いです。今度の十五点で支那陶器は日本というくらいの評判が出てきたそうです。そんなような具合で日本にはなかなか良い物があるのです。それはまだまだずいぶんあります。そのうちのごく良い物を私が選んだわけです。しかし支那陶器なんてぜんぜん知ちなかったのですから、知らない最初は見当つけるのに骨を折りました。しかしやっぱり霊感でいきます……見ていると自然に感じます。それで、割合に外れないのです。だからみんな驚いてました。どうしてこんなのが手に入ったか、とね。いろんな原因がありますが、やっぱり神様がやっているということが良く分かるのです。やっぱり霊界で、先祖が持っていたようなのが、大いに手柄をして救ってもらいたいというのでやったものに違いない。そんなわけですから特に必要な物はちゃんと蒐まる。それから種類は実に良く蒐まる。支那陶器は、見ただけでも種類は実によけいある。それで、みんな一流、二流の物です。
昭和二十八年九月十七日
昼の世界になった一番初めは、日本では日蓮上人が出たときです。で、いつも言う通り仏教は月の教えだということは、つまり夜の世界というわけなのです。まあ、闇の世界です。そこで月がありがたかったのです。それが仏教です。それまで月であったのが、初めて仏教の中に日が出たわけです。それが日蓮上人なのです。日蓮上人は一番最初に安房の清澄山に登って、黎明に妙法蓮華経を唱えた。それから法華経を弘通したということになってますが、これは事実なのです。そんなわけで日蓮上人は、天照大御神の生まれ変わりだということを唱えていたのです。「われ日本の柱ともならん。われ日本の大舟ともならん」と言ったのですが、日本の柱ということは、日本の天皇ということです。自分は日本の天皇だと思っていたのです。ところがそれが間違いであったということを悟ったのですが、とにかくそんなわけで仏教の中に日が出たのです。だから仏界における黎明期に入ったというわけです。それからだんだん進んで明治に……この明治になったということが、そこにまた意味があるのです。それまでは武家の時代だったのです。武家の時代ということは、武力で天下を取っていたのです。で、最後の武家の天下が徳川時代だったのです。これは先にも書いたことがありますが、武家の先祖と言いますか、それは素盞鳴尊なのです。素盞鳴尊が神武天皇にやられたのです。まあ、息子の大国主命のときです。これは歴史にもありますが、神武天皇の系統を日の系統だということがあります。天照大御神の系統だということになってますが、天照大御神の傍系になっているのです。ですからまあ……系統とも言えるのです。本当の系統は押し込められたのです。岩戸隠れになっている。その傍系が神武天皇になっている。そこで大国主命は素盞鳴尊の系統ですから、月の系統になる。そこで日の系統をやっつけようと思って、そうして始終闘っていたのです。それが日本の戦争に次ぐ戦争であった原因なのです。そうして最後が徳川家康です。あれは素盞鳴尊の系統だからです。そこで今度は、素盞鳴尊のほうをやっつけて、そうして日の系統が立たなければならないということが明治なのです。王政復古です。その一番根本的の一つの手伝い、援助者がアメリカです。アメリカから、日本の開国のためにペリーなんかが来ました。それはどういうわけだというと、月の時代……英国は月の国だということは、私は言ってますが……を過ぎて、月がだんだん隠れてきて……月が隠れると闇になるから、そうすると星が光ってくるのです。そこで英国がだんだんおとろえるに従って、米国が勃興してきたのです。米国は星の国なのです。そうすると、星が過ぎると日が出るのです。これは天文学的にいっても良く分かります。月がなくなると真っ暗になり星が光る。そうして今度は日が出る。ですから「星」という字は「日が生まれる」と書いてある。米国は日本の日の系統を生んだわけです。米国が日本を開国したために、徳川というものは没落したのです。そうして日の系統である天皇のほうが、天下を治めたということです。ところでこれが、この形が宗教的に現われている。というのは、一番おもしろいのは、いまどこの宗教でもみんな病院を作り始めている。天理教なんかでも病院を作り始めているのです。それから「ひとのみち」……「PL教団」でも、日蓮宗の「霊友会」の一派で最近非常に有名になってきた「立正佼成会」でも、立派な病院を作っている。理想的な病院だと、非常に自慢している。これらも、以前は医学が駄目だとか薬が駄目だとか言っていた宗教ですが、いまはみんな病院をこしらえている。今度聞いた話ですが、「ひとのみち」の教祖の御木徳一という人のときに……二〇年前ですか、そのときに信者になったなかなか有力な人で、金なんかもたいへんに寄付したらしいですが、その当時に医者や薬はいかんと止められて、その通りにしていたら、間もなく自分は健康になって、いまもって家族でもなんでも医者にかからないで、非常に健康を維持している。ところが最近病院を作った。自分はどこまでも、病気は信仰で治すべきものと思っているので、病院を作った「ひとのみち」が頼りにならない。そこで今度は、医者に頼らない宗教で、信仰で病気を治すというものを見つけ始めたところが、メシヤ教より他にない。そこでメシヤ教に入りたいからと、ある支部に訪ねたというのです。ですからその人の話によっても、医者を否定する宗教はメシヤ教だけということになる。私が「大本教」に入った動機というのは、医学の間違ったことを知ってからですが、お筆先にこういうのがある。「外国から渡りて来た、毒にはなっても薬にはならぬ、ヤクザな物に高い金を払って身体を濁らす馬鹿な人民ばかり、神も困るぞよ」というのがある。そこで私も驚いた。そのころ薬は毒だという人はないのです。それがちゃんとお筆先にある。これはたいへんだと、「大本教」に入った一番の魅力だったのです。「大本教」もそれほど医学を否定して、あの時分にやっていたのです。ところがこの間「大本教」の古い人が来たのですが、真っ青な顔をしてきた。「どうした、あなたは薬を服んでいるだろう」と言ったら「漢方薬をやってます」と言う。ですからみんな医者にかかったり薬を服んでいるのです。以前は「ひとのみち」なんかでも、「御振替」で非常に良く治ったのです。それが治らないから病院を作るのですが、どうして治らなくなったかということは、いままでの宗教は全部月の系統の宗教なのです。その親玉は「天理教」です。「天理教」の神様が月の系統の神様です。天理王尊<てんりおうのみこと>というのは、相応した名前です。他のいろんな八柱の神という神様がありますが、あれは月の系統の神様です。「天理教」に古くから会があります……月日会というのがある。私はおかしいと思うが、日月会<じつげつかい>としたら良いだろうと思います。いまでもあります。それからもう一つは、「天理教」の標語に「一列揃って甘露台に」とあるが、甘露台ということは月の甘露です。それから、以前は甘露台というと、灯台みたいなものを作って、入れ物は皮かなにかを置いて、そこに月の夜に露を溜める。それを甘露といってたいへん尊び、病気のときにそれを一滴くらい飲むと、非常に良く治った。ですから月の系統ということは良く分かります。ところが昼の世界になるについて、さっき言った通り明治時代になって霊界の……八衢の前……八衢は三段になっており、天国も三段になってますが、言わば第三天国の所に黎明になった。これは私の本に書いてある通り、昭和六年六月一五日に房州の日本寺に行ったときが現界の黎明になったわけです。そうしてだんだん日が出てくる……つまり浄化が強くなってくる。火素が増えてくる。そうして昼間になってくると、月の光というものは、だんだん消えてくるのです。ですから月の光で治った力が、だんだんなくなってきて、いまはどの宗教でも病気は治らないのです。しかたなしに病院を作るということになる。ところがメシヤ教のほうはそれと反対です。毎年だんだん治ってくるのです。これはあなた方が浄霊すれば分かりますが、日に月に治り方が強くなってくるのです。ですからこれがだんだん進むと、いよいよ月の系統のほうは、まったく治らなくなってきます。だんだんそうなってきてますが、いっそう治らなくなるとともに、日の火素のほうが強くなってくるに従って、浄化が強くなってきます。そこで月のほうは……医学も月のほうですから、固めるというのですから……。以前よく手の平療法とかいろいろな療法がありましたが、それはそうとう効き目があるのです。治るのです。しかしそれはみんな固め療法です。そして固め療法の親方が医学です。薬で固めるのですから……。ところがだんだん火素が増えるに従って、固め療法が固まらなくなってきた。これは医学のほうでよく現われている。このごろ、先には良く効いたがこのごろ効かなくなった、ということが非常に増えてきた。先に、ヒドラジドはアメリカでは良く効いたのです。ところがアメリカのほうは火素が弱いのです。日本から日が出るから、日本のほうが浄化力が強いのです。そういうわけですから、ヒドラジドが日本に来たら、固める力が弱くなるから効かないのです。二、三日前の新聞に、いままでの試験では一番おおげさにやったように書いてありますが、効いた人が三割だというのです。三割効いたといったところで、一時的なものですから、また幾月か経つと元の木阿弥になるから、結局一人も効かないということになります。ですからそういう具合に、ますます火素が増えつつあるということは、はっきり分かるのです。なんにでも現われている。このごろお医者さんのほうでも、首をひねってきたのがずいぶんあります。メシヤ教は病気が良く治るということでも、医学界のほうにもだいぶ知れてきたようです。これはあたりまえの話ですが、喜ばしい話です。そんなようで、だんだんそれが著しくなってきて、しまいには注射すると即座に死ぬ、ということになります。それで初めて、医学はもう駄目だ。ではなにか他にないかということになると、メシヤ教は先からこういうことを言っていた。それではメシヤ教を研究してみよう、ということにならないこともありません。それからがこっちの出場の舞台になります。みんな鼻をオヤカしておいて……。いまに引っ張りダコにされるでしょう。それまで我慢して楽しみにしていることです。あまり長くなるから、その話はそのくらいにして。
昭和二十七年五月二十五日 『地上天国』三十二号
昭和二一年一月山八日、初めて明主様より御浄霊をいただきました節、私儀には「傍系にあたる先祖で胃癌で死んだ祖霊が憑依しておる」とのお言葉をいただきましたが、そのお言葉通り間もなく、その霊が出まして「自分は執着のため龍神になっているからぜひ祀ってもらいたい」とのこと、さっそくお伺いいたしましたところ「三休明神と命名してお祀りせよ」とのことでございまして、御指示の通りにお祀りいたしておりました。ところがその後父が帰幽いたしました関係で、山口県H市の寺院(天台宗にてN寺と申します。右の祖霊はこの寺の中興の祖と言われている三休和尚の霊でございます)を後任住職に譲ることになりましたので、現在の住所、島根県Ⅰ市O町に転居いたしたのでございます。
最近、実家T家のほうがほんとうの姓であり、両親を始め御先祖様がなつかしく、妹に家を譲って立派にやってくれておりますが、先祖代々之霊位としてお祀りするとき、やはりH家を主といたすべきか、実家のT家を主に祀らせていただけばよいものでございましょうか。
昭和二十七年六月二十五日 『地上天国』三十七号
私の家は近所ではたいへん古い家で八代目くらいです。二代目の先祖の弟は心中(水死)して無理死しており、六代目の長男は馬より落ち急死(二九歳)、その後三代引き続き長男が二九歳で若死にしています。あまり不幸が続きますので、以前お伺いを立ててみますと、いつも「家の屋敷に昔のM家の姫の墓がある。その姫様のおすがりだ」と言われますが、右のようなことともなにか関係がございましょうか。そして孫の内病は御浄霊を続けさしていただいてお救いいただけましょうか。浄霊の急所を御教示いただきとうございます。
昭和二十七年八月二十五日 『地上天国』三十九号
I家の先祖でやはり「リウマチ」にて明治三八年に亡くなられた人もあります。
昭和二十七年九月二十五日 『地上天国』四十号
――N・K(三七歳)は昨年二月ごろより発作的に物を投げたり怒ったりするようになり、九月に男児分娩後は殊に発作が激しく、家人の監視が必要のため脳病院へ入れましたが、そのとき院長は全快の見込みなく預かるだけだと言われ、電気治療をいたし、約六ヵ月後の本年五月退院いたしましたが、日常絶えず何者かの霊と話をしておりますようで、返事をしたり笑ったりしゃべったりいたしており、他から話をいたしましても、とんちんかんな返事をいたし、げらげら笑います。ときどき大切な物でも無理に人にあたえて困らせたり、たらいに水を入れて、行水のまねをいたします。六月一四日より主人にこのお道の話をいたし、御浄霊をいたしておりますが、変化がございません。七月一日家出いたし三日目に警察に保護されておりました。七月一八日、主人と本人と入信いたし、御屏風観音様を御奉斎させていただきました(先祖代々の霊の位牌は作っておりません)。その後は動作がそわそわするようになり、二二日夕刻よりひどい発作が起り「坊様やお客様が大勢くるから」と家中騷がせました。翌朝は激しく「神様が切れと言われたから」と刃物で手を切り、首を締めたり、たらいに水を入れて着物のまま入り、祝詞をあげ、歌を唄い、飛んだり暴れたりいたし、やっと上げて御浄霊いたしますと「わしはお日様の次に悟りを開いたのだからそんなもの(御浄霊のこと)いらぬ」と申し、また「家に火を点けて焼け」とかいろいろ大声でどなっておりましたが、天津祝詞、善言讃詞、御讃歌、明主様のレコードなど聞かせまして御浄霊させていただきましたら、夜八時ごろやっと平常の精神状態になりました。その後、御浄霊をきらいます。主人はN家へ養子に来まして、一男一女を置いて戦争中に先妻と死別いたし、二度目にいまの「K」を娶りました。次々と三人分娩いたしまして長男は幼児のとき死亡いたしております。なお本人は最初嫁ぎまして三ヵ月くらいで生別、男児分娩後、男親に渡し里子に出し、現在一六歳でその子供が生みの親を慕っているそうでございます。なお本人はN家へ来まして三ヵ月くらいのとき結核性脳膜炎で入院いたし、氷冷で良くなったそうでございます。なお本人の実母は生駒の聖天様の熱心な信者で、人助けもいたしているそうでございます。主人も入信はいたしましたが、なかなかわかりません。御浄霊の箇所は前頭部、後頭部、肩、首、腎臓部をさせていただき、御浄霊のときは天津祝詞、善言讃詞を一回ずつ奉誦させていただいております。これはいかなる原因でございましょうか。いかにいたしましたらお赦しいただけますでございましょうか。謹んで御垂示のほどをお願い申し上げます。
――私は心臓弁膜症で御守護いただき、昭和二五年に入信いたしました者でございます。二四年に長男(K現在四歳)を分娩し、生後一〇カ月くらいのとき、お祖母さんの一周忌後急に発熱し、医師にみていただいたら佝僂病<くるびょう>と言われ、毎日通っているうちに小児麻痺と診察されました。不具の子供を持つ悲しみ絶望感は、ひしひしと身に迫るものがありました。軟弱で骨のないごとき症状で、言語明晰を欠き、涎を流し、全部が屈曲麻痺しております。御浄霊いただきましてから、握ったままの手がいまは開くようになりました。やっと物を持つようになり、目もどろんとして年寄りのようだったのも少し良くなりました。私も一生懸命神様におすがりし、会長先生からもいくども御浄霊をいただき、「あなたの御先祖には中風で亡くなられた人はございませんか」とたずねられました。私が子供を生む五年前に姑が中風で亡くなっております。Kがお祖母さんと同じような状態で顔までがそっくりでございます。御屏風観音様を奉斎するように再々お祖父さんに言いましたけれど、天理教の信者で聞き入れず、私の実家で弟が入信しているので御屏風観音様を御奉斎いたし、中風で亡くなった祖母も実家にお祀りさせていただいております。私は浄霊いただきながらもふたたび子供を授けていただき、その子供はKに比べものにならないほど達者な子供でございます。弟が丈夫なのでKは泣いているのでございます。あるとき天理教の布教師にすすめられ奈良の本部まで行きましたが、なんの変化もございませんでした。ただいまは御浄霊は弟よりいただいておりますが、あまり変化がございません。御浄霊の際は善言讃詞を奏上させていただいております。御神書も聞かせております。
『地上天国』四十二号、昭和二十七年十二月二十五日
再縁せる女の信者の場合でございますが、自分の実家の先祖代々の位牌と、亡くなった主人の先祖代々の位牌およびその主人自身の位牌の順序をどのようにしたらよろしいのでございましょうか。御教えのほどお願い申し上げます。
その主人の先祖が一で、主人が二でよろしい。
本年一月三日に親戚の者より本教を教えていただき、さっそく支部にまいり御浄霊をしていただき、一〇日目ごろに少し良くなったと思っておりましたが、また、しだいに痛みが元のようになって、現在両足も痛むようになりました。続けて六カ月くらい御浄霊を受けました。その後は二日に一回くらいしていただいておりますが、別に変化がございません。現在御浄霊は腎臓と局部を主としていただいております。ちなみに四代前の先祖に男が神経痛で病死しています。三代前の男、当時二三歳は海に落ちて死んでおります。三代前には男が男女の折り合い悪くなり、子供のある仲を結婚せず別れて、その後、女は非常に恨んで死んだそうです。私は最近分家いたしましたが、本家ではその後より山林や畠はしだいに売り払うようになり、現在は親も私たち兄弟もみんな経済的に非常に困っているしだいでございます。妹(長女)は三年前に結婚いたしましたが、昨年離婚して帰っております。なにか霊的関係でございましょうか。その他御浄霊箇所の御教示のほどお願い申し上げます。
昭和二十八年二月一日 垂録17(6)
〔 質問者 〕『アメリカを救う』を拝見してきた人がありまして、六日に入信の予定でございますが、その人の話で、キリスト教が日本に伝来したときにその人の先祖が非常に協力したそうで、非常に喜んでおりました。年は取っておりますが、力の限り明主様に御協力をさせていただきたいと申しておりました。