昭和二十八年二月十二十三日御誕生祭御教え(5)
そこで、近ごろ美術ということに対する社会的の関心を非常に持たれてきました。だから新聞で美術とか美術展覧会とかを扱わなければならないようになってきたようです。そういうような具合で、とにかく美術熱というものが非常に高まってきてます。これは日本ばかりでなく世界的で、外国でも非常に美術熱が高まってきて、特に米国などは非常なものです。それで私は将来米国で東洋美術、特に日本美術を紹介しようと思って、その方法を考えています。それには、なんでも来年あたりロックフェラーなどが来るかもしれないということを言ってましたが、そうしたら箱根美術館も見せて、私が話をしようと思ってますが、あの人が力を入れると、金はいくらでも出しますし、また非常に美術が好きだそうで、特に日本美術は好きなのですから、いずれは日本美術を主にしたものを、と思ってます。今年米国でやりましたが、あれはどっちかというと、国宝的、仏教的の物を主にしてあるのですから、どっちかというと官僚的美術品です。私はそうでなく、つまり民衆的美術品というものの展覧会を米国でやれば、非常によいと思います。それは私の手でもできないことはないのです。というのは、今年アメリカでやったのは、一口に言えば堅すぎるのです。とにかくだいたい藤原以前あたりのものが非常に多いのです。足利、桃山、元禄あたりのものは、ごく少ないのです。民衆の芸術は元禄以後なのです。それまではその時代の権力者が楽しんだ美術品なのです。ようやく徳川中期から人民が楽しむという美術ができたので、それが非常に華やかだったのが元禄なのですから、つまり元禄以後の民衆芸術というものを、大いに世界的に知らせる必要があるのです。ところがいままでは本当の浮世絵だけだったのです。これは逸早《いちはや》くヨーロッパあたりまで行ったのですが、他の物はほとんど行かなかったのです。というのは、大名などの方面に秘蔵されていたのです。それが終戦このかた散らばって出てきたために、私なども手に入れることができたのですが、そういうようで、日本美術の、古代美術でなく中世紀以後のものをそうとう集めて、多くの人に見せるという必要があるのです。そういうような意味で、救世教もそういうことが一番手っ取り早いですから、その面から世界的になるわけです。そうして他の方面の救いのほうは、とにかくよほど、なんというか、一つの比較、つまり美術の方面でもたいしたものだということの信用を得て、他の救いのほうをしたほうが、つまり導きよいと言いますか、仮に医学のほうでも、農業なら農業のほうで自然栽培が日本中に知れ渡るようになれば、そこで救世教はたいしたものだということになり、そこで「薬は毒だ」ということが耳に入りやすくなるのです。これは万事神様がやっているのですから、別にそういうふうに考えることはいらないのですが、救世教が美術に非常に力を入れているということも、そういうようなわけです。このやり方は、やはり救世教ばかりでなく、たとえてみれば、聖徳太子が仏教を開いたときもやっぱりそのやり方です。それによって奈良という、ああいう仏教美術の都市ができたわけですが、これは聖徳太子がとにかく仏教を弘めるについて、そういうやり方をしたわけです。それがまた日本の美術に対する大きな功績になったわけです。とにかく日本のあらゆるもの……そういった美術ばかりでなく、音曲でも舞踊でも、結局仏教から出てます。つまり仏教が極楽浄土の形を現わすということが芸術を作った始まりです。それで歌舞音曲《かぶおんぎぎょく》というのは極楽の相です。そこで法隆寺というのは七堂伽藍《しちどうがらん》を写したものです。それから祀園精舎《ぎおんしようじや》ということは、一つの天国の、芸術……歌舞音曲といったものを現わしたものです。それはむしろ藤原期以後京都を主にして始まったのですが、それも結局、因《もと》はと言えば聖徳太子の仏教芸術が発展したものです。それからヨーロッパでもそうで、なんといっても、さっき言ったイタリアのヴァチカンのローマの文化というものは、キリスト教を主にしてできあがったものです。たとえてみれば、奈良の大仏にしても、もし信仰の力がなかったらあれほどの物はできません。それから支那においてもそうです。支那の最初の始まりは三千数百年前の殷《いん》で、それから商《しょう》、周《しゅう》という具合に発展してきましたが、その時代の物を見るとみんな仏器です。つまり仏様にあげる香炉《こうろ》とか花活《はないけ》とか、いろいろな器物がそういった道具で、それから発達しているのです。それで一番さかんになったのが魂《ぎ》の時代……つまり六朝《りくちょう》時代ですが、このとき仏教芸術が非常にさかんになったのです。ですから支那の仏教芸術というものは、みんな魂の時代の物です。それから、その後の唐《とう》時代から陶器が非常にさかんになりましたが、それはみんな銅器が基本になっているのです。ですからやはり仏に関係したものです。そういう具合で、芸術というものは、やはり宗教から出ているものです。だから救世教が美術に対して非常に関心を持っているということは、古い時代からそうなっているのです。それで芸術というものは、やはり天国を現わすものなのですからして、宗教が基礎になるということはあたりまえなのです。それでただ、その時代時代によってやり方が違うだけです。それで私がやっていることは二〇世紀の時代に合っているわけです。ですからいままであったのは、古い時代の何百何千年前のやり方です。ところが新しい時代、要するに科学文化の時代には、そういった宗教的のものはまだなにもできてないのです。そこに救世教が率先してやったわけです。そこで箱根、熱海の地上天国がそういった新しい時代のやり方、形式、そういうものを表現したわけです。ですから今日でも宗教建築というと、おそろしく古い時代のものをやり、みんなそういった頭になってますから、救世教のような、ああいったハイカラなもの……ガラス造りの家をこしらえるということなど、おおよそないのですが、これはできてあたりまえです。ただ救世教が先鞭をつけたというわけです。ですから、これからやはり、それと、救世教は宗教ばかりでなく、世界的に地上天国を造るというのですからして、その規模、計画なりが、いままでのものより大きいのです。一宗とか一国だけというものではないわけです。しかしそれも計画だけではないので、実際に造るわけです。ですから神様のほうでは、地上天国というものを世界中に造られるわけです。これは救世教だけがやるのでなくて、その国の人が造るわけなのです。これは将来の話ですが、とにかくこれからそういうふうに、いろいろなことがいろいろな国にだんだん繋がって発展して行くのですが、これはいまはそうなっておりませんが、霊界においてはほとんどできあがっているくらいなものなのです。だからだんだん……時です。それで、スピードというものはだんだん早くなり、大きくもなるものです。ですからこれから非常におもしろく、張り合いがあるわけです。
昭和二十八年十二月十五日(2)
線を抜いてからも、やっぱりいくつにも段があるのです。ところがたいていな世間の信仰は低いのです。稲荷様とか権現様を信仰するのは、線をちょっと抜いた所です。それから何々教とか何々宗というのになると、だいぶ上になってくるのです。ところが上になったとは言っても、まだ本当の上ではないのです。線をちょっと抜いた所だからすぐに下に落ちてしまうのです。この間の霊友会というのはそうです。ふだんは上になっているのですが、どうかすると下に落ちてしまうから間違いをしでかすのです。そういうふうに考えると、分かりにくいことはないので、実に分かりよいです。それで線から上の段で一番高いのが救世教です。そうなると力が違ってくるのです。ではいままでそういった上の段に行かれる宗教はなぜなかったかというと、いままでの宗教は全部月《つき》の神様なのです。つまり夜の世界だったから月の神様が支配していたから、光が足りなかったのです。今度は太陽が現われたのです。ですから私のこの病気を治す力も太陽の力です。いま読んだ、水素の毒粒子を焼き尽くすという火素《かそ》は、太陽の力だからそういうことができるのです。ところがいままでは宗教でもなんでも全部月の系統です。太陽の光からみると六十分の一ですから、六十分の一の力しかなかったわけです。ところが今度はいままでよりも六十倍の力ですから、そこで信者の人でもすばらしい力を発揮するわけです。キリストでも月の神様の最高のものだから、月だけの力しかなかったわけです。私の弟子は、月の力よりも太陽の光は、わずかでも、やっぱりそれだけの働きが違うわけです。ですから奇蹟が現われるということは、そういうわけです。いままでないことがあるということは、いままでは月の力であったからで、今度は日《ひ》の力になるということに大きな違いさがあるわけです。そう考えると、救世教の奇蹟が多いことも、浄霊で病気が治るということも分かるわけです。別に難しいことはないわけです。ただ、いままで太陽のほうの神様が出なかった、出られなかったというところが根本なのです。それで、今度はその太陽が現われたのです。昼間の世界というのは、そういうわけです。
宇宙というものは、そういうことになっているのです。すべて夜昼の区別があるように、だいたい一年、一〇年、一〇〇年、一〇〇〇年、万年というように、定期的に決まっているのです。今度昼間の世界になったのは三〇〇〇年目になるのです。実に宇宙というものは無限の神秘であって、とうてい言葉では言われないくらいなものです。それで悠久《ゆ、フきゆ、フ》のものですけれども、悠久の中にも大中小、大中小となって変化することになっているのです。今度は三〇〇〇年目で昼間になったのですが、三〇〇〇年で一回転するのです。それで三〇〇〇年というと永久と言ってもよいです。三〇〇〇年ではつまらないと言っても、自分の命よりはずっと長いのです。三〇〇〇年の間には、いくども生き代わり死に代わりしているのです。そのくらいの変化ですから、今度の変化というのは大変化であるし、祖先以来ないものです。ですからこれに生まれ合わせ、この仕事に携わった人はどんなに仕合せか、祖先以来ないのですからたいへんなものです。そういうような大変化だからして、分からせようと思っても、なかなか分かりにくいのです。しかし分かりにくいけれども、聞いてみれば、なるほどそういうことも有り得るわけだということも分かるわけです。こういう話は、哲学でもなければ宗教でもない、新しいものですが、しいて言えば宗教の哲学みたいなものです。それで、これを知ることが覚りを開くということなのですが、しかし覚りを開くというが、いままでの覚りはそこまでは分かっているのですが……それを騰げながら分かったのはキリスト、釈迦という人たちです。釈迦が「仏滅の世が来る」ということを言ったのは、ある程度分かったから言えるのです。それからキリストの 「天国は近づけり」ということも、ある程度まで分かったわけです。けれども、私が分かるだけは分からなかったわけです。もし分かれば、そのときにもっとすばらしい奇蹟……大きな力を現わさなければならないです。救世教というものは、いままでの観念でゆくと非常に難しいようですが、分かってみればかえっていままでよりもずっとよく分かるのです。それは根本が分かるからして、非常に難しいようでいて非常にやさしいのです。ちょうど病気を治すようなもので、医者のほうで首をびねってどうにもならない者が、こっちのほうでこうやって治ってしまうのですから、理屈は同じです。ただあんまり違い過ぎるので、その点に骨が折れるのです。
昭和二十九年二月一日御講話(8)
〔 質問者 〕キリスト教の信者であった夫婦が本年一月一一日に奇蹟集を見てまいり……胸部疾患でございますが御浄霊にて元気になっております……。三〇日に私不在中、御浄霊御礼を「御浄霊御玉串」「御浄霊御礼」と二つ書きますと、向かって右側に同じ文字が白く現われたそうです。その人は肩上がりの文字ですが、現われた白の文字は肩下がりになっております。教会の奉仕者にも同じように見え、私にも見えますが、私のは「御玉串」とだけ見えます。どういうわけでございましょうか。
【 明主様 】きっとキリストが書いたのでしょう。キリストもよく分かっているから、つまりキリストとしての奇蹟を見せられたのです。
〔 質問者 〕弟もキリスト教信者で、米国のキリスト教の大学に在学中だそうです。救世教の話をすると、弟を呼び学校をやめさせると勢い込んでおります。
【 明主様 】やめさせてもよいです。ただ語学がうまくなるくらいなものです。しかしやっぱりキリスト教信者はキリストが守護するのです。キリストは私の弟子なのだから……つまり救世教に働かせようとして、親分がいよいよ世界的の仕事を始めるから……キリストもウカウカしておられないというわけです。結局いままでの偉い聖者というのは、みんな総がかりで働くのです。人間ではそういう奇蹟はできないですが、キリストならそのくらいの奇蹟はできます。
昭和二十九年四月一日御講話(1)
時期が近寄ってくるに従っていろんなことが出てくるのです。こういうことはいままで詠<うた>で、露骨には書かなかったが、だいたいは書いてあるつもりです。昨日キリストが憑った女が浄霊に来たのでやったところが、マリアが憑っていて、自分の伜<せがれ>のキリストが救われたので、自分として嬉しくてしようがないと言って非常に喜んで、繰り返し繰り返し礼を言っていました。そういうようなわけで、霊界のほうがいま非常に変化始めてきたわけです。それで、これがいずれ体的に写ると、すばらしい発展の時期になるわけです。いよいよ本舞台に近寄ってきたわけです。ただ、いまのところは霊界のことだけに、人間の目や耳にはさっぱり分からないが、近づいたということはたしかなのです。霊界が大いに変わるということは、火素<かそ>が増えるわけです。光が増えるわけだから、去年の凶作みたいな具合に病人が(凶作でなくて凶人ですか)、増加する場面が近づいてきたわけです。自然栽培の宣伝なども、各地とも非常によく、開いた口にボタモチという具合で、大いに歓迎されつつありますが、いずれ医学のほうもそうなるわけです。そうなればもうしめたもので、根本から変わってくるわけです。霊界が変わってきたので、いろんなおもしろいことがあるわけです。
若いうちに無形の基盤を築く
人生に対する健全<けんぜん>な考え方は、宗教心を抜<ぬ>きにしてはありえないと断言したいのであります。そして、それはまた、若い時代にぜひとも築いておかなければならない、人間の基盤<きばん>なのであります。キリスト教の聖書に、「汝<なんじ>の若き日に汝の創り主をおぼえよ」という言葉がありますが、若いうちにこの無形の基盤をまず作っておくということが、一番大事だと思います。
昭和二十九年一月一日御講話(2)
それから熱海の地上天国は秋までにはどうしても開館の運びになるようにできます。つまり会館と水晶殿ですが、美術館のほうは来年になります。これができると世界的の話題になるだろうと思います。世界中の注目を引かれるわけです。と言ってもまだ中途ですけれども、すっかりできあがったらたいへんなものです。いまやっている土地なども面積が拡がりつつあります。これを考えてみると、日本だけとしても、これだけの大規模にこういうものをやったことがないのです。大きな建物ということについてほ、大阪城とか、丸の内の二重橋というものを作ったが、あれは本当に人類とか社会、大衆のために作ったのでなくて、自己の権勢を誇示するために大いに威容<いよう>を示すことと、それから戦のときの防備という、そういったような考えが根本ですから、その点において私がやっているこの地上天国とは逆ぐらいに違うのです。それから日光も結構ですが、あれもやはり、三代将軍が徳川の天下を続けるために大いに威容を示すということと、一説には、あの時代の各大名は懐が温かいので、まだ秀吉の残党が残っているから危険だ、それには懐を貧弱にしなければならないというので、そういう策略があったということを言ってますが、そういう策略もいくらかあったでしょうが、あれを作った目的は、大衆的の考えはほとんどなかったのです。そういうようで、日本における大建築といった物はないのです。そこで箱根、熱海の地上天国は、日本始まって以来ないものができるわけです。それで日本のみならず、外国を見ても、なるほど支那の北京の紫禁城などというのはたいした物です。しかしそれもそのときの王様が、やはり自己の権勢を大いに見せびらかすためと、それから自分の贅沢といった意味であって、大衆のためにどうという考えではなかったわけです。それからヨーロッパのヴァチカン宮殿にしても、やっぱりキリスト教の一つの本山として、ちょうど日本で言うと奈良の宗教的のものと同様に、金は大いに集まり、品物の良い物はたくさん献納するというわけで、自然にああいう美術館ができたのです。それからまたヨーロッパの中世紀は非常に宗教美術がたくさんできたので、どうしてもヴァチカンに美術館ができなければならないようなことになったのです。そういうようなわけですから、本当に地上天国的の、大衆のために造るという考えはぜんぜんなかったわけです。ですからそういう点において、こっちでやるものは世界始まって以来ないわけです。それともう一つは、この間のアメリカの新聞記者も言ってましたが、つまり美術館として品物は良い物がいろいろあるが、その位置が、箱根、熱海のような天然の美を採り入れたという所は別にない。その点においては世界にない、ということを非常に褒めてましたが、どの点から言っても世界の話題に上って、世界中で、日本における一つの大きな出来事として見るようなことになってくると思います。その結果、「いったい救世教とはなんだ」ということになり、「岡田茂吉という人物がやっている」「それはいったいどういう人物だ」ということになって……これはふつう言うと少し慢心みたいですが、別に私がやっているのでなくて、神様がやっているのですから、むしろ私は批判する立場に立っていると言ってもよいのです。「わずか一〇年か二〇年たつかたたないうちにこういうものを造った」というわけで、岡田研究ということが始まるだろうと思います。「どういう人物か、どういう思想を待った人物か」というわけで、私の書いたものを世界的に読むことになります。その結果、どうしてもいままでの医学迷信、肥料迷信ということを分からざるを得ないことになります。また、そういう地上天国というドエライものをこしらえるだけあって、彼の思想や彼の言うことはすばらしいものだ、第一これによって健康を快復する。病気がなくなる。肥料なしで豊作になる。それから無神思想をなくすれば犯罪者がなくなるという、いろいろなことを知るわけです。妙なもので、変な目を持って見ると、いくら良いことを書いてあってもさっぱり頭に入らないのです。ところが、「これはふつうの人間とは違う。たしかに只者ではない。これはどういうことを言うのか」というそういった目で見ると一々感心することになるのです。どうしてもそこにゆかなければ駄目です。そういったようなやり方は、絶対の神様がやっているのですから、驚くほどうまくやられるということは分かってますが、とにかく、美術をもって最初大衆の注目を引くということは、神様はなかなか上手をやると私は思ってます。いくら高等な理屈を説こうと、すばらしい御利益を与えようと、それは暇がかかります。なかなか簡単に受け入れることはできないものです。ところが見るものですと……それも見たいような物を見せるので、無理に押しつけるのではないのですから……実に簡単に効果が上がるのです。それでいよいよ熱海の地上天国ができると、日本人がほとんど全部見に来るでしょう。それは一時には来ないが、とにかくだんだん知れるに従って、どうしても見ずにはいられないということになるでしょう。いまはできかかりですが、できあがったら、それは信者の人もびっくりします。つまり、その雄大なる構想と、まだまだ予想もつかないようないろんな所ができますから、まず天下の耳をそばだてさせるということになります。それは箱根とはテンデ比べものにならないくらいになります。それがすっかりできるのは……美術館ができるのは来年の秋までと思ってます。来年いっぱいならだいたいできると思ってます。そうして去年一年間に日光に行ったお客が、二四〇万人と、この間新聞に出てましたが、ですからその半分とみても、一〇〇万人は来ると思います。それで一カ年一〇〇万人とすれば、入場料がたいへんなもので、何千万円というものになります。
昭和二十九年一月二日御講話(6)
そこで、救世教のモットーである「病貧争絶無の世界」「地上天国を造る」ということは、とにかく私の生きているうちに基礎だけは造るつもりです。そうすれば後は自然にできるのです。そんなドエライ、世界をまるで自分の……というとおかしいが、神様の計画どおりにできるということは、これもすばらしいスピードです。そういうようなわけだから、地上天国を造るということは、それは理想であって、現実的にそんな早くできるものではないとは、だれでもそう思います。なにしろいままでのような宗教のやり方や発展の仕方から想像しても、そんな早く実現しようとは、とても思えないのです。思えないが、いま言ったことを考えてみても、あながちできないとも言いきれない感じがします。私が自分の思うとおりのことを言うと、かえって信じ難いから、よほど割り引きして緩和して言っているのです。これでも世間の初めての人は、まるでわけが分からない……ということをよくお蔭話に書いてありますが、そういうようなわけで、いままでの考え方と馬鹿馬鹿しく外れてしまってますから、またそこに大いにおもしろみと言いますか、そういうものがあります。だからやはり開闢<かいびゃく>以来ない大きなことであり、喜びであり、たいへんな事業です。日本でも、秀吉が大阪城を造ったとか、日光は三代将軍が造ったのですが、それを造る動機というのは、私のやっていることとはたいへんに違うのです。あれらはみんな自己の権勢を誇るためと、自己の権力を維持するための、つまり戦争の防備です。戦いによって取り返されないようにというためと、自己の勢力を維持し、権勢を誇るという一種の虚栄です。それから東京の二重橋でも、太田道灌<ママ>が造って徳川を大いに充実させたものですが、やっぱり目的はいま言ったとおりで、決して大衆を楽しませる、日本の国民なら国民全体を喜ばせるという、そういった公共性はまことに少ないのです。結局、自己中心で、自己の利益のために造ったものです。それからまたイタリアのヴァチカンにしても、宗教的ではありますが、つまりキリスト教発展のための本山です。なにしろキリスト教はローマ時代には非常にさかんだったのです。ですから品物を献<あ>げたり、金を献げたりして、自然にああいう美術館などもできてしまったようなものです。ですからほとんど宗教的です。私は去年ヴァチカンの油絵を天然色写真にとった物をもらい、いろいろ見ましたが、実にすばらしいものです。写真で見てもあのくらいですから、現場を見たらどんなに良いかと驚きました。といったところで、結局一つの宗教によって自然にできたものです。アメリカ文化なども立派ですが、あれは機械文明を誇るものであり、また金儲けに利用するためとの両方で、ああいう立派なものができたのです。ですから美術的ではないのです。ところが今度できる地上天国は、そういったような、一つの戦争、武力をもって自己を擁護するという意味とか、一つの宗教を弘めるというのでなくて、ただ多くの人……世界中の人が、美を楽しみ、実によって魂を向上させるという、純粋の平和的のものです。ですからそういうようなものは、いままで世界中にできたものはないのです。これが初めてでしょう。そういう意味において、いずれ世界中に理解されます。アメリカの新聞記者もそういうことを言ってます。世界でも立派な物を造っているが、それらは自分の利益を主眼としているが、あなたはそうでなく、本当に平和的の、大衆のための仕事をするのだから、日本人としては実に珍しい。日本にこういう人物がいるということは知らなかったと言ってましたが、知らなかったはずです。やっとこのごろですから……。おそろしい自慢話になりましたが、しかしこれは私がやっているのでなく、神様が私を使ってやっているのですから、神様の自慢の取り次ぎと言えばよいわけです。手っ取り早く言えば、熱海の地上天国ができてから、救世教というものがぜんぜん面目一新して、一つの、世界的の偉大なものとして見られるということになります。ですから救世教を見る目が、日本は勿論、外国にも知れてきます。いまでさえ『シカゴ・トリビューン』では続いて紹介するということを言ってます。それで熱海地上天国ができればいっそうやるだろうと思ってます。それでこれは霊的にも、熱海の地上天国は世界の型になっているのだから、これが拡がれば世界的になるのです。霊的から言っても、そうなるのがあたりまえです。
立春祭御教え 昭和二十九年二月五日御講話(1)
いま読んだようなわけで、あんまり現代の文化のレベルと掛け離れすぎているために結局分からないのです。つまり現代の文化よりか少し上ぐらいのものだと分かるのですが、あんまり離れすぎているために、ボーッとしてしまうわけです。これもある時期まではしかたがないとしても、だんだん時期が切迫するに従って、嫌でも分からなければならないわけです。それで、そうとう研究している人もあるようです。だからもうそう長いことはないと思います。昨日も話したとおり、今年から神様のほうは表面的活動になりますから、救世教が分かるという人も、増え方がだんだん著しくなるわけです。そうして分かりだしたら、それはたいへんなものです。天手古舞<てんてこまい>をするぐらいに忙しくなります。もう一、二年だろうと思ってます。ちょうど霊界の進み方がそういうような具合になりつつあります。それの一番の刺激が自然農法と地上天国の完成です。それがちょうど一、二年に迫ってきてますから、もう一息だと思ってます。なにしろいまも読んだとおり、それこそ世界始まって以来初めてのことですから、なかなかたいへんな話です。釈迦やキリストのような人が二千年もかかってやったそれ以上のことを一遍にやってしまうのですから、それはたいへんな話に違いないです。それにしては、いっぽうから見るとばかに早いのですが、そうかといって、つい人間の感情として、早く救いたい……またよほど急がないと間に合わないのです。
その点から大いに変わるわけです。世界も、特に日本がそうです……霊界から言うと日本が元ですから……。ですから、つまり霊界が明るくなるわけです。明るくなるということは、勿論火素<かそ>が増えるわけですから、今年あたりから病気がボツボツ増え始めるわけです。それからいろんな悪いことも秘密なことも浮かんでくるわけです。最近いろんな汚職事件があっちからもこっちからも出てきますが、これもいままででは珍しいことです。これもソロソロその最初の現われのように思われるのです。そういうわけで、ある時期にゆくと、病気の増えるのも……これは一遍になりそうです。ですからそうなったら、いつも言うとおり、とても忙しくなりますから、いまからその覚悟をしていてよいです。その代わり信者の人でも、少しボヤボヤしていたり、あるいは神様の言われることに違ったりすると、手厳しくやられることになるのです。それもボツボツは出ているようです。これはあなた方もよく知っているでしょう。それで、お筆先に「神厳しくなると人民穏やかになるぞよ」というのがありますが、これは非常におもしろいです。そこで、人間が我を通していばったり、言うことを聞かなかったりするとやられる、ということが、だんだんひどくなるわけです。そういうわけで、いままでとは違ってきます。特に、来年いっぱいで熱海の地上天国が完成しますから、これができると、それは現界的にはっきりしてきます。まだできかかりですからそこまで行ってませんが、まだボツボツというところです。熱海の地上天国もやっぱり型です。神様はなんでも型で見せますから、型ということをよく注意して見なければいけないです。それで、つまり型が育つのです。そういうようなわけで、大本教というものは、やはりたいへんな意味があるのです。しかし、大本教の意味というものは、つまり私の仕事の準備です。「弥勒三会<みろくさんえ>」と言って、仏教のほうの言葉があります。「弥勒三会の暁」とか、あるいは「弥勒三会の鐘が鳴る」という言葉がありますが、弥勒というのは、三人あるのです。それは日の弥勒、月の弥勒、土の弥勒というわけで、日、月、地になっているわけです。それで、弥勒の中心というのが伊都能売<いづのめ>の身魂です。大本教の教祖という方は、「イヅの身魂」と言って、つまり経<たて>です。これは父になるわけです。次の出口王仁三郎、聖師様という方は母の身魂になるわけです。だから、変性男子<へんじようなんし>と変性女子<へんじようによし>と言って、女でいて男、男でいて女というわけで、霊<れい>と体<たい>とは違うわけです。それで、教祖の父と聖師の母との間に生まれたのが私になるわけです。ですから私が伊都能売というわけで、経と緯を結んだ真ん中が私になるのです。教祖のほうは経ですから霊になり、聖師のほうは緯だから体になり、それで霊と体を結んで力が生まれるのです。力というものは、霊体一致、霊体が結んで力を発生するのです。ところがいままでは、釈迦、キリストにしろ、ああいった偉い人は結んでなかったので、片方だったのです。釈迦は霊でキリストは体、釈迦は経でキリストは緯ですから、力がなかったのです。それで力というのは、一番は病気を治すことです。ここ<掌>から出る、目に見えない、一つの気、火素と言いますが、この力というのが、つまり霊体結んだ力なのです。ですからこういうことがだんだん分かってくると、実にはっきり分かるのです。いままでずいぶん偉い人でも、こうやって病気を治すということはなかったということは、力がなかったのです。ということは、霊体が結ばれてなかったのです。そしてまた、時期がそこまで行ってなかったということです。この話はいずれだんだんにはっきり分かるようにします。それで、神様はいままで、それをはっきりしてはいけないということになっていたのですが、今度いよいよ節分から変わったのです。ですからこういう点も、これからだんだんはっきり説いてゆきます。そうするといろんなことがいっそうよく分かります。
昭和二十九年三月六日御講話(1)
「自分は若い時分にキリスト教の聖書研究会で奇蹟について言い争い、どうしても奇蹟が信じられないというので、バイブルから奇蹟の所を全部消した。そうして読んでみると、これは宗教書ではなく道徳書のほうになった。それが分かってみると、さっぱり興味がなくなって止<や>めてしまった」ということがありましたが、それはうまいことだと思います。つまり宗教というものは教えだけでは、やはり一つの道徳になるのです。そういった道徳以外に、つまり理屈のつかない不思議なものがあるので、それが宗教の根本ですから、その不思議、奇蹟が多いほど宗教としての価値があるわけです。そうなると、宗教としての価値というよりか、むしろ宗教ではなくなってしまうわけです。ですから教えはいらないわけです。
それで見真実というものは一番高い所ですから、そこですべてを見下ろすからはっきり分かるのです。結局この見真実を分からせるために私がいろいろ説いているのです。要するに信仰の目的は早く見真実になることです。そうするといろんなことがよく分かります。けれども本当に見真実には、それはふつうではなかなかなれないのです。だからそれに近寄ればよいのです。ところで釈迦やキリストも見真実にはなったが、見真実にも上中下があって、中位の見真実だったのです。その先は分からなかったのです。またあの時代には分かってはいけなかったので、時期が早すぎたのです。しかしいまはもう分からなければならないのです。本当に地上天国を造るのですから、それには人間の主だった人たちに、ある程度は見真実を分からせなければならないのです。ということは救世教の信者ですが、特に幹部の人です。こういうよう(ピラミッド)になっていて、その頂点が見真実の境地になって、段々になっているのです。この間の論文に説いた科学というのは下なのです。それで私が説くことはみんな科学ですが、科学にも上中下があって、現代科学はずっと低いのです。そういうようで、段々になっているのですが、深く高くなっているものほど上等です。私が説いている科学は上等な科学です。そこで下等な科学のことを批判しているわけです。