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教集24 昭和二十八年七月十七日(2)

 いま書いている「御守り」に対する原稿ですが、この次あたりに読ませますが、私が御守りを書く場合に、ちょうど半紙大の紙に「光」という字を書くのですが、一枚書くのに七秒です。この間は急ぎだというので五〇〇枚を五〇分で書きました。それでふつう宗教で御守りなどを書くというと、もう斎戒沐浴して、羽織袴でチャンと御神前にぬかづいてお願いして書くものです。ところが私は、いまどきは暑いから上は裸です。まさか褌一つではみっともないからしませんが。それから私は、ただ光を書くだけでは退屈でいけませんから、必ずラジオを聞きながらやるのです。それで早いですから三人がかりで手伝っているのです。そして時によると左の手に煙草をくわえて、右の手で書いたりしてます。だから御守りを作っているとは、はなはだ思えません。それで書き上がって、たたんで、三〇枚を一束にして、それに私が霊を入れるのですが、この霊を入れるのは厄介なのです。割に力はぜんぜん入れないのですが、やはりそうとうに疲れます。だからこれは一度にたくさん入れるわけにはゆきません。一回霊を入れるのに、ちょうど三包み、九〇体ずつをやるのに、一つに五分ですから一五分くらいかかります。それでちょうどいっぱいです。それ以上は疲れます。しかしそれだけでレントゲン以上の力が出るのですから、ちょっと理屈はつかないくらいなものです。それでいままではそういう場合に神様にお願いしたりお祈りするのは、つまり神様と人間のほうとが離れてますから、どうしてもそうしなければならないのです。ところが私は自分の腹の中に神様がいるから、私がこうやっているということは、私の体、腹に御座る神様が道具として使っているのです。ですからそういう場合の私の腕というものは、やっぱり筆と同じようなものです。筆と墨のもう一つ繋いだ元のほうが腕みたいなものです。そこで他のよけいなことは、なにも必要がないので、ただ書きさえすれば腕を通し筆を通して紙に光がはいって行くのです。そういうようなわけですから、いままでの宗教の教祖という人たちがやったこととはぜんぜん違うわけです。ですからキリストにしろ、天の父つまりエホバとかゼウスとか、神様にいろいろ憐れみを乞うというか、そういう形式をしますが、私はそういう必要はありません。昔から言う神人合一です。神と人と別に分離していないで、一致しているのです。ですからそういった形式はしないのです。私は神様を拝まないということはそういうわけです。拝むのでなくて拝ませるわけです。いままでこういうことを言わなかったのは誤解するからです。あいつは誇大妄想狂で、頭がおかしいのだと言います。よく知っている信者の人はよいですが、第三者としてはあまりに超越しているから誤解を受けるのです。またこれは信者になってチャンとなれば分かりますから、それであんまり言わないのです。けれども説明してみれば、いまのようなわけです。そういうことをおもしろく書いてみようと思ってます。

教集24 昭和二十八年七月二十六日(1)

 このことはちょっと難しいのですが、ひととおりは知っておかないと、ああいうことを聞いたり読んだりしたときに、ぜんぜん分からなくてはしようがありませんから。いまの科学でもっとも進歩した説は素粒子論というのですが、素粒子というのはうまい言葉を使ってます。「素」というのは粗いということで、つまりまだ仕上げができてないというわけです。物質のもっとも細かい、その物質の粒子を素粒子というのです。ところでこれも最初は湯川博士が理論はそうだという考え方だったのですが、宇宙線撮影のときに、写真に六つか七つ写って、それが素粒子だということになったのです。次に物性というのは、物の性、つまりわれわれからいうと霊で、一つの気体です。これはたぶんそういうものがあるのだろうという想像なのです。それが粒子科学のいま一番進歩した説なのです。ところがその物性粒子よりまだまだもっと細かいものがいくらでもあるので、さっき読んだとおり無限なのです。そこでいまの物性粒子より先に行くと科学では分からない、というよりか、どうすることもできないのです。つまり顕微鏡がもっとウンと発達しない限りしようがありません。そうなると一つの気体になるのだから、気体は科学でははっきりつかむことはできないので、「たぶんあるべきだ」というところまではゆくのですが、ところが気体よりかもっと奥があるのです。つまり霊、霊界といって、これが何段にもなっているのです。そこで霊にも上中下といろいろあるのです。その霊の根本というのは光なのです。光の根本は太陽なのです。太陽の光の根本というのは、太陽の黒点なのです。これがつまり大宇宙の種の芯のようなものです。しかし天文学ではこれはとても分からないのです。黒点は一つに見えますが、いくつもあるものです。望遠鏡で見ると分かりますが、私は前に科学博物館で見たことがありますが、いくつも散らばってますが、それがまとまって人間に見えるのが黒点です。この黒点というのがたいへんなものです。つまりこれが太陽を支配しているものです。太陽の中心です。それでQ<ス>のチョンが黒点なのです。それで浄霊で病気が治るこの光は黒点から出ているものです。こういうことは説明すればきりがないし、またそんなに深い所まで知る必要はないのだから、それだけ知っていればよいわけです。いま言ったとおり科学のほうでは、その霊を認識しなければならないという手前にまで来ているのです。ですから科学者のほうでは、まだ研究する問題が非常に多いということを、湯川博士なども言ってますが、だんだん研究問題が増えて困っていると言ってます。それからまたいっぽうの科学者は、実存主義の哲学のほうですが(そこまでゆくと哲学も科学と同じですが)そのほうは、もうこれ以上はしようがないと行き詰まっている一派があります。両方とも間違ってはいませんが、むしろ行き詰まったほうが先見の明ありと言えます。その科学が行き詰まったその先はどうだということを書きますが、書いたら湯川博士にも送るつもりですが、どのくらい分かるか、分からないか、それは未定ですが、少なくともヒントは得られると思います。それが分かれば、浄霊で病気が治るということは科学で充分説明ができます。ただこっちのほうの科学は現代の科学よりずっと進んだものです。そこで薬や機械で病気を治すということは、実に低級な未開人的なものです。それを薬などをありがたがってのむということは、これが二一世紀ぐらいになってみると、二〇世紀の奴はナンテ幼稚なものだったか、実際あの時分に文明とか文化と言ったが、実際哀れなものだと言って笑うことになります。ただそれを咀嚼するだけの頭脳がいまの人にはできてないから、なかなか難しいのです。けれどもやはり真理ですから、一時は分からなくても結局は分かることは間違いありません。ただそれまで時を要しますが、それを証拠立てるためにこうやって病気が治るということを見せているというわけですから、その点から言えばそんなに難しくはありません。ですからそういう意味からいっても、いままでの宗教というものは幼稚なものです。ですから本当を言えばキリストでも釈迦でも、それはまだまだごく子供みたいなもので、幼稚なものです。しかしその時分には、やはりそれほど深い所や高い所を人間に知らせる必要がなかったから、あの時代の人間にはああいうような説き方でよかったのですが、もうそんなことを言っては追いつかないからして、結局、時がそこまで進んだわけです。文化がここまで進んだということは、もうそういうことも知らせなければならないという意味もあります。他に悪魔のほうの関係もありますが、それは別の話になりますが、いまは科学、文化の発達の先をお話ししたわけです。そういうわけですから、もう近い将来、ある時期に行くとだんだん分かってきます。

教集24 昭和二十八年七月二十七日(2)

 それでいま言うレントゲンを通さないすばらしい光が簡単な文字から出る、その元はいったいなにかというと、これも意外な所にその元があります。その元は太陽の黒点なのです。太陽の黒点というものが宇宙の中心で、力の根原です。それで太陽は非常なたいへんな熱い光ですが、この光の元というのは太陽の黒点にあるのです。ですからQ<ス>のポチは黒点を書いてあるのです。これは黒点といっても一つではないのでたくさんあります。望遠鏡で見るとたくさん見えますが、この粒々がたいへんな意味がありますが、それはいずれ発表することがあります。またこの粒々が救世教の仕事に非常に関係がありますが、そういうことを言うと、あまり飛躍し過ぎて、フラフラになってしまいますから、分かりやすい程度の話をするわけです。そういうようなわけで、黒点というのはあらゆるものの一つの力の根原、精気の根原と言ってもよいです。ですからいっさいを支配しているのです。それから宇宙の中心と言ったらよいでしょう。それで太陽の熱度というものはたいへんなものです。ところが滑稽なことは、このごろ日本でもそういう会ができるようですが、宇宙何々会というのがあって、これの最終の目的は月の世界に行くことだそうですが、月の世界は学者には本当に分からないため、月の世界に行ける、地球と大差ないように思っているらしいのです。だからロケットを作ったり、その中に空気を溜めたりして、そういう研究をやってますが、実に子供がオモチャを作っているようなものです。月の世界というのは氷の固まりですから、その冷たさというものは、太陽の反対ですから、零下何度という簡単なものでは分かりません。ぜんぜん熱がないのですから、もし行けたとしても、行った瞬間、月世界の手前まで行った瞬間凍りついてしまいます。そういう馬鹿げたことをまじめになって研究しているのですが、ちょうどいま医学者が薬で病気を治そうとして研究しているのと同じことで、テンデお話になりません。だからとにかくさっきも読んだように「未開人と同様だ」ということは本当に間違ってはいません。ありのままを書いたわけです。そういうことも、そうつき詰めるほどのことも必要ありませんが、だいたいを知っていれば、場合によって恐ろしいことも、科学の進歩にのぼせている人を相手にした場合にも、本当の根本を知っていると、へこます道具によいと思って話したわけです。これからだんだんに書きますが、そうなると宗教とか科学とかいうのでは限られます。だいたい宗教というのは宗祖の教えです。人間はよいことをする、悪いことをしてはいかん、親に孝行を尽くすもの、粗末にしてはいけないという、一つの道徳です。しかしただそれではいけないのです。それはやはり神様があって、神様の教えに基づいてのそういうやり方をするのですが、ただ神様といっても、いままでは最高の神様は出なかったのです。二流、三流の神様です。それで科学に負けるようなことになったのです。だから釈迦、キリスト、マホメットといったところで、私からみればまだまだ小僧くらいにしか思いません。今度の歌に書いてあります。そういうことを言うと、知らない人が聞くと、あんまり大き過ぎるので、誇大妄想狂で頭がおかしいと誤解されますが、信者はただ知っていればよいのです。

教集25 昭和二十八年九月五日(1)

 これは『医学革命の書』の中の一項目です。いま読んだとおり医学というものは文明の一部なのです。それを全部と思ってしまったところに誤謬があるのです。文明を進歩させる全部と思って、実は一部の城郭に楯寵<たてこも>って、そうしてその城郭の中に入っていない人間を自由にしようとする、そこにたいへんな間違いがあるのです。地平線の下にあるのが万物ですから、それはどんなにでも自由にできるのです。人間は地平線であるからして、地平線の上に人間を救うべきものがあるのです。つまり地平線が人間とすれば、下に行くほど獣になって行き、上に行くほど神に近くなるのです。結局最高は神であり、人間は神と獣の間にあるのです。それで人間を救うというのですから、人間以上の存在でなければ人間を救う資格はありません。それをいまの医学は獣の救いを人間に当てはめようとしているのです。医学は猿やモルモットや兎や二十日鼠を試験して、それをそのまま人間にもってゆくのですから、つまり地平線にいる人間としたら、それより以下は獣ですから、獣を材料とするのはあたりまえですが、それをもってきて人間の病気を治すというのは、およそ見当違いです。いま読んだのはそういう意味のものです。だからして医学がいかに一生懸命にやっても、ぜんぜん見当違いを一生懸命にやっているので治るはずがありません。それではいままでなぜそういう愚かなことをやっていたかというと、地平線の上にあるものが見えなかったのです。見えなかったというよりか、実際は見せなかったのです。これは実際神様も人が悪いのです。しかし、見せては神様のほうで都合が悪いからです。これを見せては、いままでの物質文化を発達させるに都合が悪かったのです。どうも人間は、物質文化を発達させるには、神様のような最高のものを見せないほうが、物質を進歩させるという精神力は非常に強くなるのですから、神様はそういう手段を選ばれたのです。しかし神、仏と、宗教は出しましたが、あんまり上のものを出しては物質的の進歩は形式がちになるから、どこまでも最高の神ということは隠して、二流三流のものを出して、これが神であり、これから生まれたのが宗教だというわけで、悪く言えば人間は神様に瞞<だま>されていたのです。しかしそれはしかたがないので、そうでなかったらこれまで物質文化は発達しなかったのです。ですから非常にすばらしいトリックというわけです。そしていままでの人間が神をみる、神観というものも間違っていたわけです。キリストでも釈迦でもマホメットでも、偉いには違いないが、やっぱり二流三流の地位だったのですから、本当のものはぼかしてはっきりはしなかったのです。ただそれでよかったのです。そこで私は宗教では救えないということを言うのですが、宗教で救えれば、いままでに天国になっているのです。宗教があれだけたくさん出ても相変わらず地獄ということは、つまりいままでの宗教では救うことができなかったわけです。これは超宗教でなければ救えないわけです。そこで救世教というものは超宗教であり、これが初めてできたわけです。そこで宗教というから他の宗教と同じに見られるのですが、いまのところは致し方がないが、いずれはだんだん分かってきます。そういう意味ですが、それを分からせるのが仕事なのです。それはなかなか難しいのです。やっぱり本物のダイヤモンドはいままで見せなかったので、つまりガラスに角度をつけて、これがダイヤモンドだと言っていたのですから、本物を分からせ、信じさせるということは、なかなか骨が折れます。しかしその代わり、いままでにないような奇蹟や、いろいろなものを見せるからして、信者になる人はそれが分かるから入信するのです。ですから非常におもしろくもあるし難しくもありますが、しかしどうしてもこうしなければ、こういう時期を越さなければ救えないのだからしかたがありません。

教集25 昭和二十八年九月七日(1)

 昨日もアルゼンチンから手紙が来ましたが、これは今年の六月にあっちからの手紙で、ぜひ救われたいというので、御守りを送ったり御神書を送ったりしましたが、昨日の手紙では、その人もだいぶ熱心に働き出したのですが、遠からずアルゼンチンにも始まるだろうと思います。これは手紙でやるのが一番よいのです。一々遠くに行くのはたいへんですから、手紙だけであっちに信者ができると、いずれはだれかが行くことになりますが、そういった準備をしておけば、あとが楽です。神様のやることはなかなか気がきいていると思います。とにかく神様というのは気がきいているものです。しかし古い昔の神様は気がききません。人間を苦しめたりいろいろしますが、救世教の神様はとにかく力があるわけですから、なんでも自由自在です。この間も歌でよみましたが「泣くが如く訴ふが如き祈りこそ小乗宗教のしるしなりける」というのです。キリスト教なども「泣く如く訴うるが如き祈り」というのはたくさんあります。路傍で牧師などが説教しているのも、実に哀れむべき声を出してやってますが、あれは神様に力がないから、自力が加わるため、自力を主にするからです。そういうようにして救われるというのは、やっぱり一つの地獄的のものです。ニコニコして笑って救われてゆくのでなければ本当の天国的宗教ではありません。私は前にキリスト教の婚礼に招<まね>かれたことがありますが、婚礼とお通夜と同じです。もっともお弔いのときには、このごろはあんまりないが、昔はお菓子をくれます。キリスト教の婚礼式にはお菓子をくれます。それからこれはキリスト教の一派ですが、笑いは罪悪としてあります。ですから前に私が笑冠句をやっているときにクリスチャンの人が来て、キリスト教では笑いを罪悪としているのに、ここは笑いを奨励している、ぜんぜん違うと言ってました。そういうわけで、よくも違っているのです。ですからそういった宗教が世界的に大いにやっているときは、やっぱり世界は地獄的になるのも、ちょうど合っているわけです。もっともそれでも悪い奴に苦しんだりしているよりも、宗教的に苦しんでいるほうがずっとよいです。しかし神様のほうからご覧になれば、やっぱり人間が喜んで歓喜に溢れている世の中にしなければならないのです。ですから救世教のようなのは、いままでにぜんぜんないのですから、いろいろ誤解されたり、間違った眼で見られたりするわけです。昨日のラジオでも、他の宗教は戒律を守らなければならないとか、道徳上から言うと、こうとか、いろいろ言ってましたが、いままではみんなそういう説き方だったからそれでよいのですが、戒律というものはやっぱり一つの自力です。ちょうど分かりやすく言うと、だれも人の見てない所に金が落ちている、そうするとこれは拾いたい、欲しいと思うが、これを拾っては罪をつくる。だから我慢して押さえるのですが、それは戒律です。ところが本当いうと、落ちていても、これは自分のものではないから拾わないに決まっているのだから、それをなんとも思わないで拾わないで行くというのが本当です。戒律があるから、したいこともしないということは、本当ではないのです。だから我慢しなくてもよいのです。自然にやらないことに決まっているのですから、なんとも思わないで通り過ぎて行くというのが救世教のやり方です。ですから戒律がないのではなくて、戒律はいらないのです。ところがつまり、酒が飲みたい、飲みたいけれども、これは神様に悪いといって一生懸命に我慢するが、それでは本当ではありません。だから酒は飲みたくない、飲もうと思わないというのが本当です。私は酒を飲むなということは言ったことはありません。酒が好きな人には飲みなさいと言うのです。それでも飲みたくなくなるのですから、それが本当です。ですから自分から自然に悪いことをしない、ずるいことをしない、酒が飲めなくなる、というようにできる宗教がいままでになかったのです。そこで、なかったということは神様に力がないからして、そういう人間にすることができなかったわけです。そこで一生懸命に外部的に押さえつけるというように、すべて外部的のそういったやり方だったのです。これもいままでの文明は全部そうです。だから医学でもそうです。苦しみが出るからその苦しみを押さえつける、熱が出るから氷で冷すというのと同じです。宗教もそうなっていたのです。外部的に押さえ、そうしてよい行いをさせるようにするというのです。ですから本当のものではないのです。だいたいずるいことをするのでも悪いことをするのでも、あれは一つの趣味です。とてもおもしろくてしようがないのだそうです。巾着切でも、ああしてちょっと人のものをかすめて盗<と>るということが、実になんとも言えないおもしろさがあるのです。ですからまじめに稼げば一万円稼げるものを、ああやればもっと少ないのです。いつか泥坊が、平均してみるとふつうの労賃よりも少ないというのですから合いません。それでその間に懲役に行ったり、いろいろのことを計算に考えると、一日いくらにもつかないというのです。それでは止<や>めたらよいだろうというが、止められないというのは趣味があるのです。趣味というのはつまり副守護神です。副守護神のほうが支配して勝っているからです。ところが趣味がなくなるということは、副守護神がいじけてしまって、人間を支配するのではなくて支配されてしまうほうになる。そこで趣味がなくなるのです。またよく嘘をつきますが、嘘をつくというのは偽<いつわ>るのですから、一つのずるさですが、これも趣味です。それでどうも嘘が止められないという人がたくさんあります。それでいつか聞いたことがありますが、君は嘘をつくが、いったいなにがおもしろいかと言うと、嘘を言うと相手が驚いたり、耳を傾けたりするのがおもしろいというのです。嘘といってもいろいろありますが、一番始末が悪いのは人を喜ばせる嘘です。「今度こういう信者ができて、この人が信者になったら、一度に信者ができる。こういう勢力があって、こんなに金がある。こんなに仲間を集める」というのです。それで私を喜ばせようというのです。その時分には私も、それはたいしたものだなと言って喜ぶのです。そうするといつかしら煙<けむ>になってしまうのです。そういうことがいくどもありました。それは喜ばせる嘘です。これは喜ばせる代わりに、嘘ということが分かると、こっちはよけいガッカリします。さらにまたびっくりさせる嘘があります。「今度はこういう方面で救世教をやっつけようとしている、こういう計画をしているというから、よほど気をつけなければならない。しかし私にはこういう手があるから、このほうから手をまわせば押さえられないことはないが、とにかくお気をつけになったほうがよいです」というようなことを言うのです。ですからこっちは言葉どおりにウッカリ信ずることがあるのです。それで私がそれに耳を傾けると、それに興味を持っているのです。それも一つの大きな罪悪です。それらはなにかというと、つまり副守護神がおもしろいのです。新聞などにいろんなことが出てますが、みんなそれです。ですから詐欺師とか、いろんなインチキでウンと金を集めたりして、おもしろおかしく遊ぶ奴がよく出てますが、みんなそれです。ところがそれは副守護神がのさばっているからなのです。それをキューッとやってしまえば、そういうことがつまらなくなり馬鹿馬鹿しくなります。そうすると頭がはっきりしてくるから、そういうことをしていてはつまらないということになって、それよりか人の信用を得てよい地位になったほうがよいという、算盤<そろばん>ということがはっきりしてきます。ですからそういう人間に限って算盤をとらないのです。ですから私はいつか「算盤をとれ」という論文を書きましたが、算盤を正確にとれる人は、やっぱり曇りが少ないわけです。

教集25 昭和二十八年九月十七日(1)

 二、三日前にロサンゼルスからお蔭話が来ましたが、すばらしくよく治るのです。こっちのお蔭話に負けないくらいなものです。それでこっちのほうもずいぶん浄化が強くなったので、奇蹟も著しくなってきました。これは始終お蔭話を読んでいると分かります。ですからキリストと同じようなことは、それこそ日常茶飯事です。いま私がこれから書くのは「キリストは三日で作られる」という論文です。三日間の教修をしますが、そうするとキリストと同じような奇蹟が出せるのです。ですから『歴史は夜作られる』という題の映画がありました。このごろは化粧品のことで「美人は夜作られる」ということを言ってますが、私のほうは「キリストは三日で作られる」ということを書こうと思ってます。このごろはふつうのまじめな書き方は始終書いているので飽きてきましたから、それよりか飛び離れた題のほうが興味がありますから、このごろはそういうように書いてます。この前の「神と硝子玉」とか「硝子製造人」とか、そういうほうが興味もあるし、かえって分かりよいです。ただあんまりそういうようにやると、いたずらに人をおどかすとか興味を引くとか野卑に見られますから、そう見られないように気をつけてます。いまの「キリストは三日で作られる」ということは、あんまり飛び離れているので、題だけ見たら変に思うかもしれませんが、しかし魅力はあると思います。つまりだれでもキリストになれるということなのですから。ある教師の人は、往来を歩いていたり汽車に乗っていて、病人があってやると、立ち所に治ってしまうというのですが、そういうのはキリストと同じです。それからロサンゼルスでは教惨をしただけでさかんに病気が治るのです。しかもロサンゼルスと言えば日本からたいへんな遠くです。ふつうから言えば、いくら霊線でもあんな所までたいへんだろうと思うでしょうが、ところが神様のほうの霊線は時間、空間を超越するのですから、浄霊の霊というのほ、アメリカまで霊線が行くのに一秒もかかりません。もっと速いので、一秒の何百分の一か何千分の一くらいに速いのです。ですからあっちのほうのお蔭も日本と同じです。かえって向こうの人のほうが素直で疑いがないから、かえって日本のお蔭よりか著しいでしょう。これもだんだん『栄光』に出ます。従って発展し始めたら、発展力がずっと早く強いでしょう。ですからこれからが大いに楽しみです。

昭和二十八年十月十六日の御講話(1)

 いつも言うとおり箱根は霊<れい>で熱海は体<たい>、箱根は経<たて>で熱海は緯<よこ>ですから、どうしても箱根のほうは日本的ですが、熱海のほうは世界的という意味になるのです。それで熱海ができると、日本は無論ですが、外国のほうまで発展するわけです。つまり熱海は体ですから、どうしても体的に拡がってゆくわけです。本年ハワイからアメリカのほうに進出しましたが、ちょうどこの救世会館が建築に取り掛かるころからハワイ、アメリカとなってきました。会館ができあがると、アメリカのほうへすばらしく発展するという段取りになるわけです。それで神様のことはすべて型で行くのですから、型ができただけずつは霊界でそのとおりに拡がるというわけなのです。この点が人間の仕事と非常に違うのです。ですから順序と型です。それを見ていると分かるし、それからまた私はそういうようにやっているわけです。それですから別に心配することも、いろいろ迷うこともないわけです。神様のほうの設計順序がチャンとありますから、そのとおりにやっておればドンドンうまくゆくわけです。実に不思議なことです。それでこういうことは人間が始まってからまだないのですが、それはいままでは夜の世界ですから、全部月のやり方です。今度は太陽が出たのだからまるっきり違うというわけです。ですから反対なことが多いです。それは日と月とでは反対になります。つまり月のほうは右まわり、日のほうは左まわりです。それでここに肝腎なおもしろい点があります。日の働きというものは「引く」引き寄せるということです。それから月のやり方というものは「突く」つまり攻撃です。ですから「引く」と「突く」との違いさです。それをよく知っているとよいです。突き進むでなくて、引き寄せるのです。それで一番分かりやすいのは、月は水で日は火ですから、物質はみんな月になるわけで、霊が日になるわけです。そこで水を寄せるとかえって向こうに行ってしまうのです。それで逆にやるとこっちに来るというわけです。よく、あせったりして突き進むということは割に結果が悪いので、落ちついているほうがかえって引き寄せられ集まってくるということがありますが、これは真理に合っているからです。ですから私は割合にあせらないで落ちついて悠々としてやってますが、それで非常に仕事が捗<はかど>ってたくさんできるということは、そういう意味になるわけです。ですからそのやり方でゆくと、楽に順調に行って失敗がないわけです。一昨日ハワイからの報告が来ました。いまハワイの信者はもう一〇〇〇人は突破してます。今度本部ができますが、この三月に樋口さんと安食さんが行ったのですから、それでこれだけのすばらしさに発展したということは、無論神様がやっているのですが、実に楽な簡単なものです。それで白人のほうにもだいぶ信者ができかかってきましたから、この分でゆきますと、いずれはアメリカ人の信者もたくさんできます。なんでもそうですが、いままで日本で生まれた宗教で白人を信者にしたというのは、ほとんどないでしょう。今度、救世教が初めてです。つまり世界的宗教です。この報告にもありますが、カトリックの信者などもボツボツ入ってきたようです。カトリックというのはキリスト教の一番カンカンです。それでいて一番勢力があるのです。ですからカトリックを落とせば、あとは楽なのです。それはいずれキリスト教全体がみんな救世教の信者になるのは分かってますが、それはそうとう先のことです。とにかく口が開けば割合に早くドンドンゆくわけです。いまその報告を読ませます。

昭和二十八年十月十六日の御講話(1)

 いつも言うとおり箱根は霊<れい>で熱海は体<たい>、箱根は経<たて>で熱海は緯<よこ>ですから、どうしても箱根のほうは日本的ですが、熱海のほうは世界的という意味になるのです。それで熱海ができると、日本は無論ですが、外国のほうまで発展するわけです。つまり熱海は体ですから、どうしても体的に拡がってゆくわけです。本年ハワイからアメリカのほうに進出しましたが、ちょうどこの救世会館が建築に取り掛かるころからハワイ、アメリカとなってきました。会館ができあがると、アメリカのほうへすばらしく発展するという段取りになるわけです。それで神様のことはすべて型で行くのですから、型ができただけずつは霊界でそのとおりに拡がるというわけなのです。この点が人間の仕事と非常に違うのです。ですから順序と型です。それを見ていると分かるし、それからまた私はそういうようにやっているわけです。それですから別に心配することも、いろいろ迷うこともないわけです。神様のほうの設計順序がチャンとありますから、そのとおりにやっておればドンドンうまくゆくわけです。実に不思議なことです。それでこういうことは人間が始まってからまだないのですが、それはいままでは夜の世界ですから、全部月のやり方です。今度は太陽が出たのだからまるっきり違うというわけです。ですから反対なことが多いです。それは日と月とでは反対になります。つまり月のほうは右まわり、日のほうは左まわりです。それでここに肝腎なおもしろい点があります。日の働きというものは「引く」引き寄せるということです。それから月のやり方というものは「突く」つまり攻撃です。ですから「引く」と「突く」との違いさです。それをよく知っているとよいです。突き進むでなくて、引き寄せるのです。それで一番分かりやすいのは、月は水で日は火ですから、物質はみんな月になるわけで、霊が日になるわけです。そこで水を寄せるとかえって向こうに行ってしまうのです。それで逆にやるとこっちに来るというわけです。よく、あせったりして突き進むということは割に結果が悪いので、落ちついているほうがかえって引き寄せられ集まってくるということがありますが、これは真理に合っているからです。ですから私は割合にあせらないで落ちついて悠々としてやってますが、それで非常に仕事が捗<はかど>ってたくさんできるということは、そういう意味になるわけです。ですからそのやり方でゆくと、楽に順調に行って失敗がないわけです。一昨日ハワイからの報告が来ました。いまハワイの信者はもう一〇〇〇人は突破してます。今度本部ができますが、この三月に樋口さんと安食さんが行ったのですから、それでこれだけのすばらしさに発展したということは、無論神様がやっているのですが、実に楽な簡単なものです。それで白人のほうにもだいぶ信者ができかかってきましたから、この分でゆきますと、いずれはアメリカ人の信者もたくさんできます。なんでもそうですが、いままで日本で生まれた宗教で白人を信者にしたというのは、ほとんどないでしょう。今度、救世教が初めてです。つまり世界的宗教です。この報告にもありますが、カトリックの信者などもボツボツ入ってきたようです。カトリックというのはキリスト教の一番カンカンです。それでいて一番勢力があるのです。ですからカトリックを落とせば、あとは楽なのです。それはいずれキリスト教全体がみんな救世教の信者になるのは分かってますが、それはそうとう先のことです。とにかく口が開けば割合に早くドンドンゆくわけです。いまその報告を読ませます。

昭和二十八年十月十七日の御講話(1)

 それから今度『救世教奇蹟集』という本を出しますが、なにしろ奇蹟などというのはあまり知らないので、ようやくキリストの奇蹟ぐらいが宗教的奇蹟として知っているぐらいで、救世教の奇蹟というのは想像もできないのです。そこでこの広告文などもなかなか難しいのです。やっぱり迷信を鼓吹するというようにとられやすいのです。だからそうとられないように、なるほどそういうこともあるかというように、注目されるようにしなければならないのです。それで広告文の書き方もつまり信用されるようにして、それでは買って読んでみようという心を起こさせるというようにもしなければならないのです。私はいままで書いたことはないが、これだけは一生懸命に書きました。

 昨日改進党の早稲田柳右衛門という人と会食を共にしましたが、この人は今度東南アジアのほうに行ってきたのです。新聞ラジオにも出てますが、小金義照という自由党代表の人と二人、政府から選ばれてまわったのですが、二人とも救世教の信者だということもよほど意味があります。その人の話でインドには仏教信者というのはほとんどいないそうです。全部ヒンドゥー教徒とイスラム教徒(フイフイ教徒)だそうです。そして残っているのはビルマが一番だそうですが、あとはマレー、タイ、その周囲、それから日本、それだけだそうです。ですから仏教はほとんどなくなったようなものです。というのは、いま読んだとおりお釈迦さんは奇蹟を行なわなかったということが根本原因です。キリスト教がともかくもああして発展したのは、キリストは奇蹟を行なったからでしょう。しかしキリストの奇蹟をとればあとはバイブル、つまりお説教です。そこで神様は救世教をつくって大奇蹟によって救うのです。それで奇蹟奇蹟と言うが本当は奇蹟ではないのです。つまりこれが本当なのです。いままで嘘のことばかりやっていたから本当のことが奇蹟になってしまうのです。世の中が本当になれば奇蹟が本当のことで、そうなれば奇蹟とは言わなくなります。