教集21 昭和二十八年四月二十六日(1)
いつも言うとおり救世教の信仰は大乗信仰です。それでよく昔から仏教のほうで出た言葉で「大乗道」「小乗道」というのがあります。大乗小乗と言っても、本当の大乗はいままでなかったのです。大乗小乗は仏教から出た言葉ですが、仏教そのものが小乗信仰なのです。だからいままでの大乗というのは、小乗の中の大乗です。それで大乗道というものは仏教でよく説かれてますが、見当違いを説いてます。というのは、仏教は小乗の限られた枠があるのです。本当の大乗というのは粋がないのだからして、そこでくい違うわけです。だから本当の大乗は仏教では説けないわけです。つまり大乗というものは、あらゆるものが包含されているということは勿論ですが、大乗の考え方というものは、要するに非常に深遠微妙と言いますか、人間にはちょっと分からないのです。だからいろんな説や思想がありますが、これはことごとく小乗です。それで本当の大乗というものを分かるようになれば、それはどんな問題でも、どんなことでも分かるのです。それで一番分かりやすい譬えは、ソ連の共産主義というものは大いに日本を助けているということです。アメリカが日本をずいぶん助けましたが、ソ連が日本を助けたこともなかなか小さくはありません。戦後日本の経済界が行き詰まってどうにもならなくなったときに、朝鮮問題を起してくれたので、そのために日本の経済界は俄然として立ち直ったのです。だからソ連に対して大いに感謝してもよいのです。そういうように考えるのが大乗的考えです。ところがそういう考えはできないから、共産主義はけしからん、日本にはいり込んだらたいへんだから防がなければならないという考えで、極力共産主義を悪く言ってます。それも決して間違ってはいないが、ただ大乗小乗の考え方からいくと、いまのソ連が日本を助けたということが大乗的考えなのです。ですからその点は、なかなかいちように決めることはできないのです。今度の総選挙でもそうです。社会党の左派があんがい景気が良く、自由党の次というくらいです。改進党などはそれに反して意外に悪かったのです。これはなにかというと、再軍備問題です。改進党、鳩山派は、はっきりと軍備をしなければならないということを強調したために、成績が悪かったのです。それから社会党の右派のほうは、場合によっては軍備も必要だということを言っているためなのです。ところが左派のほうははっきりと絶対に軍備はしないほうがよい、必要ないということを強調しているのです。どうしてそんなことを言うかというと、日本を第二の中共にしようというのです。だからして第二の中共とすれば、ソ連が日本を攻撃するはずはありません。助けることはあっても攻撃するはずはないからして、軍備の必要はないと強調するのはあたりまえです。ただ第二の中共にしようということは言わないのですが、だから左派はどうして軍備はいらないということを言うかと変に思うでしょうが、日本を第二の中共たらしめるということが分かれば不思議はないのです。そうすれば婦人の投票者も多いのです。本当に投票するのは男より少ないが、数から言えば男より多いのです。婦人の世論は、ラジオの街頭録音を聞いても、婦人は全部非再軍備派です。それは自分の亭主や息子が引っ張り出されるのは、この間の戦争で懲<こ>りてますから、国家の大局ということには関係なく、ただ戦<いくさ>に出すのは嫌だという、本当の利己的観念で再軍備反対のほうを支持するわけです。そういう人たちの投票が左派に行ったので景気が良かったのです。だから改進党などは五大政策の中に軍備をするとし、特に芦田氏などは強く言ってますから、そこで改進党は嫌われたわけです。だから数が多ければ投票が多いのですからしかたがありません。そうすると婦人の考え方は、日本が共産主義の支配下になってもよい、というのでなく、なろうとなるまいとそんなことは関係なく、ただ自分自身が戦争の脅威から逃れよう、亭主や伜<せがれ>を守ろうという小乗的考えです。それからソ連に侵入されたらたいへんだというのが大乗的考えです。そこでずるいのは自由党の吉田さんです。実際には再軍備をしながら、日本は再軍備はしないと言っているのですから、その点から言うとずるいです。そのずるさが当たって、今度は割合に多かったのです。そこで、ずるいのはけしからんというのが小乗的考えで、ずるくても第一党になって思うとおりにやるというのが大乗的考えです。だから信仰でもよくあります。キリスト教がどうしても増えないのです。戦後何億という金を使って、ずいぶん立派な牧師などが来てやってますが、少し増えたかと思うと元どおりになって、ほとんど増えも減りもしない現状維持でしょう。だからキリスト教としては、いま非常に困っているのです。だいたいキリスト教の教会の費用というのは一年間に一億いるそうです。ところが信者から集める金は半分も難しく、四割くらいだそうです。ですから六割はどうしてもアメリカの援助を求めなければならないというので、アメリカが援助しているわけです。そういうようにキリスト教が増えないのは、それは日本の国民性に合わないことと、日本にいろいろな宗教があるためもありますが、だいたいキリスト教のやり方というのは、小乗信仰を非常に取り入れているために広がらないのです。キリスト教では「なにする勿れ」「なにすべからず」と、非常に窮屈に説いてます。これが日本人に合わないのです。小乗でも、仏教のうちの南無阿弥陀仏は非常に大乗的です。そこで仏教信者というのは非常に増えるのです。法然、親鸞、蓮如上人というのは、仏教中でもすばらしい大乗です。それで親鸞が肉食妻帯を許したばかりでなく、自分がそれを行なったというのは、仏教の大乗道の先鞭<せんべん>をつけたのです。そのために、しまいには蓮如上人は真宗を広めるにはほうぼうに寺を作らなければならないと、その寺を作るのに弟子の坊さんの偉いのではどうもうまくゆかない、どうしても自分の系統……本願寺の大谷の系統……の人が管長にならなければ、どうも発展しないと、血筋を非常に重要にされたのです。そこで蓮如上人は、主に北陸ですが、北陸から東海道のほうに行脚<あんぎゃ>したのですが、そのときに各寺々に行って、立派な所の娘さんに子供を産ませたのです。それは何人かは知らないが、とにかく何人かに産ましたのです。それを各分院の管長にして、そうして非常に真宗というのは広まったのです。ですからこれを小乗的考えでみるとけしからんわけです。ところが大乗的考えでいくと、教線を広げるためなら、それもやむを得ないということになります。そこで大乗にあらず小乗にあらずということが必要になってくるのです。ある場合には大乗でゆき、ある場合には小乗でゆくという、そこの使い別けがなかなか難しいものなのです。しかしそういったことは日本ばかりでなく、蒙古のラマ教などは結婚のときにはラマ教の一番の大僧正と言いますか、それがお床入りするのがあたりまえになっているのです。それで長男には結婚させて家を継がせるが、次男以下はそれをぜんぜん禁じてあるのです。だから次男三男というのは結婚は許可されないのです。そこでみんな坊さんになってしまうのです。ですからラマ僧と言って、ほとんど国民の大部分は坊さんです。そんなおかしなことをしたということは、清朝<しんちょう>が蒙古を非常に恐れて、蒙古の民族を増やさないという政策をとったためです。いまはどうか知らないが、つい二〇年くらい前まではそうだつたのです。これは蒙古に行ってラマ教を探険した人に聞いたのですから間違いありません。これらは大乗のところもあるし小乗のところもあるというようなのです。
教集21 昭和二十八年五月十五日(2)
樋口さんの通信もありますが、それはもっとずっと長いから、それは今度の『栄光』に出しますから、それを読んでもらえば分かります。こういうような状態ですから、今年一年もたったらたいへんなことになるだろうと思います。アメリカでも、絵をやっているAさんがだいぶ成績をあげてますが、この記事は今度の『栄光』に出ました。ところがアメリカはなかなかいろいろな、やかましい規則があり、おまけにカトリックが勢力を張ってますし、医学のほうはガッチリと堅固な垣根を作ってますから、なかなか厄介なのです。ですから『アメリカを救う』の本などもできてますが、うっかり出して面倒なことになるといけませんから、まだ出さないのです。つまり医学のほうは医学のほうで、科学以外のそういうことはあまり信じていないのか認めていないのか、しかも他国からそういうようなものがはいるということは非常に警戒するのです。それからまたカトリックのほうでは、キリスト教以外のものは全部邪教となってますから、そこでこのほうもなかなか警戒おさおさ怠りないので、よほど考えてやらないと、ピタッとやられたらしようがないから、そこのところはゆっくりやろうと思ってます。ちょうど日本で私が最初やったのとやや似てますが、本当のことが分かるまではできるだけ慎重にやろうと思ってます。ところで神様がうまくやりますから心配するほどのことはないが、やっぱりあせってはいけないです。神様がやっているのだからして、神様にお任せするのだから、あせらないでだんだんに順を追ってやって行くということが一番よいことなのです。ですからハワイ全土に非常な評判になってセンセーションを起すとすると、それが自然にアメリカに知れますから、そうなると、それはどんなものだということになって、むしろ向こうで来てもらいたいということになるかもしれません。いまのところハワイの信者はアメリカ人にはほとんどないのです。支那人、朝鮮人、黒人系の信者が多いのですが、そのうちにアメリカ人のほうにも信者がボツボツできてくると思います。そうなるとそれが評判になって、アメリカのほうに反響して行きますから、そこで来てもらいたいという人民の希望が出れば、これはまたアメリカは都合のよいことには民主的ですから、それを規則で縛<しぼ>るということはありません。そういう形になって行くと思います。それでまた白人のほうに分かり始めたら、これは凄いことになります。それも時期の問題と思います。非常におもしろくはなってきたようです。これも大本教のお筆先に「灯台下<もと>は真暗がり、遠国<おんごく>から解りて来るぞよ」というのがありますが、うまいことを言ってます。日本は灯台下で、遠国から解ってくるというのです。それから「何事も遅れただけは一度になるから、そのつもりで居て下されよ」というのがあります。ハワイは遅れていたのです。だから一度になったのです。これは日本などはもっとずっと発展しなければならないのです。ところが邪神のほうではいままで官憲を使ったり、新聞社の言論機関を使ったりして、極力発展しないように押さえつけていたのですが、しかしもう押さえの力も薄れてきたということは、近ごろ非常にやりよくなりました。言論機関のほうでも好意を持って見るようになってきましたから、それだけこっちの力のほうが勝ってきたのです。そういうようなわけで、いままでとは違って、守勢から攻勢になったわけです。そうなってアメリカあたりに大いに評判になると、日本もまたたいへん発展します。アメリカで良いとなれば日本人は無条件でありがたがります。ですからいずれはそういうようなことになるだろうと思いますが、日本は開闢<かいびやく>以来外国崇拝だから致し方ありません。それについてちょっと書いたので読ませます。
教集21 昭和二十八年五月十六日(2)
大本教のお筆先に「遅れただけは一度になるぞよ」というのがありますが、ちょうどハワイがそういう具合です。つまり遅れていたわけです。その遅れていた原因はやはり日本の官憲やジャーナリストの誤解のためにこっちの準備が遅れたわけです。それからお筆先に「灯台下<もと>は真暗がり、遠国<おんごく>から解りて来るぞよ」というのがあります。日本のほうが遅れているのは灯台下だからで、お筆先どおりなわけです。それでアメリカのほうはなかなか厄介なのです。というのは『アメリカを救う』の本もできてますが、まだ向こうに発表しないのです。というのは、宗教で医学に関与するということはいけない、というような建前になっていることと、それから向こうはカトリックがさかんで、ほとんどカトリックですから、これがまた新しい宗教を非常に嫌うのです。キリスト教以外は全部邪教という具合に信じ込ませているために、救世教のように非常にすばらしい宗教とすると非常な脅威ですから、どんな妨害的行為に出るか分かりません。アメリカの偉方<えらがた>のほとんどはカトリックですから、なかなか慎重にやらないと、かえって後がやりにくくなりますから、ゆっくり発表しようと思ってます。とにかくその点においてハワイは非常によいです。ですからハワイにおいて救世教というものは、非常にたいへんなものです。いまのところはアメリカ人はまだないので、教修者はハワイ在住の日本人、それからアメリカインディアンというような黒人、それから支那人、朝鮮人というような人たちです。それで非常に素直で、実際の効果さえ見ればすぐ安心してすがってくるのです。この点が日本と非常に違います。日本はどんなにお蔭があろうと、どんなに奇蹟があろうと、よほどのことがない限り、疑いが解けないのです。それこそお蔭話にありますが、重難病が助かってありがたがっているが、再浄化とか家族の者が病気になると、やっぱりお医者に行ってしまうのです。実にわけが分かりません。それでお医者に行って悪くなって、やっぱり救世教でなければならないというので、またこっちに来て、それから信仰にはいるというのが非常に多いです。こういうような点はハワイは断然違います。そこにもっていって日本は官憲が宗教を嫌いです。信仰が嫌いなのです。
私はときどき書きましたが、アメリカの偉い人、アイゼンハゥアー、トルーマン、マッカーサーという人たちは必ず「神」ということを言ってます。ところが日本の大臣や政治家にしても「神」ということは決して言いません。「神」と言うことは恥になるかのように思っているように見えます。そのくせ「馬鹿野郎」とは平気で言います。どうも「神」とか「信仰」というようなことを、ああいう偉い人が言うと安っぽくなるように思うらしいのです。日本という国はそのくらい信仰嫌いです。それでまたジャーナリストというのはなにか書くにしても、宗教をけなしたほうが偉く見られるのです。信仰ということを書くと時世遅れというのです。そういうことを無自覚に思われているのです。彼らの心境というのは安易なものです。それも無理がないところもあります。というのは、日本の新宗教には実に馬鹿馬鹿しいのがあります。踊る宗教とか璽光尊とか、近ごろさかんになった立正佼成会も、妙法蓮華経を唸<うな>っている格好を見たらわれわれでも嫌になります。妙法蓮華経もよいですが、それを何時間も唱えていったいなんになるかということです。一つ事をそんなに唱えていてなんになるかです。実際時間の空費にしかなりません。ですから新宗教というのはくだらないものだということになるのです。他教を悪く言うのは嫌ですが悪く言うのではなくて、ありのままを言っているのですが、救世教の人ばかりですから差し支えないでしょう。PL教団はダンスが非常に御自慢になってますが、ダンスというのは、とにかく常識から考えても、神様の前で男女が手を組んで踊るということは、どういう意味か分かりません。それであそこの根本は「宗教は芸術なり」と言うが、それはそれに違いないが、「宗教は芸術なり」ということをどういうように具体化するかというと、それはお題目ばかりで実行はありません。それでこっちのほうも「宗教は芸術なり」と言いますが、実際においてそれを現わしているのです。ですから理論と実際とが合っているわけです。もっともPL教団でもそれは知っているに違いないですが、芸術ということを具体的に現わすということは、非常に金がいりますから、できないのでやらないというのですから、これはやむを得ません。だから「宗教は芸術なり」ということは非常に結構なので、それはべつに非難することはありませんが、「宗教は芸術なり」と言ってダンス専門にすれば、ダンスが芸術ということになります。もっともこれも舞踏の芸術と言えば言えますが、どうもピッタリきません。それで新宗教のうちで一番多いのは日蓮宗です。ところが日蓮宗をやるのは結構ですが、しかし新宗教とは言えません。生長の家なども、私は前に『生命の実相』なども読んだことがあります。うまいことを書いてありますが、それも結局、キリスト教と仏教です。お釈迦さんの言ったことをうまく取り入れて、一つの説を作ってあるのです。ですからこれはふつうの宗教学としてなら立派なものですが、新宗教という新しい点はありません。つまり総合したということが新しいと言えば言えますが、それでは根本が新しいのではなくて、説き方を新しくしたというにすぎないのです。どうも新宗教と認めるということはちょっと難しいわけです。これはいつも書いてますから信者の人はよく知っているでしょうが、とにかく日本のそういうようなものを見ていると、インテリやジャーナリストが新宗教を軽蔑するのも無理はありません。もし私が、救世教教祖でなく普通人としたら、やはりそういうように新宗教を軽蔑するに違いないです。だから救世教の真髄が世間に知られていないから、こっちも十把一絡げに見られるので、これもしかたがないが、しかしやっぱり良いものは良い、悪いものは悪いのですから、これも時の問題です。その時の問題として一番良いのは、アメリカに救世教が広まって行く時期になれば、それによって日本の知識人が分かるということになり、これが一番効果的です。そうなると日本人は、アメリカで騒ぐなら、これはもう良いものに違いない、と丸のみになってしまいます。それよりか、しようがありません。もっとも神様がなさることですから、すばらしい方法をやられるに違いないから、べつに気をもむ必要はないが、だいたいそういうような経路になって行くわけです。
教集22 昭和二十八年六月五日(2)
これはできるだけ簡単に分かりやすく、「現代医学論」という論文を書いて、あとはお蔭話の顕著なものを一つ一つ批判して、解剖的に書いて、それを一〇〇例つけて、医学、病気というものがだいたい分かるように、そういう本を作りますが、この秋あたりになると思います。そうして、どうしても医学のほうとの戦いになるようになりますが、けれどもそれもたいして長いこともありません。なぜなれば医学のほうはだんだん浄化が強くなるに従ってへコタレてきますから、医学の固め療法が固まらなくなるから、どうしても先方が頭を下げざるを得なくなります。それまでの間、一時は昨夜の放送のような問題も、なんだかんだと起るとみなければなりません。しかしだんだん先方が弱ってきたから、それもたいしたことはありません。日本はそういうような具合で、だんだんこっちが勝って行きますが、いま始めたハワイのほう、その次は米国のほうですが、ハワイはすばらしい成績です。これは『栄光』にときどき出しているから分かっているでしょうが、しかしまた邪神のほうでもたいへんですから、妨害しようとして、なにかやっているのです、ですから無論スラスラとは行きません。いろんな困難な問題が起ります。けれども神様のほうの力もだんだん増してきますから、やはり私が救世教をこれまでにするのに、最初はいろんな苦労をしましたが、そういうような形が、その国、その時期相応に出るとみなければなりません。これもだんだん時節が近づいてきますから、たいしたことはありません。なにしろ非常なお蔭をいただくので、その点は日本より都合がよいのは、民衆の叫びを非常に重く用いるから、そこで官憲のほうやなんかで圧迫しようとしても、民衆が承知しません。だから治って熱心になった人が増えればしようがありません。それは民衆の声が高まってくれば、キリスト教でもなんでもだんだんおとろえて行きます。それでハワイならハワイだけが大いに救世教信者が増えて、動きが大きくなってくると、今度はアメリカのほうで問題になってきます。しかしアメリカにはいろんな制限があって、ある点は日本よりか、やかましいくらいです。それは日本はやたらに新宗教というのが出ても許可しますが、アメリカはなかなかたやすくそうしません。どこまでもキリスト教一本で通そうとしますが、またいっぽう民主主義ですから、民衆の声というのに重きをおきます。日本のようにそういうことに頓着なく、気に入らなければやっつけてやれ、ということはないから、その点はよいです。しかしアメリカの布教も容易ならんものがあります。とにかく、ハワイならハワイに燃え上がるようになると、それだけでアメリカのほうでもそうとう重視するわけです。ですからこれは日本を開拓したいままでのそういう経路のようなものより、ずっと楽に違いありません。
教集23 昭和二十八年六月十五日箱根地上天国完成記念祭御教え(2)
それが根本だから、それが分かれば浄霊で病気が治るということは、わけなく分かるわけです。それで救世教の信者はキリストと同じような奇蹟は毎日のようにやっているということだけでも、その力たるやたいへんなものです。それでいままでは、宗教が本当に救うことはできなかったのです。現在救われているのは各宗の教団のほうです。仏教にしても、仏教がその信者を救っているのではなくて、その本尊が信者から救われているのです。これは別に悪口を言うわけではないので、事実を言っているのです。というのは、闇の世ですと月の光だけでも結構なのです。だから闇の夜道を歩いている人は、月の光によって、とにかく安全に歩けるというわけです。そこにだんだん太陽が出てくると、月の光は薄れてき、ついにはなくなるというようなわけですから、そこで霊界では非常に明るくなってきているから、月の光というものがもう駄目になったというわけで、それが現われているわけです。だからして結局火の力を行使することは、私という者が出て、初めてその力を与えられたのです。つまり「力」です。ところが「力」というものと「光」というものとは同じなのです。つまり「火」と「水」の密合したものが「光」でありまた「力」なのです。だから「力」という字はよくできてます。経と緯、火と水が十の字に組むのです。そうするとそこにズーッと曲線がつながって、跳ね返ってますが、とにかく文字というものは神様が造ったのですが、実によくできてます。ですから文字と言霊<ことたま>が分かれば、宇宙のいろいろな神秘は分かるわけです。私はそういったことを書こうと思ってますが、どうしても書けないのです。やっぱり神様はどうしても、それを分からしてはいけないことがあるとみえます。そこで経が先で緯が来て結ばり、曲がって、跳ね返っているが、これは左進右退のリズムが現われてます。ですからさっき言ったとおり、この地上天国の模型が中心になって、左進右退的活動が始まるということは、これが真の力なのであります。つまり救世教というものは力の宗教と言ってもよいのです。この力が本当の神力です。経緯結んだ火と水の力です。「カ」は「火」で、「ミ」は「水」ですから、「カミ」の力です。この力を行使したという人は世界肇まって以来ないのです。それで言霊から言うと「シン」の言霊返し<たまがえし>は「ス」になりますから「神力」は「主の力」<すのちから>とも言えます。それでいつも<ス>は○<マル>にヽ<チヨン>と書きますが、チョンが火で、丸が水になります。太陽の黒点はチョンになります。学者はあの黒点を研究してますが、それはいま言ったことなのですから、こっちは別に研究の必要はありません。この太陽の黒点のチョンがたいへんなものです。つまり宇宙の魂です。果物なら種です。それでいままでの世界はチョンがなかったのです。丸だけだったのです。要するに空<から>だったのです。それでいよいよ私が世界にチョンを入れるわけです。この神仙郷はチョンなのです。ヽ<ポチ>なのです。その意味において非常に重要なわけなのです。その始まりの今日は非常な意味があります。
教集23 昭和二十八年六月十六日(1)
いま読んだように、これはいつかも話したことがありますが、「ゴーラ」という言霊は、「ゴ」は、「火」で、「火」は「霊」です。それで「ゴー」と続けるのは、火が続くことです。「ラ」は「渦巻くこと」「螺旋」です。霊界ではいよいよ左進右退的活動が始まるのです。そうするとそれはどういう結果になるかというと、火の霊気はつまり火素ですから、浄化作用が強くなるわけです。そうするとこの左進右退の渦巻きがいっさいのものに行って、ある程度浄化されたきれいなものは中にはいれますが、汚いものは外にはねられてしまうのです。大浄化作用です。ですから残ったものは善で、はねのけられたものは悪ですから、自然に善悪の立別けがついてしまうわけです。それでこの渦巻きを自然に通って、はねのけられない人を作るのが救世教の信仰です。あなた方ははねのけられないでしょうが、しかしあんまり慢心したり取り違いをしたりすると危ないですから、そこをうまくやってもらえばよいのです。それで中にはスーッと通る人もあるし、通っても閊<つか>えたりして、かなり苦しむ人もあります。それでそれが一番現われるのは病気です。これはあなた方が始終浄霊していて、だんだん浄化が強くなって、強くなるとどっちかに片づくのが早くなるのです。助かる死ぬということがはっきりするのです。これは日のたつに従って、そういうようになってきたということで充分分かるわけです。ですからこれからは非常におもしろくもなるし、恐ろしくもなるし、間違っている間違ってないの結果が早く分かるわけです。けれども、私の話をよく聞いて御神書を読んでいれば、そう難しいことはありません。それでいままでの小乗宗教と違って窮屈なやかましいことはないのですから、本当の意味さえ分かれば楽々と峠は越せるわけです。一番肝腎なことは、小乗的に物事を決めないことです。というのは、一番分かりやすいのは、人間の考えでは分からないと思えばよいのです。ところが小乗的考えの人は、自分で理屈をつけてそれが本当だと思い込んでしまうのです。だから一生懸命にやりながらかえって間違ってしまうのです。これは大本教のお筆先にうまいことを書いてあります。「人民が良いと思ってした事は、神の眼から見れば間違っている事が沢山あるぞよ」というのがあります。だから良いと思い善と思っていることが、実は神様のお邪魔になることがあります。それは自分の思うことが本当だと思うからです。そう思うということは慢心なのです。だからお筆先には慢心取違いを一番注意してあります。それで「人民の眼で分るような、そんなチョロコイ仕組は致してないぞよ。神界の事は、分らんと思いたる人は分ったのであるぞよ」というのがありますが、御神書を読めばどこかしらにチャンとありますから、それさえよく気に止めて判断すれば、別に難しいこともなにもないので、かえって楽なのです。だから間違っていることをやっている人は、骨折ってます。いろんな苦しいことをし骨折ってやってますが、それは間違っているからです。楽々と行くのが本当なのです。それがいままでの宗教とは違います。いままでの宗教は地獄的宗教であって、天国的に救うことはできない宗教です。というのは力がないのです。救世教は天国を造る宗教であるから、そのやり方も天国的やり方でなければならないのです。結局力です。いままでの宗教は力がなかったのです。キリストにしろ釈迦にしろ力がないのです。だから理屈はいろいろうまく説くが、実際の力がないから、本当に救えなかったのです。というのは夜の世界ですから、いままでの力は月の力ですから、ごく弱かったのです。だから極楽や天国を造ろうと思っても、どうしても邪神に邪魔されて、思うようにゆかなかったわけです。ところが今度神様は私にその力を与えられてますから、それはなによりも、弟子がキリストと同じような奇蹟をさかんに現わすのでも明らかです。キリストを作る力ですから、それは大きなものです。それで力というものは霊体一致すると力が出るのです。いままでは霊体が一致しなかったのです。霊体一致ということは、火と水がチャンと結ぶと本当の力が出るが、いままでは結ばなかったのです。というのはキリストは緯<よこ>の教えを説いて、釈迦は経<たて>の教えを説いて、離れ離れになっていて結ばなかったから力が出なかったのです。ですから力という字は、経の棒を引いて緯を結んで十の字になっているが、結ぶと初めて力が出るのです。そうして左進右退にまわり始めるのです。ですから力という字は、十の字になって左進右退にまわるのですが、文字は神様が作ったのですが、実によくできているものです。人間でも「人」という字が霊と体になってます。もっともいまの人は逆で「入」の字になってます。そういうわけです。
教集23 昭和二十八年六月十六日(3)
それでこれだけを見て、ふつうでいえば何年何十年とかかるたいへんなもので、とにかく財閥かなにかの財力でなければできないと思うようなものですが、それがとにかく、神山荘に初めて越してきたのが昭和一九年五月ですから、まだ一〇年にはなりません。この五月でここに越してきてから九年というわけです。しかし最初は微々たるもので、おまけにその時代には新宗教というのはとてもやかましいので、手も足も出ないので、宗教ということは言えなかったのです。そこで治療ですが、日本浄化療法という民間治療でごまかしていたのです。その時分は当局は信仰というものを非常に恐れたのです。ですからどうすることもできなかったのです。それで一九年五月にここに来て、その年の一〇月に熱海に越しましたが、その時分には信者といったところで、宗教ではないから、信者らしい者でも一〇〇人とはいなかったでしょう。ですからそれこそオッカナびっくりでやっていたのですが、熱海に越したところが、私は警察のブラックリストに載ってますから、東京の警視庁からその土地の警察にすぐ通達が行っていまして、前科者ではないまでも、同様の嫌疑を持たれていたのです。だから熱海の東山荘にいたときは、熱海の警察から来て、塀の穴からのぞいて、今日は男が何人、女が何人、合計何人と報告するのです。そうしてときどきは特高などが来ていろんなことを聞いて、年中白い目でギョロギョロ見ているのですから気持ちが悪かったです。それが終戦になって、よいあんばいに信仰の自由が許されたので、二二年八月にやっと宗教法人として宗教的にやることを許され、それから本当の活動を始めたのです。そうしてみるとちょうどこの八月で六年になります。五年何ヵ月かでとにかくこれだけのものができ、熱海もあれだけにできたのですから、実に驚異的です。しかもその間それこそ脱税問題とか新聞雑誌のいろんな攻撃、静岡の事件と、いろいろとギューギューの目に遭わされたのですが、そういう目に遭わされながら、とにかくこれだけに進展してきたのですから、おそらく世界に例がないでしょう。なるほどキリスト教、仏教にしても、日本での宗教の大道場としては本願寺などは信者もそうとういますが、法然、親鸞、蓮如上人が中途に出て、千年以上かかってます。高野山でも千年はかかり、日蓮宗でも六百何十年とかかってます。それでもいまのような状態です。割合に進展したのは天理教ですが、それでも百年以上かかってます。ところがこっちはいま言ったとおり、せいぜい正味六年です。その前から言ったところで、それまでは民間療法でグズグズしていたのですから、結局十年とはかかっていません。それでこれだけの舞台ができたわけです。ですから現在でも既成宗教の本山というものに劣ってはいません。これは時代も違いますが、そういうわけで、この力というものが、いかにすばらしいものかということが分かります。というのは、いままでのあらゆるものは月の力だったのです。それで救世教が初めて日の力を現わしたのです。それがいま言ったような具合にはっきり具体的に現われているのです。そこで日の光がやっと昇ったばかりですから、これからだんだん天の中心に行くに従って光がよけい増しますから、それに準じてやはり発展もそうなるわけです。
教集23 昭和二十八年六月十七日(1)
終わりにあった渦巻きというのは、浄化作用なのですが、この浄化作用というのは、つまり太陽の精、火素です。火素の火の渦巻きです。『旧約聖書』に「ヨハネは水の洗霊をしキリストは火の洗霊をする」というのがありますが、水の洗霊ということはノアの洪水になるわけです。つまり形があるのです。火の洗霊というのは火素の洗霊なのです。これはつまり目に見えないわけです。ですから浄霊で浄めるということは火の浄霊なので、これはやっぱり火の洗霊というわけです。浄霊の仕事というものは火の洗霊の仕事なのです。この火の洗霊はキリストの救いになるわけです。だから救世教はキリストの仕事をしているわけです。しかし以前のキリストは形のほうにおいて、それだけの力を与えられてなかったのです。ところがなぜその力が与えられてなかったかというと、つまり夜の世界だったからです。そこで以前のキリストは月の力だったのです。そこで磔などになってしまったのです。ところが今度は火の洗霊で太陽の精ですからして、月とはぜんぜん力が違うわけです。いつも言うとおり、光でいっても六十倍は違うのですから、礫などにはならなくてすむわけです。これがその時代だったら、やはりキリストと同じように十字架にかかったかも分からないが、今度は神様の力がずっと強いから、そういうことは、なくてすむわけです。というのは、以前は夜の世界だったからして月が主だったのです。これからは昼の世界になるのですから、渦巻きということは、つまり火の洗霊がだんだん拡がって行くというわけですが、これは浄化力が強いのです。そこで霊に穢れのあるものは、火の洗霊によって霊界が浄まってくるからして、それに相応しないで非常に違ったものは亡びる、つまり押し倒されてしまうというわけです。この渦巻きに押し倒され、はね飛ばされない人間が残るというわけです。いまここにいる人は、はね飛ばされる人はないわけですが、ただしよほど身魂が浄まってないと、骨が折れるという人はあるわけです。楽に鼻唄でそこを逃れるようにすることです。大本教のお筆先に「いよいよ立替えが始まりても、神に縋りて居りたる者は高見で見物を致させるぞよ」というのがありますが、そうならなければならないのです。やっぱり芝居なのです。これが最後の審判というものですが、これは世界的の大芝居です。その芝居を桟敷で見るようにならなければならないのです。どうせ芝居です。善人と悪人との争闘ですから、いよいよ芝居がすめば、めでたしめでたしということになりますが、そこで悪役が酷い目に遭って滅ぼされるという、悪役にまわった者はかわいそうですが、ところが今度のこの大芝居は悪役のほうがずっと多そうなのです。だからこっちが磨けていて桟敷にいるようになれば、実におもしろい大芝居です。それはこれほどの劇はとても見られるものではありません。ところが助かって残るという人を作らなければならないから、それが神様の大慈悲なのです。そういう助かる人を一人でも多く作るというのが信者さんの使命なので、これは分かりきった話ですが、そういうように大きな浄化作用がいよいよこれから世界的に拡がって行くということを知ればよいわけです。それでそういう意味において、ここの地上天国ができたということはたいへんなことだというお話をしたわけです。
教集23 昭和二十八年六月十七日(2)
それで力ですが、その力というのは神力、神の力です。この神力というものは、いままで出なかったのです。いままでの宗教でも、いっさいは月の力ですから仏力です。仏力というのは、つまり月の光ですからして、非常に弱いのです。それでお釈迦さんが言った「この世は仮の娑婆だ」ということは、たしかにそうです。仮だったのです。ですからいままでの医学なり文化というものは、本当のものが出るまでの間に合わせだということを書きましたが、それはそういうわけなのです。そこですっかり精算して、そうして本当の仮でない永遠の世界、永遠に真の行なわれる所、それが地上天国なのです。それで真善美がチャンと行なわれるということになるのです。ここの美術館というのは、地上天国の真善美のうちの美の型です。ところがいままであらゆる宗教は、真を説き善を説いたけれども、美だけは、これは説くのでなく形に現わすべきものですが、形で現わせなかったのです。お釈迦さんなどは祇園精舎を作ったというが、これは宗教的建物です。しかしこれもたいしたものです。それをまねしたのが聖徳太子です。法隆寺というのは、つまり日本の祇園精舎です。ところがキリストはなにも作らなかったのです。もっとも、もっと寿命があったら作ったでしょうが、早死にしたのです。三三というのですから、これからというときです。そういうようで、美を作るということは、「宗教は芸術なり」ということを言うくらいですから、そうは思っていたでしょうが、この、美を作るということが一番難しかったのです。それでとにかく日本では、聖徳太子があれだけのものを奈良の都市に残してますが、あれだけのものを作ったということは偉大なものに違いありません。だいたい日本における美術の始まりというのは仏教美術ですが、仏教美術は聖徳太子が作ったのですから、やはり美としての神様です。
教集24 昭和二十八年七月十五日(1)
この後「神霊の解剖」というのを書くつもりです。つまり神様を解剖するわけで、ずいぶん変わったことですが、神様を解剖するなどというと、いままでの人は恐ろしくて罰が当たってはたいへんだと、そういうものに触れる人はないのです。けれどもそこまで分からなければ信仰の真髄は本当に分かるわけがありません。神様というと、ただ漠然としてありがたいような恐ろしいようなものになって、それに人間は触れることはならないように思われてきたのです。というのは、いままで神様を本当に分かっていた人はなかったのです。つまりキリストでもお釈迦さんでも、どうも徹底しては分かっていなかったらしいのです。神様が分からないと、病気、人間の生命力ということが分からないわけです。なにしろ人間の生命は神様が造り、神様が握っているのですから、神様の根本が分からなければ生命に関したことも分からないわけです。ですからそれを説いた人もないし経文にもバイブルにもそれはなかったわけです。つまり経文やバイブルにしても、もっと低い所です。上面の所だけしか説くことができなかったのです。ですから見真実といっても、見真実にも浅い深いがあって、深い所までは分からなかったというよりか、分からせなかったのです。分からせてはいけなかったのです。ところが今度は分からせなければいけなくなったわけです。そこで私は知らされたわけです。ですからいま読んだとおり医学の考え方は、黴菌というものは、顕微鏡の現在の見得る程度は二〇万倍というわけですから、二〇万倍で分かっただけの黴菌を対照として研究しているわけです。ところが顕微鏡が一〇〇万倍になっても一〇〇〇万倍になっても、まだ徹底したわけではないのです。それ以上まだ小さいのがあるのです。私が前にも言ったとおり「いまある黴菌というのは粗いものだ」と言うのはそういう意味で、細かい点においてはどこまであるか、ほとんど無限です。一〇〇〇万倍、一億万倍になっても、もっと細かいのです。細かいということは無限ということで、つまり数字で現わすことはできません。それが黴菌の本体なのです。だからいまの科学というのは実に浅い、浅薄なものです。これで病気を治そうと思っても、治るわけがないのはあたりまえです。それをよく分からせるということが根本なのです。それでその無限の小さいそれを浄霊で殺すというのですが、これ(掌)から出る光が無限の細かいものであって、とうてい数字で表わすことはできません。そういうわけですから、宇宙というものはすべて無限なのです。「至大無外、至小無内」というわけで、ちょうど大空に壁がないようなものです。ですから宇宙というものはどのくらい広いものか分からないので、とうてい数字で表わすことはできません。大空の広さが無限であるのと同じように、小さいものがまた無限なのです。ですから黴菌と言っても、病原菌の小ささというものは無限なのです。それを分からせるためにいま書いたのです。その小さいものが無限であるとしたら、やはり無限な力でなければ病気を治すことはできません。そこで霊主体従の法則によって、ここならここの病気が治るということは、この細胞というものがまた無限なので、どのくらい細かいか分かりません。ですから医学のほうでは、細胞の数は何万、何千万と言ってますが、これは滑稽なのです。細胞一つを作っている細胞がまた何万、何千万あるか分からないくらいで、そのまた一つがそれと同じようにどのくらいあるか分かりません。ですからすべて一切は無限なのです。その無限であるために分からないので、その分からないところに本当はおもしろさがあるのです。よく地球の年齢ということを学者が研究してますが、これは無限ということを知らないからです。地球の寿命というものがまた無限なのです。ですから人間でも、いくども生まれ変わり死に変わり行くのですから、人間の寿命というのは何万年か何千万年か分かりません。霊のほうは永久なのですから、早死にを恐れることはありません。ただそれが人間の心に記録されてないから、新しく生まれて新しく死ぬように思うので、心細い感じがするのです。そういうふうに考えると、まったく医学の研究などというのは実に気の毒なものです。これを仏教などでは大づかみには説いてあります。「一切無だ」と言いますが、一切無だということは無限という意味を表わしたわけです。なぜと言えば、「有る」ということは言えないわけです。つまり「有る」ということは唯物的の観念です。「無」というと唯物的ではないということを表わしているわけです。その意味が分かればよいわけです。ここ(掌)から出る霊光も粒子なのです。粒子ということは無限的粒子です。それでこれが殺菌法です。殺菌というのは、霊の曇りがつまり毒ですから、その毒を火素で焼いてしまうというので、それが肉体にもすぐ写るのです。つまり霊主体従で、そのままに物質のほうも従うというそれで病気は治るわけです。これが真理なのですから、治るのがあたりまえなのです。だからこれが分かりさえすれば医学者というのはいま言ったとおり幼稚園の生徒です。本当はもっとひどいのですが、言いようがないので「幼稚園の生徒が大学の講義を聞くような」と言うのですが、本当はもっと離れているのです。