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教集19 昭和二十八年二月五日(4) 

 もう一つ佐野さんの話で、これは私は知らなかったのですが、カトリックの勢力はたいへんなものだそうです。いまスターリンが一番弱っているのはカトリックなのです。どういうことで弱っているかというと、各国の芸術家の偉いのがおります。音楽家の偉いのとか、画家の偉いのとか、文学者の偉いのをスターリンが引っ張ろうとするのです。それでずいぶん高い金を払うのですが、カトリックのほうはローマのヴァチカン宮殿にいるピウス十二世のほうで、そういう偉い芸術家を自分のほうにとるのです。ところがピウス十二世のほうではたいへんな金を出すので、とうていスターリンのほうはかなわないのです。そうかといって、共産主義のほうで宗教をやっつけるということはできないのです。宗教ぐらい根強いものはないということは知っているのです。それはそうでしょう。ソ連邦ができたときに、最初はキリスト教などを弾圧して、戸を閉めてはいらないようにしたのです。ところがクリスチャンがどこからともなくはいって集まってしまうのです。どんなことをしてもとても追いつかないので、何年かたってからキリスト教を許しましたが、さすがのスターリンも宗教にはかなわないのです。カトリックの勢力というものは、聞いてみるとたいへんなものなのです。ヨーロッパのどの国の国民にも実にしみ込んでいるそうです。それでアメリカなどの金持ちでも、やはりカトリックが非常に多いそうです。ですから世界のキリスト教信者があげる金というものは何億くらいあるか分からないそうです。だからその金が使いきれなくて弱っているくらいだそうです。そこでアジアなども、中国の北方でなく南のほうにはカトリックがなかなかしみ込んでいます。それからアフリカ方面もカトリックはずいぶんしみ込んでいるそうです。だから私のほうで今度アメリカに樋口さんが行かれることになってますが、結局妨害するとすれば、やはりカトリックです。宗教ですから戦うわけにはいかないが、そこで神様がうまくやられます。カトリックの信者が救世教の信者になるというようなことになるわけですが、そんなことをしていてはとても年限がかかって、世界人類を救うというのに間に合いませんから、そこで神様はうまい手を打つのです。それでだいたいキリスト教のほうでは、将来贋<にせ>キリストが出るから注意しなければならないということを、『聖書』にも書いてありますし、あっちの牧師というのはそれを一番注意してます。しかし贋キリストの注意をしているかわりに、「再臨のキリスト」ということも言っているのてす。だから贋キリストが出る代わりに本物のキリストが出るということも言われてます。そこてだんだんやっているうちに、これは本物のキリストだということになれば、カトリックでも一遍にみんなこっちに来てしまいます。神様のほうにはそういう仕組みがあります。まあ時期の問題てす。その先のことも分かってますが、まだ言うわけにはいきません。

教集19 昭和二十八年二月六日(2) 

 四、五日前に洋画家の佐野繁次郎という人で、そう派手ではないからあんまり有名にはなってませんが、あの社会ではそうとう嘱目<しょくもく>されてます。この人がフランスに二年行って帰ってきて、四、五日前に来たのです。私は絵が好きな関係上、フランスに行く二、三年前からちょいちょい会って始終議論を戦わしていたのです。それで今度も、とにかくフランスを中心にヨーロッパの事情をいろいろ聞いてみたのです。その中の珍しい話が二、三ありますから、それを話してみようと思います。宗教は無論キリスト教ですが、その中でもカトリックがたいへんな勢力だそうです。

 ヨーロッパはほとんどカトリックで押さえているようなものだそうです。貧民はそうでもありませんが、中流以上の家は、食事をするときまわりに椅子を並べますが、その中に立派な椅子を一つおいてあるのです。その椅子というのは、カトリックの坊さんで、長老とか神父とか言いますが、懺悔僧<ざんげそう>と言って、その一家族の懺悔を聞く人だそうです。自分が悪いと思うことはなんでも、翌日懺悔するのだそうです。「昨日はどこに行ってこういう間違ったことをした」あるいは妻ある人が「こういうほかの婦人とこういうことをした」というように残らず懺悔をするのです。ですから夫婦同士で、夫や妻に言わないことでも懺悔僧には言うのだそうです。そういう癖がついているので、溜めておくと気持ちが悪くてしょうがないので、懺悔をするとさっぱりするのだそうです。ですから一家の秘密のどんなことでも知っているわけです。カトリックの坊さんは、ちょうど一軒の家の支配者です。大部分がそういう家ばかりだそうです。ちょうどカトリックで支配されている、つまり精神的に握っているということになるのです。実にたいしたものです。アメリカなどはそれほどでなくても、やはり非常に勢力を持っているのです。そのために各地からあがってくるお賽銭がローマの法王(ピウス十二世)にはいってくるのはたいへんな額で、何億になるか分からないそうです。そこで芸術家……偉い音楽家とか学者、画家というのを非常にかかえて、各地で演奏会をするというようなことは、ほとんどローマ法王がやっているのだそうです。それに対してスターリンが負けずになって引っ張るのだそうですが、ローマ法王にはとてもかなわないそうです。というのは、ローマ法王のほうはいくらでも金を出すのだそうです。そこであっちの油絵などはずいぶん高くなったそうです。いま一番高いのは、日本の金にして一枚三〇〇〇万円から四〇〇〇万円だそうです。ところがスターリンがそれを買いたくても、金ではとてもかなわないのだそうです。それでいまスターリンの目標というのはカトリック征服だそうです。ほかのものは、いざとなればどうにでもなる、という考えですが、カトリックだけはどうしても共産主義はかなわないということになっているそうです。これは前にスターリンが政権を握った最初のうちは、各教会をつぶしてキリスト教をぜんぜん追放してしまうという政策をとりましたが、教会堂を閉めさせても、どんなことをしてもお参りにくる人が集まってきてどうにもしようがないので、とうとう許すということにしましたが、そのくらい信仰というものには共産主義もかなわないということになっているのです。ですからドイツだとかイタリアとか、フランスもそうですが、キリスト教民主主義とか、キリスト教社会党とか、いろいろありますが、それが非常に勢力があるのです。票数は一番多いことがあります。あれはやはりカトリックなのです。それで坊さんが 「こうこういう人に投票しろ」と言うと絶対だそうです。だからヨーロッパの全権はほとんどキリスト教が握っているということになります。それがスターリンの大敵になっているのです。これは非常におもしろいと思います。それではアメリカはどうかというと、アメリカもほとんどは支配的です。そこでそのために新宗教を非常に嫌うのです。新宗教というのは外国のです。ですから私のほうで今度アメリカのほうに樋口さんが行くについても、なかなか困難だったのです。ところがこっちの神様……と言うと変ですが、まあカトリックの親分みたいな神様ですから、やはり奇蹟的にちゃんと行けるようになったのです。だから結局カトリックが救世教になれば世界はそれで万教帰一で、帰一されてしまいます。しかしそれほどの勢力をこっちに入れるということは、なかなかむずかしそうですが、これはわけはありません。時期が来ると簡単にさっといきます。それはカトリックを支配しているのはやはり救世教の神様ですから、時期が来ればちょっとねじを巻けばそれでいいのです。しかしいまはこっちに準備ができていないから、いまはそうされても困りますが、それは神様がちゃんとやられます。

教集19 昭和二十八年二月十五日(2) 

 今度『救世教奇蹟集』という本を出すつもりで、その「序文」だけ書きました。そしていままで発表しただけの奇蹟のすばらしいものを出します。それで結局宗教の価値ということですが、つまり宗教ではたいした奇蹟はないので、宗教以上のものでなければならないのです。宗教以上というと救世教より他にはありません。そこで救世教では他の宗教にない奇蹟が現われるわけです。いままでの宗教でも奇蹟があるにはあったがごく少ないのです。もっとも日蓮上人のような傑物になると顕著な奇蹟はあるが、一般信者にまではそれほど大きな奇蹟はありません。しかし救世教では、私の弟子がキリストがやったような奇蹟も行なうし、他の宗教の教祖がやるようなことは、信者さんでも充分現わせるのですから、そこに違いさがあります。だから奇蹟の顕著なことと多いことが宗教の値打ちです。ところが既成宗教はそういうことがないので、だんだん理屈の宗教になっていったのです。一般に対してはお説教宗教です。だいたいお説教というものは宗教ではないのです。それは道徳です。「人間はこういう気持ちをもて」とか「こういう行いをしなければいけない」と言うが、そういう道理を説いて心を良くするということであっては、本当は宗教より下のものです。つまり道徳です。ところが奇蹟を現わすことができないから、そういうやり方でお茶を濁していたのです。黙っていて立派な人間にするというのが本当の宗教です。だから私のほうでは、あんまりお説教はやりません。しかしそれも少しは結構です。ところがいままでの宗教はお説教専門なのです。また、「こういうように養生しなければならない」「こういうものを食って、こういうやり方でなければ、人間は病気がなおって健康にはならない」というのでは本当のやり方ではないのです。そういうのではしようがありません。黙っていても、疑っていても健康になる、というのが本当のものです。というのは、やはり宗教が持つ力です。その力を現わしたものが奇蹟となるのです。それで奇蹟は科学的にも説けるのです。だから本当は奇蹟ではないのです。よく奇蹟が現われると言うが、それはどうしても理屈がつかないので「ただ不思議だ」と言うだけです。けれども本当は理屈がつくのです。

教集20 春季大祭御教え 昭和二十八年三月二十三日(2)

 今度『救世教奇蹟集』という本がだいたいできあがりましたから印刷にかかりますが、二、三ヵ月先に出版の予定であります。この奇蹟というものはだれがやるかと言うと、勿論神様がやられるのですが、「ではなんの目的だ」漠然と「奇蹟だ、不思議だ不思議だ」と言って驚いているばかりが能ではないので、やっぱりそういう奇蹟を現わすということは、神様のほうの大きな目的がなければならないのです。では、その目的とはなにかと言うと、霊を認めさせることです。霊を知らせることです。だから霊のほうが分かれば、「奇蹟」という言葉はなくなるのです。奇蹟ではなくてあたりまえのことになるからです。しかし霊ということを認めないから、ああいう変わった、あり得べからざることがあるのです。断崖から落ちて怪我一つしないとか、自動車や汽車に衝突して跳ね飛ばされても助かるという、あり得べからざることは、つまり霊のほうで助かるから、体のほうは大丈夫なのです。要するに霊主体従<れいしゅたいじゅう>の法則です。それは奇蹟によるよりほかに認めさせようがないのです。大病人を浄霊してなおるのは、霊の力ということですから、霊を認めさせるというために、神様は……神様が認めさせるわけではなくて、神様のほうから言えばあたりまえのことをするのです。ところが、いままでの人間で霊を認めていない人はたくさんおり、また霊を認めていても霊の働きを知らない人がほとんどです。それは宗教家とか、そういうことに関心を持っている人は、霊の実在は分かっているが、ただ霊が分かるだけのことで、ではどういう働きをするかというところまでは、まだ分かっていないのです。ただそういった霊の力が現われた場合、物質的には実に不思議に思われますから、それで不思議だという、それに刺激を受けて考える。そこで霊界があり、霊があり、霊の働きはこういうものだ、という説明を受けて、なるほどと思うということになるのです。奇蹟というのは、霊を知らせるという第一歩です。そういうことを、今度の『救世教奇蹟集』に書きました。そうして実例として一〇〇例を挙げました。病気以外のいろいろな奇蹟を七〇、病気に関しては三〇です。病気のほうはいままでのいろいろな本に出てますから、少し減らして三〇とし、合計で一〇〇例にして載せてあります。いままでに『栄光』に出た奇蹟を見直すと、実際、驚くべき奇蹟です。私はその当時読んだが、ほとんど忘れてしまっているのです。いま読んでびっくりしているわけです。ですからこれが本になって出れば、またたいへんな問題になるだろうと思います。キリストの「ビッコを歩くようにした」とか「盲の目を開けた」ということが、いまもってキリスト教のほうの一つのたいへんな自慢になっているのですが、それと比べたら、今度の『奇蹟集』の奇蹟は何倍上か分からないくらいです。これも勿論翻訳して世界中に出すつもりです。

教集20 昭和二十八年三月二十七日(3)

 それから出版ですが『アメリカを救う』はだいぶ結果が良くて、まだ売れているようです。これはだいたいアメリカが目的ですが、日本は手近ですから、ついでといったようなわけでやっているのですが、成績はだいぶ良いです。それで今度の『結核信仰療法』は『アメリカを救う』以上に売れるだろうと思います。これは救世教信者ができるうえにおいて、いまにたいへんな力になると思います。なにしろ肺病は多いのですから、この人たちがこっちにすがってくるようになると、それはとても大きな発展力になるわけです。それから『自然農法解説書』も近く出版になります。これは購読者たる農民は一番多いのですから、農民の数の一割が買ったところでたいへんなものですから、何百万と売れるわけです。それで結局農家一軒に一冊というようになるまでにしたいと思ってます。これは全国的に支部でもできて、そこで売るようになるとずいぶん買う人もあるだろうと思います。それで値段も五〇円ですから、五〇円というと子供のアメ玉でもそのくらいはしますから、普及力も非常なものでしょうと思います。それからその次に発行するのは『救世教奇蹟集』です。これはだいたいできあがりましたが、すばらしいものです。おそらくこれを読んでじっとしていられる人はないくらいに驚異的なものです。論文も書きますが、奇蹟もいままでに『栄光』に出たのをまた読み直してみると、あまりにすばらしいのでぜんぜん新しいように思われるのです。これはいままでは新聞一枚に一つか二つ、たまに出るくらいなものですが、その奇蹟を並べてみると実にびっくりするくらいのものです。それでこの本は勿論英文にして世界的に、ヨーロッパ方面にまで配布するつもりです。これを読んだらキリストの奇蹟というのは、実際ハナクソみたいなものです。ですから、これだけでも世界中の人たちが驚いてじっとしていられないだろうと思います。『アメリカを救う』の英文は翻訳はすっかりできてますが、出版は来月か再来月になりそうです。これはアメリカで大いに問題になるだろうと思ってます。勿論『結核信仰療法』も『自然農法解説書』もやはり英文にして世界的に配布するつもりです。こうなると、どうしても世界を相手にして仕事をするという形に自然になってきました。よく調べてみるとヨーロッパ方面も英文で結構だそうです。どこの国でも英文ならたいてい読めるそうですから、全部英文にするつもりです。

教集20 昭和二十八年三月二十七日(4)

 それでだんだんやっていくと、宗教つまりキリスト教と対抗するような形になっていくわけです。一番脅威を感ずるのはカトリックです。こっちが発展してくるに従って、これがたいへんだろうと思います。本元はローマ法王ですから、このローマ法王を押さえる方策と言いますか、それはこっちにありますから、最後に行ってローマ法王にうんとお辞儀をさせるつもりです。それはもう大丈夫です。なにしろ神様のやることは早いです。早いと言っても二年や三年では駄目ですが、とにかく一〇年以内には実現すると思ってます。そうでなかったら、私があんまり年を取ってしまっては間に合いませんから……。私は九〇までは活動する予定ですから、まだ二〇年はやりますが、その間に世界中を全部済度<さいど>しなければならないわけです。そういうようで結局において、いままでの宗教やキリスト教が拡がったというような、そういうものとはまるっきり違うのです。つまり世界的の文化革命です。いままでこれだけ発達してきた文化が、進歩発達したには違いないが本当の発達の仕方ではないのです。ですからこれの良い所だけをとって、悪い所を切り捨ててしまうというわけです。大ざっぱに言うとそういうわけです。話で言うと、なんでもないことですが、切り捨てられるほうはたいへんな騒ぎです。医学などは結局切り捨てられるよりほかにしようがないのです。そうかといって、人間を切り捨てるのではないので、医学という間違った学問を切り捨てて、本当のことを教えるというのですから、これは文化革命です。そしてこれは非常に大きなものです。いままでいろいろな革命があったが、それは一部のものです。というのは、つまり夜の世界、夜の文化なのだから、行灯<あんどん>やローソクという物は邪魔だから止<よ>してしまうというわけです。そこで今度昼間の太陽が出て、世界人類にその光を恵むわけです。そうなると夜の文化はいやでも暗闇に隠れたり、暗闇を利用して間違ったことをやっていたことが駄目になります。つまりいままでの文化はパンパンガールみたいなものです。昼間になると出られないのです。あれは夜の闇を利用して商売しているのです。それから泥坊といったようなもので、闇を利用してやるのです。そこで闇がなくなり、間違ったことや変なことは少しもできないわけです。ごく分かりやすく言えばそういうようなものです。ですからこれは、いままでの革命のように人間の考えで計画することとはぜんぜん違うのです。これは霊界がそういうようになるのですから、そう骨折らなくてもちゃんとできてしまうのです。だから仕事は大きいが、楽で骨が折れないのです。むしろ楽しみ楽しみやれるのですから、たいへんありがたいことです。

教集21 昭和二十八年四月八日(2)

 そういうようで、次に救いと言いましても、まだキリスト教もありますが、順序としては、まず日本から救わなければならないのです。最初日本から救うとしたら仏教です。あとは神道ですが、神道はたいしたことはないのです。勢力はありませんから、これはついでにと言っては変ですが、しかるべくちゃんと救うことは決まっているのです。まず仏教を救い、キリスト教を救わなければならないのです。キリスト教を救うとすればアメリカが一番良いです。アメリカが救われればヨーロッパのほうはずいぶん楽です。キリスト教としてはプロテスタントもありますが、それはずっと小さいのです。なんと言ってもカトリックです。ですからこのほうもいずれ救うことになります。『アメリカを救う』という本なども、アメリカを救うというのは医学上ばかりでなく、宗教上もあるのです。そこで両方というわけにはいきませんから、医学的にごく単純な、ああいう本を出したわけです。来月はロサンゼルスに支部ができることになってますが、それからあとはアメリカの各地にできる順序がつきつつありますから、これから目に見えて向こうも発展するはずです。現在のところはハワイで樋口さんが活躍していますが、おもしろいほど非常に信者ができるのです。それは日本と違って、素直といいますか、なんの疑いも持たずどんどん信者になってくるので、日本では想像もつかないように順調になってます。そして向こうは手術をさかんにして、その点日本とはまるで違うそうです。ですから私のほうの医学に対する話も非常に良く分かるそうです。

教集21 昭和二十八年四月十日(1)

 それからいずれはキリスト教も救わなければならないのです。仏教を救い、キリスト教を救いますが、キリスト教はだいたいカトリックです。アメリカははとんどカトリックで、これが牛耳っているようなものです。神様はそれを救うべく、これからいろいろな経綸があるわけです。しかしキリスト教は世界中に拡がっていてたいへんなようですが、これは割合に簡単で、仏教より楽です。そう言うと変に思うでしょうが、それはいずれ分かります。共産主義がなくなり、資本主義がなくなり、仏教がなくなり、キリスト教がなくなるということになり、そうして本当の理想的な文明が現われるということになります。あまり一遍に大きなことを言うので見当がつかないでしょうが、そう一遍に簡単に行くものではありませんが、そういう大経綸です。世界の大経綸がそういう進路で進んで行くということを知っていると、これからの世界の変化ということも良く分かります。本当言うと、勿論日本もそうですが、世界はこれから大変化が始まるのです。今度のスターリンの死というのは、そういう点にも関係があるのです。時間がありませんから、このくらいにしておきます。

教集21 昭和二十八年四月十五日(1)

 今度五日がかりで京都に行ってきました。だいぶ至る所、信者が増えて、なかなか活気があるように見えました。京都ではほとんどお寺まわりで、毎日お寺ばかりをグルグルまわっていました。それでどこの寺も実に疲弊しきって気の毒なようです。まったく仏滅の有様がよく現われてます。非常に財政も逼迫<ひっぱく>しているとみえて、お寺にある仏像やいろいろな物を売りたがってます。なかなかそうとうな寺でも本尊様を売りたいというのがありました。それで二、三日中に持ってくることになってますが、それは掛物です。本尊様を売って、あとはどうするかと言ったら、代わりの物を探してますと言ってましたが、非常に便利です。まったく仏滅です。あっちでも大勢の前で講演をしましたが、私は嵯峨に別院を造るのは、つまりそういった各寺々の仏様の霊を救うためもあるということを言ったのです。それで各寺々にある本尊様は無論ですが、いろいろな絵や彫刻に、その仏様の霊が憑るのです。無論いろいろ働きますが、働いて、そうして休むときは、その仏像なら仏像に憑るのです。ああいう物は非常に意味があるのです。みんなはよく大黒様を祀りますが、祀ると大黒様の霊がそれに憑って働くのです。それでその仏様なら仏様の霊が憑って、そうして人が拝みますが、拝めば拝むほど、人間のありがたいという想念が仏様のほうに行くのですが、それがたくさん行けば行くほど仏様の力、光が増えるのです。人間がかまわないで拝みもしないと、仏様はだんだん光が薄くなり、威力が薄くなるのです。たくさんの人が拝む仏様は、それだけ力も増えるから御利益も増えるというわけです。ですから人によっては、仏像を見て、これはたくさん拝まれた仏様だと言う人がおります。どうして分かるのですと言うと、このお顔を拝見すると、どこか違うと言うのです。たくさん拝まれた仏様と、拝まれない仏様は、つまり拝まれた仏様はどこか賑やかなのです。拝まれない仏様はどこかさみしいというので、実に不思議なものです。それから仏様の中でも、なにも霊がないのに、観音様なら観音様として拝みますと、そうすると人間の想念で、お釈迦さんなり阿弥陀さんなり観音様なりのお姿、あるいはそれだけの威力が作られるのです。その代わりそれを拝まないと、それがだんだん消えて行くのです。それから仏様の御分霊が憑って拝まれたのは、それが拝まれなくなってもなくなりはしないのです。それがさみしく残っているのです。そこが違います。それで京都あたりの仏様はたくさん拝まれているから、どこか賑やかな威力を持っているのです。それがだんだん仏滅になるについて、仏様と言っても元々神様の化身ですから、元の神様に帰って救世教のために大いに働こうとしているのです。それは多賀夫人のあれが『地上天国』に出てますが、ああいうように働かれようとするのです。それにはやはり罪が残ってますから、それがある程度浄まらなければ働けないのです。ですからみんな私にすがりついてくるのです。ですからそういう仏様が、仏像などでこれから手にはいります。そうしてさらに仏教美術館を造ります。それについてこっちは、借りたり買ったりした仏様の霊を浄めて働かせるのです。とともに、あとは彫刻美術として、あるいは絵画美術として、それを多くの人が見て楽しむというわけです。そうするのが本当なのです。それでいまのように霊のあるうちにほうぼうの展覧会に出すということは、仏様としては情けないのです。自分は人から美術的に鑑賞されるつもりは少しもないので、やはり人を助け慈悲を施すというのが仏様の本当の気持ちなのです。そこで霊を神様のほうに戻して働くというようになれば、あとは本当の美術品ですからかまわないのです。私はだんだんそういうようにやるつもりです。そうしてその仏様たちが働き出すと、いろんな宗教の信者がみんな救世教の信者になってくるのです。南無阿弥陀仏でも南無妙法蓮華経でもそうなります。教祖が大いに働き出す以上、救世教信者にならないわけにはゆかなくなります。ですからその根本は、その開祖なり教祖を救わなければならないのです。それが今度の嵯峨の仕事になるわけです。それで、それがすめば無論キリスト教のほうもそういうように救って行きます。キリスト教の昔からのいろんな偉い牧師も救いますから、これは世界的に働かなければならないのです。だからただ信者を増やすといったところで、その根本の中心的のその霊を救うということの、本当の結果が出るわけですから、やはり急所はそこにあるわけです。ですからおもしろいものです。しかしこういうことは、いままでだれも知らないので、聞いてみて、ああそういうものか、と思うくらいなものです。それからおもしろいことには、そういった仏様なら仏様の霊が憑る場合に、作の良いほど良い仏様が憑るのです。ですから、ごく作の良いのは、「生きているようだ」と言われるのは本当の霊がはいっているのです。これは仏様ばかりでなく動物でもそうです。よく左甚五郎の猫が鼠を食ったとか、鳥が飛んで行ったとか、いろいろなことがありますが、やはり良くできたのは、そういう形のとおりの霊が憑くわけです。だから救世教では大黒様を祀ってますが、あの大黒様にやはり大黒様の霊が憑るのです。そうして働くのです。その場合大きいほど働きが大きくなるのです。そうかといって、相応の理ですから、そこの床の間や御神体に対して、ちょうど釣り合いのとれた大きさが良いのです。あんまり小さいのはお働きがまだ小さいのです。それから作の良い物ほど階級の良い大黒様が憑るわけです。私は大きいのが良いと言ったので、渋井さんが大きいのを持ってきたことがありました。なにしろトラックで何人かで運んだのです。もっともその当時は渋井さんの金のはいるのはたいへんなものでしたから、やっぱりそれだけの御利益はあったのです。ではオレの所も大きいのを、と言っても、それはいけないのです。それはやっぱり相応の理ですから、大き過ぎても困るのです。まずちょうど良い範囲において大きいというのが良いのです。それから絵や文字もそうです。おもしろいのは、龍神が居所がない場合に絵や文字に憑るのです。龍という文字には無論憑りますが、そうでなくても、水に関係した文字に憑ります。サンズイのついた文字によく憑ります。それからどうしてもない場合には、絵や字を書いた作者の名前のサンズイに憑る場合もあります。龍神は水さえあればそこにいられますから。実に微妙なものです。それから人間の名前でも水に関係のある名前の人には龍神が憑りやすいのです。やはりその人は水の働きになるからです。それは実に微妙なものなのです。

教集21 昭和二十八年四月十七日(2)

 それからもう一つは各寺にいろいろな仏像がありますが、その仏像それぞれに、みんな霊界で修行を積んだ名僧知識の人の霊が憑っているのです。しかし憑っていると言ったところで、観音、釈迦、阿弥陀といろいろありますが、たとえてみればお釈迦さん、阿弥陀さん、観音様、聖徳太子……は観音様になるわけです。それから普賢菩薩、文殊菩薩といろいろありますが、そういうように信仰に熱心な、要するに霊的に修行した坊さんたちがそれに憑れるのです。そうして守護されるのです。ですから立派な彫刻にはみんなそういう霊がはいっているのです。そこでいままではそういう仏像や仏画を美術品扱いにされたわけですが、それは非常に苦しいのです。だからその霊を抜かなければいけないのです。しかしみんなはそういうことは知らないから、そのままでいるのです。そこで仏像をたくさん集めた人はどうも運が悪いのです。だから仏像を集めるのが嫌いな人があります。大阪の白鶴美術館の親父さんはそれを知っているので、仏像は集めなかったのです。ずいぶん良い物がありますが、仏像だけは集めなかったのです。それで良く聞いてみるとそうだったのです。九二歳まで生きましたが、そのために長生きしたのかもしれません。そういうようで仏像というものは、ただそのまま美術品にすることはいけないのです。そこでそれについていま、いろいろな高僧名僧の何上人とか何大師とか何禅師という人たちがとてもあせっているのです。これは『地上天国』に「多賀夫人の神憑り」で書いてありますが、そういうような具合で、そこでそういう仏様も元は神様であったので、それが夜の世界の間、仏に化現するのです。そうして救われるのです。ところが今度仏滅になると元の神様になるのです。これからは神様としては働けるので、仏様としては働けないのです。というのは仏の本元は月の神様で、月読尊という神様です。これは素盞鳴尊の表になるのです。月は照ったときと闇のときとありますが、照ったときが月読尊という御名前になり、隠れたときが素盞鳴尊になるのです。それで仏は月読尊の系統ですから月になるわけです。そこで昼になると月は消えますから、そこでどうしても神様のほうにはいらなければ働けないのです。そこで早く神様に返りたいのです。ところがいままで仏界で救いをされた仏たちは穢れがあるのです。穢れがあるということは、仏の教えというものは本当の教えでないから、いっぽうに慈悲で人を助けた手柄もある代わりに、いっぽう人を誤らせたことも大いにあるのです。その誤らせた罪を神様にとってもらわなければならないのです。そこでそれを私に浄めてもらう、浄霊してもらうべく急いでいるのです。そこで京都、奈良にある仏像の霊を救ってやるのです。そうして神様のほうの仲間と言ってはおかしいが、神様のほうのグループにはいって大いに働くというわけです。そうすると、あと仏像はカラッポになりますから、今度は美術品としてそれを作った芸術家の手柄を大いに輝かせるわけです。それで芸術によって多くの人を楽しませるということによって、今度はそれを作った芸術家が大いに喜ぶわけです。そういう意味の仕事を京都の嵯峨<さが>でやるつもりなのです。それであっちに行ってからすぐやるわけではないのですが、いまでもそういった仏像仏画が自然に私の所にはいっているのだから、ボツボツやっているわけですが、京都に行ってから本格的にやるわけです。それでつまりいまが仏滅から神世、神の世界になる移り変わりというときになるのです。ですからその移り変わりのときの救いです。そうしなければ人類を救うことはできないのです。結局霊的にはそういった神仏という人が支配しているのですから、仏教を救って、次にキリスト教を救わなければならないのです。キリスト教などもその弟子の偉い人というのは歴史にもたくさんありますから、そういう人たちも救わなければならないのです。それからマホメットと、この三大宗教です。それを霊的に救って、それから本当に人間が救われるというので、これが順序で、神様はそういうような順序でやられるわけです。ですから今度あっちに行ったのは、その第一歩というわけなのです。こういうことはいままでの宗教ではぜんぜん説いてありませんが、説かなかったということは、時期がこういうときに行ってなくて、やはり仏教で救ったりする時期ですからしかたがなかったのです。私はいまの移り変わりの境い目の仕事をするためだから、そういうことが言えるわけです。