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昭和二十七年十月二十二日  『栄光』百七十九号

為郷氏 そういたしますと昏迷してくることになりますが、これが外国のようにキリスト教一本でありますと、宗教は楽なのですが。

明主様 そうです。日本くらい多いのはないでしょう。これはまったく……それが日本の特徴なのです。その点を言いますと、とにかく日本は、世界のあらゆるものを総合して新しい文化を作るという使命があるのです。ですから日本には宗教でも他のあらゆるものでも一番数多くあります。それは芸術でも文学、美術、演芸でもそうですし、衣食住もそうです。というのは、日本から総合したものができるのです。ですから真理というのは全般にいくのです。共産主義とか資本主義とかいうのは真理ではないのです。それが含まれ最高道徳によって律せられるもの、それが真理です。そこで宗教も、日本には世界中の宗教が総合されたようなものができるに違いないのです。それで真の文化というのは宗教が中心です。宗教から哲学、科学となっているのです。ですからアメリカの文化は結局キリスト教が中心です。最初ピューリタンがアメリカに渡ってそうして開拓したのです。そうして宗教が中心なるがゆえにアメリカの文化というものは世界中に非常に共通性があると言いますか……それに対して共産主義というものがしきりにやってますが、あれも必要なのです。あれも手伝ってやはり本当のものが生まれます。そうして神様というのは結局善悪両方を作って、それを闘わせて本当に良いものを生んでいくのです。いままでは、唯物文化が発展する時代だったので、唯物文化が善悪の争いによって生まれたのです。原子科学も飛行機でもそうです。ですから悪も必要だったのです。この見方というのは主神の見方です。主神は善悪両方とも造ったのです。ところがいままでの宗教というのは、善のほうの神様だけなのです。それで善のほうの神様だけでは物質文化はできないのです。発達しないのです。ところがそういうやり方は無限ではないのです。ある時があるのです。というのは、あまり物質文化が発達したためにそれを悪が利用して、人類を滅亡させるような時代にだんだんなってゆくのです。そうでしょう、原子爆弾を悪が使ったら人類は滅亡してしまいます。それでこの辺りで悪を止めるという時が来るのです。それは独り戦争ばかりではありません。あらゆる面がそうなるのです。それで私のほうで九分九厘と一厘ということを言いますが、九分九厘まで悪が勝つのですが、一厘で掌を引っ繰り返すということですが、つまり一度の力です。一厘の力というのは物質面の力ではないので見えざる霊的の力です。この力で悪を押し返して今後は善のほうが多くなるのです。それで悪はぜんぜんなくなるということはないが、つまり善のほうが勝つのです。そういう時期というものは、いまなのです。それでキリストが言った「世の終わり」とか「最後の審判」とかいうのは、いままでの悪が勝っていた世が終わるということです。それをいま私はすっかり書いているのです。これは『文明の創造』という本です。それを世界中へ配るのは勿論、ノーベル賞審査会にも出します。各国の著名人にも読ませて批判をさせようと思っています。

昭和二十七年十一月十九日  『栄光」百八十三号

明主様 そうです。私が言うとおかしいですが、私は宗教には興味がないのです。メシヤ教の目標は、最高の文化です。むしろ文化を指導するくらいの権威がなければならないのです。ところで現在は宗教のほうで時代に迎合したり、自分から文化より低いように、科学より低いように思ってやっているということが、たいへんな間違いです。ですからたいていの宗教というのは病院を作っているのです。しかし、私の所は作らないのです。もし病院を作るとするならば、その宗教が科学に負けていることになります。ところが私のほうは科学より上だから、病院は作らないのです。つまり宗教は最高の科学です。宗教は霊的科学です。いまの科学というのは唯物的科学ですから、どちらも科学といえるのです。ただ唯物的に進むのと唯心的に進むのとの違いです。いっぽうは目に見えるものを対象とする科学で、私のほうは目に見えないものを対象とする科学です。ですから病気でも医者よりもズッとよく治るのです。なんでも四年とかの盲目で五分間で目があいたというのがありました。キリストの奇蹟くらいわけないです。私の弟子がキリストくらいです。それで最近私はアメリカの病人を調べさせたのですが、その報告をきくとアメリカの病人はたいへんなものです。現在医者に御厄介になっている者は一七〇〇万人で、全人口の約一割以上が病人というわけです。それはアメリカが非常に間違ったことをやっているから病人が殖えるのですが、それを私は『アメリカを救う』という題で書いてます。これを翻訳してアメリカの大統領、有識者、医学界、病院に配ってやろうと思っています。日本にも新聞広告をして出します。

昭和二十七年十二月十日 『栄光」百八十六号

明主様 それで心臓の手術が成功したとか、死人の目玉をくり抜いて移植して治ったというようなことは、われわれのほうからいうと子供だましみたいなものです。あれは医学なるものを信じさせるための慣用手段です。この間、画家の吉井さんの、四年間悪い目が五分で治ったということがありました。ですからキリストの奇蹟くらいのことは私の弟子が毎日やっています。

日置氏 ですから単にすべてを迷信邪教と片づけるのは間違っている。やはり本願寺も天理教も初めはずいぶんいろんな法難に遭い、日蓮宗もそうですし、キリスト教もそうですからね。

明主様 宗教には法難はつきものですね。一番法難に遭ったのはキリストでしょう。命までやられたのですからね。ところがその教えが一番世界に拡がったのです。ですから法難の酷いほど価値があるのです。

昭和二十七年十月二十五日

明主様 それは霊の階級による、よい霊だと早い、何百年前でも一分かからない。私も、そういうことはできるけれどもやらない。私は低級の霊とかはしないんです。その霊の中の親玉のやつをやる。二五年に静岡の刑務所に入ったときに退屈ですし、静かでちょうどいいと思って大いにやりましたよ。そのときにスターリンの霊も呼んだ。共産主義は間違っているからどうしてもよせと言ったら、スターリンいかにしても、がんとしていうことをきかない。毛沢東は割合に素直だった。 あれはいずれソ連と離れる。これは時間の問題だということになった。だから、とうとうスターリンは改心しないうちに死んじゃった。それから釈迦、キリスト、大本教祖、天理教の教祖もやったし、弘法大師も呼びました。

昭和二十八年二月一日 垂録17(6)

〔 質問者 〕『アメリカを救う』を拝見してきた人がありまして、六日に入信の予定でございますが、その人の話で、キリスト教が日本に伝来したときにその人の先祖が非常に協力したそうで、非常に喜んでおりました。年は取っておりますが、力の限り明主様に御協力をさせていただきたいと申しておりました。

【 明主様 】そうなのです。実際、今度『文藝春秋』に出てますが、踊る宗教だとか、ダンスをやるPL教団とか、それから生長の家は本屋みたいで、ただ本を読ませるだけです。結局仏教、キリスト教の焼き直しです。だからこれはというのはぜんぜんありません。結局救世教の独舞台<ひとりぶたい>になってますから、これからはますますおもしろいのです。

【 明主様 】結局時期です。私もいろんな宗教の話を聞くとか本を読んでだいたいは分かりましたが、ずいぶん酷いのがあります。特に天理教などはおどかしてます。「この信仰から離れる者は、どんな災難があるか分からない」ということなどを根強く言ってます。それはなかなかうまい政策をしているものです。だからほかの信仰に触れるということを恐れるのです。それからまたその信仰をやめるということは非常に恐れているわけです。本願寺にしても「他のほうにちょっとでも触れると、死んでから阿弥陀さんの所にいけない」ということをずいぶんよく教育してます。それからキリスト教でも「贋キリストが出る」とか、「他に行くと救われない」という予防線はなかなか行き届いてます。救世教のように「他にやりたい信仰があれば、いくらでも行け」というのは、おそらくありません。

〔 質問者 〕この間キリスト教のそうとうに偉い人と雑談をしましたときに、『聖書』に矛盾があるらしいので、あなた方は素直に信じられるかと言うと、信じられないと言うのです。それなのになぜいるのかと言いますと、「キリストの再臨」ということを信ずるがゆえに、矛盾があってもあえて許せる。『バイブル』は古い本だから間違いもあるだろう。それがもし現われなければ、その宣布的なことも達せられない。そういう偉大な人の出現を待つだけだと言うのです。そこで私はもう出現していると言いましたのでございますが、それが本音ではないかと思います。

【 明主様 】そうです。私は、今度の『医学革命の書』に書いてますが、「私は救世主とは言わないし、キリストの再臨とも言わない。これからの私の仕事の上において、価値があったら、それから信ずればいいだろう」と書いておきました。看板をあげたり、自分はこうだ、ということはいままでにたくさん出ているのです。それはみんな駄目になっていますから、そういうことでは人が信じないのです。また信じないのがあたりまえです。しかし事実救世主だけの力をもって、再臨のキリストだけのことを事実において示せば、これは信ずるよりありません。それで結構なのです。

【 明主様 】そうです。それから「キリストのような奇蹟は、私の弟子でもできるのだから、もう日本には数十万のキリストが生まれている」ということも書いてます。しかしこれもいずれは分かりますから、結局時節です。

【 明主様 】そうです。つまりこっちは太陽で、他の教えはみんな月ですから、月はだんだん光が薄くなっていくわけです。キリスト教は星くらいなものでしょう。太陽がだんだん昇って行けばしようがありません。他は消えていくだけです。それで結局日本は救世教だけになってしまい、他は消えてしまいます。だからこっちの発展の早さというものはすばらしいものになります。これからの進み方はますます早くなります。おまけにいままでなんだかんだと妨害されていましたが、それがなくなりますから……。一番のことはアメリカあたりに信者ができてくるとたいへんです。大本教のお筆先に「灯台下は真暗がり、外国から分りてくるぞよ」というのがありますが、アメリカがいよいよ始まることになれば、星のところに太陽が出るのですから、どうしても太陽を拝まなければならなくなります。太陽を拝まなければ拝む的がないことになります。

昭和二十八年三月一日 垂録18 (7)

【 明主様 】おもしろいですが、虚虚実実で、本当のところと嘘のところがあります。あのユダヤ人が日本に渡ってきたということは本当ですが、あんなに大勢で一万人というのは、ちょっとおかしいと思います。掘り出したミイラが一三〇人というのはどうもおかしいです。その時分に渡ってきた人間かどうかですが……。それが時の勢力に迫害されて危なかった。そこで山に逃げて籠もって、しようがないというので、ここでお互いに死のうとしたのです。だからその人間はどこから来たかということは、やはり渡来してきたのでしょうが、前の酒井勝軍<さかいかついさ>氏の研究でもやはりそのことは書いてあります。それから十和田湖の側にキリストの墓があるとか、とにかくそうとうに古い時代に白人が来たには違いありません。

昭和二十八年 七月一日 垂録22 (1)

【 明主様 】私が始終書いてますが、将来はすばらしくなります。そうかといって想像はつきません。英国の盛儀<せいぎ>というものは立派ではあるが、一面悲哀を感じます。英国はそういう古いものを立派に見せて、それによって英国の権威を見せようというのですが、その気持ちたるや実に悲哀を感じます。そうでもしなければ英国の存在は世界から重きをおかれないのかと思います。ちょうど日本で神社のお祭りをするとか、いろんな儀式を盛大に行なうというようなものでしょう。しかし英国も今度の女王あたりで最後ではないでしょうか。しかしあれも、キリスト教とかの宗教のためです。王冠を被<かぶ>せるのはウェストミンスター寺院の大僧正がやってます。そしてなにか一言いってます。

昭和二十八年 七月一日 垂録22 (2)

【 明主様 】もっともここの割に肩は張ってない人もあります。ここがそうとう溶けさえすれば治ります。その溶け方が悪いのです。何病気でもそうですが、浄霊の霊力の強い弱いによって治る治らないということがあります。その霊力というのは力を抜くほど強くなるのです。ですから力を抜くことが大事です。本当に力が抜けるようになったらたいしたものです。あとはその人の信仰の深さによって霊力が強くなります。ということは智慧証覚が根本です。それから一つ注意しておくことは、慢心すると霊力はずっと少なくなります。だから信仰にはいりたてで「自分なんかに、そんな、できやしない」とビクビクしているときには割に治るのです。「もうオレはできてきた」と思うようになると治りません。それはなぜかというと慢心だからです。だからオッカナビックリの気持ちでやると治るのです。そうかといってビクビクしてやるのがよいわけではないので、つまり大いに神様の道具にならせていただいたという謙遜です。気持ちは、相手の病人は虫ケラほどでもないが、ごくつまらない人だというように思わなくてはならないのです。これは偉い人だと思うと、こっちの霊力が負けてしまいます。救世教は他の宗教から見るとまるで桁が違っているのです。その力をいただいているとしたら、世の中の人間は虫ケラのようなものです。しかしそれを出してはいけません。こっちは大いに謙遜しているのです。そこが難しいといえば難しいです。譬えて言えば、よく私などは世の中のちょっと偉い人などと話をして感心して聞いてますが、腹の中では信じてないのです。それで相手はすっかり私を信用させてしまったと思って、それから自分の計画などを持ってくるのです。それでこっちはそれに乗るような格好をしていて、最後の九分九厘に行ったときにスルッと抜けてしまうのです。そういうやり方が一番よいです。そういう場合に先方は、明主様はすっかり自分の言うとおりになったから、これは下にいるまわりの者が自分に対して悪意を持っている、というように思いますが、それでよいのです。ですから食えない人間にならなければなりません。よく食えない人間というと悪い奴のようです。しかし事実悪い奴は食えないですが、しかし善人で食えない人間にならなければ駄目です。よく「酢でもコンニャクでも食えない」と言うが、そういうようにならなければなりません。悪人は善人を手玉にとると言うが、私は悪人を手玉にとります。だから悪い奴を利用するし、また悪人でも大いに役に立つことがあります。悪い人間で教団のためになった者はたくさんあります。ですからよく「あれは評判が悪い」と言いますが、そういうことはなにも思わず、挨拶するときは挨拶してますが、それで結構よい手柄をしてます。つまりこっちに来るという人間は神様が必要があってよこすのだから、人間的判断をしたらたいへんな間違いです。だからよく「あの人は評判が悪い、油断ができない、おもしろくない、そういう人間は教会に入れないようにしなければいけない」と言うが、そうではないのです。そういう人間だからこそ、その人間を立派にするのが本当で、それには宗教の力が必要です。東京のあるキリスト教会で、「少しでも間違った人は教会に入れない、純真な人を選って教会に入れるということになっている」と、そこの牧師からそういう話を聞いたので、私は「そういう立派な人間なら教会に入れる必要はないではないか。悪いのを立派な人間にするのが宗教の仕事ではないか」と言うと、「それは本当の理屈だが、私のほうはそうなっているのでしょうがない」と言ってましたが、それはたいへん間違ってます。いままでの悪人が跋扈<ばっこ>したひどい世の中では、悪人もやっぱり一つの道具としてあるのです。それから中にはオワイ屋ゴミ掃除みたいな人間も社会には必要なのです。ですからそういうのを嫌っているのはしようがありません。「悪は悪をもって制する」ということがありまして、警察とか裁判官というのはずいぶん悪いです。悪人以上のようなのがいますが、しかしやっぱりそれも悪人をやっつけるにはそのくらいでなければ駄目だと思います。ですから必要悪です。信仰も大乗信仰と、小乗と中乗があります。この使い別けがなかなか難しいのです。

『御垂示録』二十三号 昭和二十八年八月一日(1)

 いままでの小乗信仰では、他の宗教にちょっとでも触れてはいけないと言います。これはキリスト教、真宗などは特にそういうことが非常にやかましいのですが、それは弱いからなのです。自分のほうが力が薄くて危ないからして、触れるなと言うのです。ところが救世教はそういうことはぜんぜん言いません。むしろ他の宗教に触れてみたほうがよいです。救世教より以上のものがあれば、その宗教に行けばよいし、ぜんぜんなければ救世教一点張りにやればよいので、それが本当なのです。ですから既成宗教とはまるっきり違う点を心得ておかなければなりません。そうしてつまり邪神を改心させて正神にするというのが仕事なのですから、邪神を避けたらその邪神を良くすることはできません。私は前にキリスト教の牧師と議論したことがありますが、それは東京の教会で、「少しでも間違った人は教会の会員にしない、そうしてどこまでも教会の正浄を保つ」と言うのです。それで私は「そういう正浄な人だったら教会の必要はない、穢れた人がいるから教会の必要があるので、穢れた人を入れて正浄にするのが教会でしょう」と言うと、「それはおっしゃるとおりですが、私のほうの教会はそういうようになっているので、そうしなければならないので、そうやっている」と、はなはだ頼りない返事でしたが、しかしそういうのはキリスト教の中にはたくさんあります。ちょうどユネスコみたいなものです。いつか田付さんがフランス人を連れてきたことがありますが、そのときにユネスコの話が出て、だれかがユネスコの会員になったほうがよいと言うので、私がひやかしたことがあります。結局ソ連がユネスコにはいったら私もはいると言ったのです。ソ連の鉄のカーテン以外がみんな平和的になってもしようがありません。肝腎なことをほったらかしているのです。それと同じようで、きれいな人や正しい人の団体をいくら作ってもなんにもなりません。むしろ害になります。いつか『栄光』かに書いたことがありますが、鉄のカーテン以外がみんな平和的になったら、ソ連は大手をふって侵略するだろうと言ったことがあります。ですから邪神の入口だったら、なるだけ行ったほうがよいのです。喧嘩をしなくてもよいが、行けばよいのです。そうすれば光がはいりますから萎縮します。それにまた、あいつは悪い悪いと言いながら、なにか取得があります。ただその取得があるということの発見ができないのです。あいつは邪神だという人は、頭が決まってますから批判力がないのです。そういうことにぜんぜん囚われないと頭が働きますから、悪い奴にも取得があるということを発見します。それであいつはいけないとか、あれは悪いとか言ったことが、時がたつとあんがいそれがために助けられることがあります。それは実に微妙なもので、人間の表面で見たくらいではなかなか、特に御神業は深いのですから、決して分かるものではありません。

『御垂示録』二十三号 昭和二十八年八月一日(12)

【 明主様 】できますが、本当ではありません。それは他の宗教はそれでよいが、救世教はちょっと違います。そういう贖罪的のことはありません。ですからある場合に、それはないことはないが、だいたいはないとみてよいのです。つまり贖罪をしたら人を救えないのです。それが三人や五人ならよいですが、一人で一〇〇人も二〇〇人もの贖罪をしていては、その人は活動ができません。だからキリストのように全人類の贖罪をしたために命がなくなったのです。これは月の神様の系統は贖罪をするのですが、私のほうは火の系統の神様ですから贖罪はないのです。月のほうは洗うのですから、ちょうど洗濯の水が汚れるようなものです。ところが火のほうは焼いてしまうのですから、むしろ灰が出るのです。かえって火力が強くなるのです。