昭和二十七年七月十五日 『御教え集』十一号(3)
それからこういうことをときどき聞くんですがね。私の本やなにかで裏表があると言うんですね。そういうことを聞くんですがね。一時そういうことの、ずいぶんはなはだしいことがあったです。裏表があるように見る人は邪神が憑っている。なぜというのは、いままでのお経にしろ、あらゆるものは夜のものだから、どうしてもたしかに裏表があったんです。夜の世界だったら、ここだけは月が照らすから見えるが、ここは見えない。ところが昼の世界ではここも見えるが、ここも見えるんです。だから裏表はないんですね。だから私の説いたものは、そんなことはないんです。そのまま信ずれば良いですね。それからいままでのことは根本が悪になっていたから、明からさまに言うことができないんです。そこで秘密があったんですね。あらゆるものがそうだったんですね。これは宗教も無論そうでしたね。なにしろうっかりすればキリストみたいや、日本のいろんな偉い坊さんでも島流しになったり、殺されようとしたりしたから、どうしても明からさまにできない。秘密にしたんですね。われわれだってそうですよ。終戦前はそうですよ。はっきり言えなかった。だから『明日の医術』でも曖昧極まるものがあったですが、あれははっきり書けなかったんです。ところがいまはそうではない。言論の自由ではっきり書けるから、今度の『結核信仰療法』ははっきり書いた。日本がそういう民主的になったということは、昼間の明るい時期に一歩近づいたわけですね。そういうわけですから、メシヤ教というのは昼の世界を造る。昼の世界になるについて出現した宗教です。ですからいままでの日本の宗教と違うんです。だから私の言う通りにやれば決して間違いない。裏があると思ったら間違いですね。だから素直になれ、というのはそういう意味ですね。素直にそのままやれば、すべてうまくいくんですね。
昭和二十七年七月十五日 『御教え集』十一号(4)
これは肝腎なことですが、よく私の書いた文章だとか、私の言ったこともありますが、明主様のおっしゃることでも、やはり裏表があるから、そういうのも考えなければいけない、というようなことをときどき聞くんです。そういう人があったら、それは邪神が憑いていると思えばいいんです。私の言うことは、決して裏表がないんだからね。言ったまま、字に書いたまま、そのまま受け取れば良いんです。そういう裏表を書くようでは、どこまで信じて良いか分からなくなります。それはどういうわけかというと、終戦前は危ないですから、あの当時の官憲は偉い人が出るということを非常に怖がった。それですから、大本教でもひとのみちでも、やられましたけれども、その根本は生きた人間を拝むんです。生きた人間を拝むと天皇陛下より上ということになるんですね。そこで、ひとのみちなんかは、御木徳一という教祖の像をニッケルで作って……お宮の真ん中が天照大神で、向かって右が代々の天皇、左が祖先と、こういうふうな像を作って、天照大神の前に御木徳一氏の像を置いて、それを拝ませた。で、他のことはみんな官憲が作ったものでしょうね。根本はそれなんですよ。つまり不敬ですね。天照大神の前に自分の像を置いて拝ませるということは、ちょうど天皇と同じような意味になりますからね。またどうしてそんなことをしたものか、ちょっと気が知れないと思ったんですがね。しかしやはり信仰的に……神懸り的にそういうふうに信じたんでしょうね。それが元だったんです。大本教なんか、出口王仁三郎先生ですね。あの人が不敬も不敬、たいへんな不敬だったですね。十六の菊の御紋をつけた羽織を着て、服装なんか宮様でも着るような服装をして、言うことも、ワシが日本の本当の天皇の系統だと言う。というのは、あの人は有栖川の宮さんの落とし子だそうです。これは本当でしょう。有栖川の宮さんが京都に滞在なされたことがある。そのときに近侍として出た若い娘にお手がついたとの話です。そのとき生まれたのが出口王仁三郎先生だと言うのです。だからお母さんが有栖川の宮さんの胤をいただいたわけですね。それは、お母さんが危篤のときに出口先生が行って、いままで隠していたが、お前は本当はこういう事情のもとに生まれたのだ、という話をされた由です。その直後に私は見舞いに行って帰ってきて出口先生に直接聞いたんです。それからガラッと変わったんです。俺はそうしてみると本当の日本の天皇の系統だ、という気持ちになった。それで明治四〇年ごろに「南北朝正統論」というのがやかましく言われましたが、学者の説で南朝が正統だということになったんです。で、その当時の天皇の系統……終戦時の天皇の系統は北朝ですから、北朝は本当ではない。俺は南朝の正統だから、俺こそ日本の天皇になるべきものだ、という考えになっちゃったんでしょう。それから外出する……旅行なんかするにも、儀杖兵的に……駅なんかに着くと、あの時分青年隊というのがありましたが、それは全部軍人のような服装をして、出口王仁三郎先生はちゃんとサーベルかなにか持って……剣を持って……それは抜くと旗なんですが、剣の形にね。それでプラットホームに行くとみんな敬礼している。それで陛下のときのようにしている。外に出るとオートバイが二台先頭に立ってズーッと行くんです。それで後からお供の車が二、三台行く。これは私が大本教を脱退した一つの理由だったんです。危ない、これはやられると思ってね。そのとき諌言した人もそうとうあるんですがね。注意したんですが、その注意がおかしいんです。出口王仁三郎先生は聖師様とそのとき言っていたが、「聖師様はそういう思し召しはないんだが、側の者がそういうことをするのは怪しからん」というのと「聖師様がそうするのだ」というのと両方ありましたが、なにしろ危ないので、それが脱退した一つの理由です。それで官憲のほうは怪しからんと根こそぎ弾圧したんです。あとで行ってみると、よくも壊したものですがね。月宮殿というのがありましたが、みんな壊れて……戦災の跡みたいです。みんなダイナマイトで壊したんですから、見る影もないです。そんなような具合で、その当時の官憲は偉い人というのを非常に嫌った。だから私が病気を治したりすると、ありがたがって敬ったりしますが、それが危ないんです。だからできるだけそういうことのないように、小さく小さくやっていたんです。それでも大宮警察署に引っ張られて、そこで拷問にあって……これは肉体的拷問です。頭の毛を引っ張られたり、剣術の竹刀を持って二人の奴が、腰骨をくだくとまで言ってやられたり、それでぜんぜんありもしないことを書いて、判を捺せというんですからね。今度の静岡の取り調べもずいぶんひどかったが、それほどではなかったですね。ずいぶんひどかったが、いま言ったそういう恐ろしいことはなかったですね。それを警視庁にやると、岡田という奴は怪しからん、とブラックリストに載せられる。それで至る所警察の奴が放たれて……監視つきですね。ずいぶんあの当時は嫌な感じだったです。熱海に来たときは……東山荘に来たときですね。熱海の警察署から二人来て、塀の穴からのぞいて、今日は男が何人、女が何人、いつごろ帰ったと記録していたんですからね。だからときどき変な男が家のまわりを見にきたりするんで、だから気持ちが悪くてね。それで、天国会の中島さんがやっているとき警察が来て、病気が治るということは、つまり観音様で治るのではない。陛下の御稜威で治るんだ。陛下の御稜威で治るというのを言うのなら良いが、観音さんで治ると言ってはいかんと、そういうことがありましたね。そんなこんなだから、やり悪かったんですよ。その当時中田重治という人がやっていた、ホーリネスというキリスト教会があるんですが、そこなんか幹部の者が六人牢屋に入れられて、非常な拷問や虐待を受けて二人牢で死んだです。まあ殺されたようなものですね。中田重治という人も病気になって死にましたがね。なにが原因かというと、再臨派といって、キリストの再臨を信じた。キリストは黄金の国に再臨するといって……黄金の国とは日本で、日本に再臨しなければならないというので、再臨派はそうとういたですね。先に大阪の人で、位置は大阪に違いないが……大阪に再臨しているに違いないと、そうして探した人がありますがね。そんなわけでホーリネス教会の一人で、いったいキリストが再臨したら、天皇とキリストと較べてどっちが偉いんだ。こういうことを言ったんですがね。それは日本では天皇陛下は偉い方に違いないが、世界的に言えば、やはりキリストのほうが全人類を救われるんだから、まずキリストのほうが上とみなければならない。その一言でやられたんです。ただその時分に日本の軍部……日本の天皇陛下は世界を統一する……八紘一宇ですね。そこで天皇より偉いということになれば、それはたいへんなんです。それだけでとうとうつぶされましたがね。近ごろいくらか小さく始めているようですが、まあ気の毒なものですよ。中田重治という人はなかなか立派な人で、言うことは正しかったですね。むしろキリスト教のほうではホーリネスを注目していたですがね。ホーリネス教会という名前で、どこかにできたということを聞きましたがね。
そうでしょうね。やっぱりあれは、キリスト教も本当に研究すればそこにいくんですからね。そんなようなわけで……話が馬鹿に横道にいったんですが……本筋が分からなくなっちゃったが、そういうわけですから、そうそう裏表の話でした。そういうわけだから、はっきり言えなかったですね。ですから私の本なんかでも、最初の『明日の医術』なんかは、ずいぶんぼかして書いてありますから、たしかに裏表があったんです。日本でも最初……昔、仏教の最初の時代ですが、あの時代にはずいぶん神道やなにかも力があって、本当のことが言えないために大いに……裏表どころではない、裏ばかりの説き方をしていた。その時分の……真言密教ですね。あれがそうなんです。密教というのは、本当の奥義はお釈迦さんは七王の上にあるとしてある。七つの王様の上にあるというんですね。ですからその時分の天皇に対して、非常に不敬になるんです。天皇より上なんですからね。大本教にそういう研究家がいて、釈迦は七王の上にあるんだと言って、警察に呼び出されて、ずいぶんやられたようです。そうしてその弁明に非常に苦しんだようですが、これは宗教の……霊界のことだからというので、うまくごまかしたようですがね。そんなわけで、言葉や筆で知らせることができなかった。ですから覚りでいくんですからね。本当のことを言わないで、本当に近いようなことを言って覚らせるんです。教えをして、味わいですね。あれをさせるときには、試験のときには大僧正の前に行って、大僧正から「お前解ったか」というと、「解りました」。それで良いんですからね。それでちゃんと霊的に通じているわけですね。霊的に解ったんです、ですからあの時分は暗号といって符牒を作ったんですよ。ちょうどいまの共産主義のようなものでね。昨日かの新聞に出てましたが、共産党の暗号は野球に準らえてね。そういうことは日本の密教が初めですよ。その言葉をなにかでちょっと見ましたがね。共産党よりか上手くできてましたよ……もっと深かったですね。共産党のは、じきに分かりますからね。そんなようなわけで、だから仏教でも嘘は許されていたんです。ですから「嘘も方便」と言いますがね。ですから嘘は……結構じゃないが、それほどの罪にならないです。罪になるのは偽りです。嘘と偽りは違うんですよ。嘘というのは、先が信ずるも信じないも勝手です。鼻の先であしらう……嘘言ってやがらあ、とね。偽りというのは嘘の具体的効果ですね。人に嘘を言うのはそれほどでもない。場合によっては嘘を言っても良いんです。ですから嘘というのは空虚なものですね。ですから口偏に虚と書きますね。偽りというのは中に実体が入っているんですね。
昭和二十七年七月十五日 『御教え集』十一号(8)
いつも言うことですが、メシヤ教が宗教的に活動を始めたのは二二年の八月ですから、三、四、五、六、七と、今年の八月で満五年になるわけです。この間も、フランスの大きな雑誌で、『パリ・マッチ』の主筆が来て、いろんなことを聞いたんです。いまどのくらいの信者があるかと言うので、まあ三〇万以上あるだろう、と。いつ始めたかと言うから、五年前。その始めたときはどのくらいの信者かと言うから、数百人くらいだろうと言うと、どうも信じられないようで、びっくりしたようでした。だからいかに発展の速やかだということは分かります。いったいその根本はなにかというと、病気が治ることです。こう(御浄霊)やって病気が治るということです。だから私の弟子はキリストくらいの奇蹟のできるのは、なんでもないと言うと、カトリックなんかが非常に根強い……キリストを信じている。するとキリストよりか以上とすると、いったいどういう神様か。キリスト以上の神様は、カトリックではないとしている。と言うから、私はキリストは天の父ということを言っているではないか。すなわち天の父という神様はキリストより上じゃないか。などと、そんな話がありました。それで美術館を見せてやりましたがね。なにか言うと、奇蹟だと言うんです。本当の値打ちは、外人ですから……それに、あんまり美術の研究が深くないようですから、解らないらしいですが、見た目が立派ですから、良いと思っているのでしょうが、こんなものがたくさん蒐まったということは奇蹟だと言っていました。
昭和二十七年八月一五日 『御教え集』十二号 (5)
まだ仕上げができていないから、いくらか分かり悪いでしょうが、だいたいの意味は分かったと思います。これはだれでもですが、悪というのはなぜあるのかという疑問ですが、こういう質問をされたことがある。神は愛だ、慈悲だ、と。それなら、罪を裁く……罪を裁くといえば、人間が苦しむのですから、神様の慈悲だとしたら、最初から悪を作らないで、罰を与えたり苦しめたりしなければ良いではないか。それでは、神の慈悲ということが、どういうものか解らない。ということをときどき質問した人がありますが、それはまったくそうです。で、私は言ってやったのです。私は悪を作った神様でないから、どういうわけで作ったか分からない。その神様に聞いてみるよりしかたがない、と言って逃げたのです。そういうわけで悪はどういうわけであるかということが分からないのです。それを分からせるために最初は必要であった。要するに必要悪です。いままでは悪があったために物質文化が発達したのです。もし悪がなかったら、人間はまだまだ……智恵もこれほどにならず、もっとボーッとしたものであったでしょう。仮に、戦争が恐ろしいから、負けたらたいへんだといろいろ工夫してやる。そうするといっぽうのほうで、悪人は大いに世界を自由にしようとします。最近で言えば、ヒトラーのように……いろいろ工夫している。それから泥棒があるから、泥棒をつかまえようというわけで、警察と智恵較べをするのです。現に、いまの破壊活動防止法案は共産党のほうをなんとかしてやっつけよう。武器をどうして作ろうか、手に入れようかとする。この間ピストルを何百か押さえられましたが……。それから火炎瓶、竹ヤリ……これは原始的ですが、いろいろ工夫している。そうすると政府のほうでは、破防法を作ったりいろいろな巣窟を探ったりしてやっている。これは智恵較べです。悪人と善人の智恵較べがあらゆる面に出てくるのです。つまりそれによって人間はだんだん智恵が進むのです。それからいま読んだ通り、いろんな物質文化を発達させるには、神様があるということを……つまり有神論では、神様がなんとかしてくれるという気になるから、どうも発達しないです。神様はないから、どうしても人間の力で工夫して行かなければならないということになるから、必要悪だったのです。ところがここまで来れば、必要悪でなくて不必要悪で、かえって障害物になる。そこで悪を打ち切りにして、これだけ進んだ物質文化を利用して地上天国を造る。その時期が来たのです。時期が来た以上その根本が分かつていなければならない。神様はそれを知らされたのです。そこでこういう文章を書いて世界中の人に知らせる。つまりこれは「天国の福音」というわけです。キリストが言ったように、「普く天国の福音は伝えられるべし、然る後末期至る」です。これから、先を説いていきますが、悪というものは打ち切りにする。どうしてなくする……その打ち切りの順序をこれから書くのです。そうして悪というものはなくなる。なくなるということは、刑罰でなくなすのでなく、悪はつまらないということになる。悪なんかやってもしようがない。善のほうが得だということになるのです。そういうことになるということは立派な理由があるのです。それはこれからだんだん説いていきますから分かるわけです。そういう話はこのくらいにしておいて……。結局、世界人類にその根本を分からせるということが、これからの私の仕事です。
昭和二十七年八月一五日 『御教え集』十二号 (6)
御教え 私は始終邪神と闘っているのです。だから一日といえどもなんにもなくて、せいせいするという日はありません。それからそれへと問題が起ってくるのです。ですから始終闘いです。冷たい戦争と言いますが、まあ冷たい戦争です。武器を持たない戦争です。それを始終やっている。ですからいまでも裁判の三つや四つしているのですが、みんな悪との闘いです。邪神のほうでは、とにかく私が怖いので、あらん限りのことをやっているのです。ですから昔なら、キリストみたいに磔にならないまでも、遠島くらいはされたわけです。その点はいまはありがたい御時世になってます。とにかく昔のようなひどいことはしないですから、よほど楽に闘っていられるのです。宗教というものは、そういうふうな運命がつきまとっているものです。かえって力のある宗教ほど、よけいそういうことをされることがあるのです。お釈迦さんだけは割合に無事だったのですが、あの人は皇太子という位があったので、社会が非常に見方を違えたのだろうと思います。お釈迦さん以外としては、ほとんど迫害されない宗教家はいなかったです。だからしていままで悪い意味ばかりで考えてましたが、なにか……つまり抑えつけるとだんだん力を増すのです。無事でなんにもないと、さっばり力は増さないのです。やっぱり神様は良い具合に……考えてみるとちょうど一年置きになってます。今年なんかはごくわずかですが、でも一つの句切りになったような、多少の影響があるでしょう。あとは一昨年……二五年。それから一年間をおいて二三年です。そんなような具合に一年置きです。ですからギュウギュウ押す……押すとこっちははね返る。力が増すのです。そういうふうにギュウギュウやられていながら、教団のほうはドンドン発展して行く。今度は美術館もできたのですから、その神様のやり方は、なかなかおもしろいと思うのです。
昭和二十七年八月一五日 『御教え集』十二号 (10)
そうして今度は薬毒の害を知って、さらに神様は司法制度……警察や裁判所、そういう悪をだんだん見せられた。豚箱やそういうこともさんざん経験しました。それから刑務所に行って、そういう方面の悪は実に良く分かった。しかし、こういう悪は私は割に少ないほうで、一番酷い目に遭ったのはキリストです。キリストなんかは、まるで……あの時代はそうなっていたか知らないが、ユダの讒言によっで、あのときの王様がキリストを陰謀の親方と思って、そうして磔にしたのです。日本の宗教家でもたくさんあります。ですから私が何百年前にこういうことをやれば、遠島は無論です。八丈島辺りに……。で、明治近くなってから、天理教の教祖は、警察や牢屋に入ったのが一六回です。懲役……そんなようなものが四回ありました。一番長かったのが、たしか半年だったと思う。その時分には信仰の自由はないし、めちゃくちゃです。いまではこれでよほど良いです。以前ですと、まだ罪の決まらないうちに美術館なんて、とてもそんなことはできない。そんなような具合で、神様はいろんな経験をさせられた。去年も刑務所に行ったときに、すぐ隣が、塀一つですが、懲役人が鍬を持って労役をやってましたが、懲役とはこんなものかと、神様はここまで見せられるのかと、つくづく見せられました。そんなような具合で、いろんな見学をさせられました。で、結局において悪です。その悪のうちで一番深刻なのは薬です。ところがどういうわけで薬というものができ、服ますようになったのかというと、この薬を服ませたのは観音様です。観音様が薬師如来になって薬を服むようにしたのです心というのは、人間が原始時代には非常に……獣みたいな人間だった。獣と闘うのですから獰猛だった。人間の進化の最初は、獣との闘いです。それを防禦するための闘いが最初で、これで人間はよほど智恵というものが出てきた。神様がこしらえられた最初の人間はボーッとしたものですが、だんだん智恵を磨くのです。そうして地上天国を造るのです。それにはどうしても悪を作って善と闘わすという手段をとったのです。獣との闘いがすんだら、今度は人間との闘いです。これは歴史にもありますが、野蛮人同士の闘いです。よく映画にもありますが、われわれも何千年何万年前はそうだったのです。それにはどうしても悪人というものを作らなければならない。善人だったらそうはしないから、文化も発達しないし智恵も発達しないのです。それからもう一つは、争闘させてある程度人間の智恵ができると、今度は人間を弱らせなければならない。弱らせると非常に智恵が発達するのです。というのは、人間が健康ですと、どこに行くのにも駈け出しても歩いても平気ですから、交通なんてあんまり関心を持たない。人間が弱ってくると、とてもやりきれない、楽をして遠くに行くというようになる。それからいま読んだように、戦争を作るというのは、どうしても野心家……どんなに悪いことをしても、どんなに大勢の人間を殺しても、そこを掌握するというような野心です。だからしてそれをこっちが防ぐために大いに智恵を振るって、そういう方法をとらなければならない。そこでいろいろな立派な発明もできるし、智恵もドンドン進むのです。その結果原子爆弾のような……それは発明としたら、いまでも一番すばらしいものです。ですからそういった英雄という者も必要なのです。で、人間がそれではあんまりかわいそうだし、それではかえって悪の世界になるから、それで宗教というものをこしらえた。それで、それをそれではいかんと因果応報の理由なんか説いて、ある程度悪の膨大を制限する……そういう人が宗教家というのです。ここまで人智が発達し、ここまでいろんな物質文化が発達すると、これ以上になると今度は危なくなる。人類の破壊になりますから、ここらで止めて、いままでの物質文化を良いほうに使う。そうして神様の最後の目的である理想世界……地上天国を造るという、その時期になったのです。そこでいままでのいろんな間違ったことを分からせ、そうしてそれをなくさなければならない。ですから病気は薬毒だ、間違っていると言ったところで、こうして(御浄霊)治す。それを見せなければ人間は信じませんから、こういう治す力を私に与えて、医学や薬の誤りを知らせるという意味で、それが根本の意味です。それからもう一つは、いま言う悪というものは、これからその説明をやるのですが。これは心に働いている悪というのは簡単です。これは信者は良く知ってますから、そう精しく説明する必要はないが、つまり人間に憑依している副守護神……動物霊がやるのだから、そこで悪を制限するには動物霊を弱める。動物霊を弱めるには霊の曇りの多い少ない……曇りが多ければ、動物霊は根本的の悪のものですから悪をさせる。動物霊をある程度抑えるには光です。光とは魂の光です。それには曇りを取らなければならない。だから悪の因というのは、結局霊の病気になる。つまり体の病気が毒血で、霊の病気が曇りです。ですから曇りを取るということになる。浄霊するということは、肉体の病気ばかりでなくて、霊の病気も一緒に取ってくれる。浄めるわけです。ですから浄霊という。霊が浄まると副守護神が弱りますから……副守護神ばかりでなく、臨時に憑く霊もありますから、憑いても弱るから、その霊は悪いことをしない。そういうことになる。そういうふうに人間が曇りが取れて動物霊の力が弱ると、悪人がなくなったということになる。そうするといまでもミロクの世になってしまう。それが根本です。理屈からいっても良く分かるのです。決して難しいことでもなんでもない。では、こんな簡単な理屈がどうして分からないかというと、その人の霊が曇っているからです。副守護神が邪魔するからです。これはお蔭話によく書いてあるが、よく解っているのだ。分かっていながら、どうしても信仰に入れないというのがよくある。分かっているというのは、その人の本霊が分かっている。ところが、分かっていて、なんだかんだささやくように思わせる。それが副守護神です。だからそういう点で、始終浄霊していると良く分かる。そういうような意味を、これからだんだんふつうの人にも分かるように書いていくつもりです。ですから結局肉体の病気と心の病気と両方治す。そうすると、心の病気を治すと、悪がなくなるから世の中が良くなるに決まっている。そう難しいことはない。分かってみれば簡単なのです。話はそのくらいにして。
昭和二十八年八月十六日
いま読んだ通り、私はいま「`<す>の文化」というのを書いてますが、いまの社会事業のようなものは結局において、いままでのやり方は現われたものを抑えつけるとか、それを一時的良くするとかいう、そういうやり方ばかりですから、やっぱり医学の対症療法と同じで、痛いからそこを注射で痺らして一時苦痛を取る。熱が出るから冷やしたり熱冷ましをやるというようなやり方です。ちょうど社会事業は、不幸な人が出るからそれを救うというのと同じです。ところがそれは因があるのです。その因のほうにさっぱり気がつかないということは、気がつかない一つの癖がついたようなものです。そういった因を考えるということもしないのです。金がなければ借金すれば良い、金を借りれば良い、と……経済界もそうなってます。なにか事業をするとか、なにかというとすぐ銀行から借りるのです。その大きなのが外資導入です。どうしても自分で稼ぎ出すということは、まことに乏しいです。で、犯罪者ができる。そうするとそれに刑罰を喰<くら>わして酷い目に合わして、懲りさせてやろうという、そういうようなことや、とにかく外殻……外側だけのやり方です。ところが中心があるのです。いま言う魂です。それを閑却している。ですから丸のヽ<ポチ>がいままでなかったのです。ポチが隠れていた。ですからこの輪(○)……つまり言わば、からっぽです。ですからいままでは、からっぽ文明です。そこでポチですが、ポチは一厘なのです。これ(丸)が九分九厘なのです。九分九厘と一厘というのはそういうわけです。で、一厘の仕事をするのが私の使命なのです。いまの社会事業にしろそういった肝腎な魂、それから病気なら薬というような、そういったものですが、いま薬については根本から書いてます。そうすると薬も必要だったということも分かります。キリストが言った「禁断の木の実」ということは薬なのです。禁断の木の実を食べると人間に悪が生まれる。悪が発生する。悪の発生源というのは薬なのです。薬を人間が使わなくなれば悪がなくなるのです。これもいま細かく書いてます。いままでそういうような肝腎な中心だけが隠されてあった。それがつまり夜の世界だったのです。暗闇だったからして見えなかったのです。
昭和二十八年八月十七日
昨夜から今朝にかけておもしろい論文を書いたのですが、まだ仕上げをしてないから読みにくいのですが……。つまり薬というものは毒ですが、毒を薬のように思わせたのはだれかというと、神様なのです。だからちょっと意外な説なのですが、ところがこれを充分解ると根本的に分かるのです。なにしろ悪魔というのは、神様が作ったのです。こういった説き方は主神<すしん>の説き方なのです。いままでの宗教にしろなんにしろ、主神の教えでなかった。つまり善の側の神様が出て説いたのですから、悪というものをいちがいにぜんぜんいけないと排撃したのです。これは善悪両方の神様がこしらえたのです。善のほうの神様は、キリストとか釈迦を使って説かせたのです。ところが私は善悪両方の主神……その神様の計画を説くのです。そこで悪を否定するのでなくて悪を肯定しているのです。そうすると毒を薬として服ませるのはどういうわけだという、そういう意味も知らなければならない。それを書いたのです。
昭和二十八年十月五日
いま聞いた話ですが、今度『読売新聞』でも宗教的なことをやるようなのですが、これは『東京日日』が前例をつけたわけですが、それで成績が良いのでしょう。それから現在の外国映画、特にアメリカ映画は、宗教的のことを少し入れないと具合が悪いという話です。私はそれほど注意してなかったが、この間なにかに書いてあるのを見ると、かならず宗教的のテーマがあるそうです。ですからそのような具合に、世界的の風潮がそうなりつつあるわけです。まあ今度の仏教徒大会とか、いろんなああいうことも、その一つの現われだと思います。そうかといって、外国は日本と事情が違います。キリスト教一本ヤリですが、日本なんかは宗教デパートみたいなもので、世界的に例はないでしょう。日本とすれば、いまさら既成宗教に救いを求めるとかなんとか、そういった気持ちはほとんどないといっても良いくらいでしょう。特に青年層は、本願寺系の南無阿弥陀仏ということだけではおそらく満足できないでしょう。それでまた既成宗教の説き方は、あまりに現代離れがしていて、そうしてしかも理論ばかりですから、実際的の御利益とか、そういったようなものはないからして、信仰しようと思うと、どうしても新しい宗教よりほかに行き所がないわけです。
昭和二十八年十月十八日
それからこれは前から話ししようと思っていることですが、やっぱり時期が来ないと、はっきり話すことができないので言わなかったのですが、時期が来ましたから今日初めて話しするのです。これは昔から、西洋でのよほど古い……キリスト教だろうと思いますが、「東方の光」ということを言い出したのです。東方の光というのは、人の口から口へとずっと話されているのです。東方の光というのは、漠然としていていままでは本当に分からなかったのです。その東方の光について今日話そうと思っておりますが、東方の光というのは私のことなのです。それはいろいろありますが、一番はっきりしていることは、世界の東が日本です。極東と言いますから、東には間違いないのです。日本の東は東京なのです。東の京<みやこ>としてあるのですから、東に違いありません。東京の東は浅草です。浅草の東は橋場という所です。私は橋場という所で生まれたのです。橋場で生まれまして、それから転々として西へ西へと、こうして来たのです。最初は、千束橋という所がありますが、それから日本橋です。浪花町という所があります。それから京橋の木挽町という所がある。それから大井という所ですが、いまは大田区の大井というのです。それから大森、玉川。それから箱根、熱海で、今度は京都に、と数えると八つになっています。八つで西へ西へとなっています。
いままでのいろんな世界の文化などを見てみますと、みんな西から来ているのです。だいたい宗教でも、仏教にしろキリスト教にしろ神道にしろ……神道も西から来ている。だいたい日本の神道というものは、神武天皇系でこれは九州の高千穂です。それから後は出雲系です。そんなような具合にいっさいの宗教が西から来ているのです。ただ一つだけ東から出たのは、仏教では日蓮宗です。いつも言う通り、仏教はみんな夜の教え、月の教えです。そのうちにただ一つだけ日蓮宗が日の仏教だということを言ってますが、日蓮が初めて「日」ということを唱え始めたわけです。そこで唱え始めたのが安房の清澄山という所です。もっともあそこで生まれたのです。安房の小湊の誕生寺というのは、日蓮上人の生まれたのを記念していっているのです。私が昭和六年六月一五日に安房の乾坤山日本寺という所に三〇人を連れて行きましたが、そのときに初めて黎明になったということを言ってますが、その前に日蓮上人はその乾坤山からちょっと行った所で、初めて「妙法蓮華経」を唱えたのです。日蓮宗は六五〇年ともいうし七〇〇年ともいいますが、妙法蓮華経を唱えられてから七〇〇年で、死んでから六五〇年です。そのくらい前にすでに仏界には日が出たのです。昼間の世界の第一歩が始まったわけです。で、この「東方の光」というのは、つまり太陽です。昼間の世界になるということは、太陽の照らす世界ということです。それで私のここ(腹部の中央)に光の玉があるのです。この玉が東方の光です。いま言ったような東からだんだん西のほうに、あるいは中天に登っていく……と、そんなような具合で、東方の光という謎がここにおいて解けたわけです。こうやれば本当に治るということは、これから出ます。それで胸に光を放射されているわけです。
この間も言った通り、いま『アメリカを救う』という本を書いてますが、もうだいたいできていま翻訳にかかってます。まあ日本はよいですが、アメリカのほうにはできるだけ多く見せたいと思うのです。それには英文にしたほうが良いというのでいま訳してます。それにいまアメリカのほうは非常な病人ですから、一々病気の原因や治し方や予防をいろいろ書きましたが、その治すのには、やはり私の霊の力でなければ、あるいは早く治すには駄目だ、と。それにはいずれこちらからそういう人が行く。遅くとも来年の上半期中には行くから、待ってくれと書きましたが、ただこうやっただけで治るということを説明しなければ先方は納得がいきません。それにはやはり私に光の玉がある……西洋の人はエホバなら分かりますから、エホバから与えられているその光の玉によって治る、ということも精しく書きました。やはりそうしなければ徹底しません。そこで、これはキリストの話になりますが、キリストは「天の父の霊によって、救いをやる」ということを、いくども『聖書』で言われてます。ですからキリストはエホバの子になるわけです。それで私の力はエホバの直接の力というわけです。私から言えばキリストは子供になるわけです。いま信者がやっているのは、キリストがやっていたことをさかんにやってますが、この前も八年とか眼が開かなかったのが、二分ですっかり見えるようになったというのがありましたが、今度『栄光』に出します。それから一三年くらい足が立たなかったのが、二〇分で足が立って翌日には立って歩くようになった、というのがありましたが、キリストがやった、『聖書』にあるように盲の目が開き、跛の足が歩けたということがありますが、私の弟子がいまやっているのです。この事実で、いま私が話したことは間違いないのですから信ずるよりほかはないのです。そんなような具合でこれからだんだん、神様がいろいろな方法をもって救いの業をされる。私はその執行機関です。どうしても霊ばかりでは世の中は救われない。世の中は物質でできてますから、それには生きた人間が唱道しなければ駄目です。そういう仕事を私がさせられているわけなのです。ですから時の経つに従って、追々それが具体的に現われてきます。今度の『アメリカを救う』という本も、見るとびっくりするだろうと思います。日本が敗戦国でヒョロヒョロしているのに、アメリカのほうで「日本を救う」とはありそうな話ですが、やっとまだ講和になるかならないかという、ろくに腰も立たないような日本が「アメリカを救う」なんていうのは生意気千万だ、と言うでしょう。ですからよほど自信がなかったら出せるものではないですが、私は人類を救う上において、アメリカ人だろうがソ連人だろうが……共産党も世界では脅威とされてますが、なんでも救わなければならない。スターリンが救世教信者なら話もしやすいが……。しかしとにかく人類を救うにおいては、あらゆる間違った点、人類に不幸を与えるとか災いを与えるというのは、全部除かれなければならない。そういうことはいままでなかった。実際的にやる人はなかったし、またできようとも思わないし想像もつかないですから、私がこんなことを言うと、信者は信じますが、第三者としたら、大きなことを言うなと思うでしょう。しかしこれだけ信者さんがいるのですから、頭が変だとは思わないでしょうが、よほど変わったものだと言うでしょう。けれどもなんと言われても思われても、真理を行なっているのです。自信があるのです。そうでなければ私どもには言えません。だから絶対的な信念があればこそ、なんともなく言えるのです。いずれメシヤ教というものが世界的なものになりますが、そうすると大いに張り合いがあります。