キーワード:「キリスト」

昭和二十七年五月一五日  『御教え集』九号  (3)

 それからこういうことを知らなければならないんですがね。それは、昔から宗教の教祖とかいう人が、なんでも一々神様にお伺いするんですね。そうすると御託宣が出て、神様がこうおっしゃった、とか言うんですがね。そうすると、それを聞いた人はたいへんありがたがるんです。ありがたく思うんですね。ところが私はそんなことはしないですね。ただ、その場その場で簡単に言ってのけるので、有難味がないんですね。だから、ともすればそれを軽く思って聞き逃しちゃうわけですね。で、なにかあると、こういうことを以前にお聞きした。これだということに気がつくんですが、初めはなかなかそう思わないんです。それですから私の言う通りやらない人もずいぶんあるんですよ。それはどういうわけだと言うと、私は神様に聞く必要はないんです。私のお腹におられる神様は最高の神様です。自分が言うことやることが、そのまま神様がやっていることと同じですからね。つまり直接なのですね。ところが、いままでの宗教の教祖というのは間接なんです。キリストにしろ、自分はエホバの命によって生まれたとか、天の父だとか、なんとか言いますが、あれはやっぱり間接的なんです。で、私におられる神様は、エホバと同じなんですからね。そこで、私は神様を拝んだことがないですね。どこのどの宗教でも、お祭りだなんていうと、やっぱり神様に、教祖が恭しく礼拝するものなんですがね。私はやらないんです。というのは、私が拝む神様はないんですよ。もし神様があるとすれば、私よりみんな下だからね。だから、神様のほうで私を拝んで良いんですよ。それですから、御守りを一つ書くにも、ふつうは斎戒沐浴して、羽織袴で恭しく書くんですが、私は夏なんか裸でアグラかいて書く。だから知らない人は有難味はないんですがね。私はなんでも無造作にやってのけるんです。難しくする必要がないからですよ。ですから、かえってその点を逆に考えられるんですね。逆に思われるんですね。誤解されるんですね。しかしそれは、だんだん分かってくれば良いと思っている。だから一時的誤解は私はなんとも思わないですがね。こういうこともあまり生神様らしく思わせることになるので、私は好かないのであまり言わなかったんですが、そのために私の言うことを軽くみる場合がよくあって、そのために間違いがよくありますから、そのために言っておいたほうが良いと思ってお話しするんです。だから、その点を良く心得ていて、他の宗教や、教祖と較べればはっきり分かるんですよ。一番分かるのは、キリストの奇蹟なんかは、非常に有名になってますが、私の弟子で、キリストと同じような奇蹟はさかんにやっているんですからね。それ以上の奇蹟さえあるんです。時間があったら読もうと思ったんですがね。奇蹟以上の奇蹟というんですがね。今度新聞に出しますが、読むのは時間がないから略しますが、百姓夫婦で、最初田んぼに入って、電線が切れて落ちたのを、うっかりつかんだんです。六〇ボルトで……感電してびっくり返って倒れたんです。それを見て、亭主が、これはたいへんだと入ってつかんだところが、またひっくり返ったんです。電気のほうでは、水に入ると五倍の電流が流れると言うんですね。ですから、その電流を食って、身体が仮死状態になった。ところが良いあんばいに助かったと、本人が書いたものなのです。これは、ぜんせん学理で理屈のつけようがないんです。精しく書いてありますが、新聞に出てみれば解ります。

 それから原子爆弾のお蔭話も、そういったので七つばかり集まりました。これも、新聞に出しますがね。これなんかも、ずいぶん奇蹟がありました。ほとんど、信者で……御守りを受けたのは、一人も被害がなかったんですからね。だから原子爆弾も恐るるに足らずですよ。必ず助かります。また、原子爆弾で半分死んだような人でもなんでもない。やっぱり浄霊で治っちゃうんですからね。だから、この奇蹟なんていうのは、キリストでも……あの時分には電気やなにかなかったからしかたがないが、それはキリストの奇蹟以上ですよ。いま話した、キリストやなんかも間接的の力であって、私は直接だということは、これだけを見ても証拠づけられるんです。時間が来ましたから寸鉄を。

昭和二十七年五月一五日  『御教え集』九号  (4)

 それからこういうことを知らなければならないんですがね。それは、昔から宗教の教祖とかいう人が、なんでも一々神様にお伺いするんですね。そうすると御託宣が出て、神様がこうおっしゃった、とか言うんですがね。そうすると、それを聞いた人はたいへんありがたがるんです。ありがたく思うんですね。ところが私はそんなことはしないですね。ただ、その場その場で簡単に言ってのけるので、有難味がないんですね。だから、ともすればそれを軽く思って聞き逃しちゃうわけですね。で、なにかあると、こういうことを以前にお聞きした。これだということに気がつくんですが、初めはなかなかそう思わないんです。それですから私の言う通りやらない人もずいぶんあるんですよ。それはどういうわけだと言うと、私は神様に聞く必要はないんです。私のお腹におられる神様は最高の神様です。自分が言うことやることが、そのまま神様がやっていることと同じですからね。つまり直接なのですね。ところが、いままでの宗教の教祖というのは間接なんです。キリストにしろ、自分はエホバの命によって生まれたとか、天の父だとか、なんとか言いますが、あれはやっぱり間接的なんです。で、私におられる神様は、エホバと同じなんですからね。そこで、私は神様を拝んだことがないですね。どこのどの宗教でも、お祭りだなんていうと、やっぱり神様に、教祖が恭しく礼拝するものなんですがね。私はやらないんです。というのは、私が拝む神様はないんですよ。もし神様があるとすれば、私よりみんな下だからね。だから、神様のほうで私を拝んで良いんですよ。それですから、御守りを一つ書くにも、ふつうは斎戒沐浴して、羽織袴で恭しく書くんですが、私は夏なんか裸でアグラかいて書く。だから知らない人は有難味はないんですがね。私はなんでも無造作にやってのけるんです。難しくする必要がないからですよ。ですから、かえってその点を逆に考えられるんですね。逆に思われるんですね。誤解されるんですね。しかしそれは、だんだん分かってくれば良いと思っている。だから一時的誤解は私はなんとも思わないですがね。こういうこともあまり生神様らしく思わせることになるので、私は好かないのであまり言わなかったんですが、そのために私の言うことを軽くみる場合がよくあって、そのために間違いがよくありますから、そのために言っておいたほうが良いと思ってお話しするんです。だから、その点を良く心得ていて、他の宗教や、教祖と較べればはっきり分かるんですよ。一番分かるのは、キリストの奇蹟なんかは、非常に有名になってますが、私の弟子で、キリストと同じような奇蹟はさかんにやっているんですからね。それ以上の奇蹟さえあるんです。時間があったら読もうと思ったんですがね。奇蹟以上の奇蹟というんですがね。今度新聞に出しますが、読むのは時間がないから略しますが、百姓夫婦で、最初田んぼに入って、電線が切れて落ちたのを、うっかりつかんだんです。六〇ボルトで……感電してびっくり返って倒れたんです。それを見て、亭主が、これはたいへんだと入ってつかんだところが、またひっくり返ったんです。電気のほうでは、水に入ると五倍の電流が流れると言うんですね。ですから、その電流を食って、身体が仮死状態になった。ところが良いあんばいに助かったと、本人が書いたものなのです。これは、ぜんせん学理で理屈のつけようがないんです。精しく書いてありますが、新聞に出てみれば解ります。

 それから原子爆弾のお蔭話も、そういったので七つばかり集まりました。これも、新聞に出しますがね。これなんかも、ずいぶん奇蹟がありました。ほとんど、信者で……御守りを受けたのは、一人も被害がなかったんですからね。だから原子爆弾も恐るるに足らずですよ。必ず助かります。また、原子爆弾で半分死んだような人でもなんでもない。やっぱり浄霊で治っちゃうんですからね。だから、この奇蹟なんていうのは、キリストでも……あの時分には電気やなにかなかったからしかたがないが、それはキリストの奇蹟以上ですよ。いま話した、キリストやなんかも間接的の力であって、私は直接だということは、これだけを見ても証拠づけられるんです。時間が来ましたから寸鉄を。

昭和二十七年五月一五日  『御教え集』九号  (11)

 そういうわけで、京都のほうぼうのお寺にあるいろんな仏様ですねや結局はメシヤ教が現われるのを、みんな待たれたんです。それで今度私が来たことについても、いろんな仏様は霊界でたいへんな喜びなんですよ。そういうわけですから、その仏様たちが、自分の宗旨の人をだんだん分からせるんですね。そういう時期が非常に近寄ってきている。この間私は日比谷の公会堂のときの話に、釈迦、キリストは私の弟子に相応するということを言ったわけですが、ずいぶん大きなことなんで、知らない人は驚きます。信者の人は別に驚く人はないんですが、そうすると仏教のほうで、法然、親鸞、伝教、日蓮、弘法……ああいう人たちが、私の孫弟子になるわけですね。だからいよいよ親父が出てきた。これはなんでも働いて、いろいろ手功をしなければならんということになるんです。そういうことについても、これからだんだん京都に地上天国でも造るようになりますと、そういう仏様たちがみんな寄ってきて、大いに私の言う通りに働くようになりますから、そうするとこっちのほうも大発展をするということですね。だから非常に期待した時期が近寄ったわけです。        

昭和二十七年六月一五日  『御教え集』九号  (8)

 この中に日本は白の色ということが書いてあるが、これはおもしろいんですよ。日本の天皇の皇の字ですね。それから、日本は「天皇」の国とか、「皇」とかいうことは、各々白の下に王と書いてありますね。日本は白の国ということは……太陽の光線の色をグルグルまわすと、白になりますね。あれと同じ理屈です。だから日本は各国の色を全部取り入れるんです。そこで日本の文化をみれば良く分かります。日本くらい各国の特徴を取り入れた国はないですからね。世界中の人種で、各国の文化を理解できるのは日本人だけだ。これは外国の識者でも、そういう説を唱えているのもあるようですがね。誓えて言えば、同じ東洋人でも、西洋音楽は日本人しか解らない。支那……中国人には解らない。勿論朝鮮人もそうです。日本だけです。それから外人……白人種のほうは、いろいろな方面にはずいぶん頭が良いんですが、日本の芸術……それは解らないですね。近ごろだいぶ歌や俳句を研究しているようですが、なかなか解らない。ところが日本人は外国の詩でも文学でも容易に理解できるんです。だから日本人くらい多方面に能力がある国民はないです。そこで日本は日の本ですね。太陽の国というのはそういうわけです。講和以前ですと、あんまりこういうことを言うと具合が悪いですが、もう言っても良いから言うんですが、そんなようなわけでメシヤ教にもそういうことが当てはまるんです。またいままでの宗教でも、メシヤ教くらい、いろんなことをやる宗教はないです。たいていいままでの宗教は、教えとか……まあ教えが根本です。美術館を造るとか、農業を改造するとか、あるいは医学を排して病気を治すとか、お祭りの余興にいろんな芸能人にいろんなことをやらせるとか、メシヤ教という名前からしてキリスト教向きであって、そうかというと観音様があったり御神体があったり、仏教的で……実に多方面にわたっているんですね。これはいまいう太陽の白の働きですね。ですから昼間の世界ということは、白の世界ですからね。それでいろいろな色を取り入れて、コントロールして白色ということになる。それで私は寸鉄に白光生という名前をつけたのはそういう意味からです。そういうことを知って日本の国をみると一番良く分かるんですね。だから日本にはいろんなものがあるんです。だから日本の思想にはアメリカの思想もあるし、ソ連の共産主義もあるし、イギリス、ドイツ……いろんな……各国の思想があります。またそういったふうの色の人間も日本人にはあります。東洋でもいろいろ……支那、朝鮮、南洋……そういうのがあります。実におもしろいんです。それで、日本にはすべてのものの種類が一番多いですからね。食物でも、日本くらい魚の種類が多い国はないそうですからね。そういうことを言うときりがないのですが、いま言ったような……日本は白ということはそういう意味です。そういうことをお話したんです。

昭和二十七年六月一五日  『御教え集』十号  (9)

 今度『結核信仰療法』ができあがったのでこれから印刷にかかります。さらにおもしろい本を書こうと思って書き始めたんですが、それは『私物語』という本です。これは、私というものはふつうの人間と違いますから、いろんな神秘なことが多いんですよ。そういうことをただ想像したりするよりか、明からさまに書いたほうが良いと思って、将来私というものを知りたいという人がたくさんできるに違いないですから、それに考えてみると釈迦、キリスト、マホメットという人は、教えだけは書いたり説いたりしましたが、どうも個人的の日常生活とか、自分の内面ですね。そういうことをほとんど言わなかったですね。あるいはあんまりなかったかもしれないですが、それでただ生き神様然としちゃって、はなはだもの足りないわけですね。私はそれとは反対に、思いきってそういった面を書いて残しておこうと思うんですよ。それが、いまの『私物語』という本なんですがね。いま書き始めたので、まだまとまっていませんし、まだ直す点もありますが、ちょっと読ませます。

昭和二十七年六月一五日  『御教え集』九号  (10)

 それから、よく熱海や箱根を見て……これはまあ、未信者の人でそうとう偉い人ですが、先生はちょうど秀吉みたいです。と、よくみんな言うんです。それで秀吉みたいな点もあるが、根本がまるっきり違う。秀吉があれだけのことをしたのは、もとはと言えば殺人強盗の大きいのと同じです。それであれだけのことをしたんです。つまりあのために人を何人殺したか分からない。ところが私は人を助けてやっているんだから、その点をみてもらわなければならない。と、こう言うんです。なるほど家康も偉いが、殺人強盗をして物にしたものを、また物にしたんだから、たしかに偉い人で功績はあるにはあったが、根本が違うからそれだけ知ってもらえば良いということをときどき言うんですが、そんなような具合でいままでの世の中は、いろいろ英雄とか偉人とかいう人は、そうとう罪を犯したんですね。そうして立派なものを作ったり、天下に覇権を握ったんです。それからいっぽう、人を助ける……救うという宗教家は、私から言うと意気地がなかったですね。なるほど教えとかそういうことは、なかなか命懸けで説いて、救おうとしたけれども、結局その時代の……時代も悪かったに違いないが……今日と違ってね。いろんな圧迫をされたり……まあ、お釈迦さんなんかは出が出ですから、それほどでもなかったが、それでも理想に偏って現実的な救いはあんまりやらなかったですね。たくさん教えを説いたり、お説教はしましたがね。例えば、病気の原因を知らせるということはなかった。なかったというよりか、病気の原因が発見できなかった。それから、農業も、芸術も……これが一番不足したと思うんです。キリスト、釈迦、マホメットでも芸術は無関心だった。で、中にはバラモン的に、そういった美なんていうのは罪悪のように思って、粗衣粗食小さな家に住むことを、かえって良いというような説き方をした者もずいぶんあった。そういうような点で歴史に残っている人としては聖徳太子だけです。もっとも、やはりああいった位の高い所から出たですから、そういう影響も多分にあったわけですね。ところが私は本当のどん底から出て、そうして美術を大いにやるんですから、この点も大いに変わっているわけですね。そういうようなわけで、これからやることも……いままでのいろんな偉い人は非常に間違っている。そういう点なんかもこれから書こうと思ってますがね。そこで、私がそんなような、美術でもなんでもやるのは、それは私がやるのではなくて、神様がちゃんとそういう案ができていて、私がやっているようだが私が指図を受けてやっているんですね。要するに神様の番頭みたいなものです。だからさっき読んだ通り、奇蹟でどんどんできていくというわけです。だからその点においては非常に楽ですね。いままで何年も苦労したようなことを、私はなんでもなくやっていくというわけですから、そういう点も、それを心得て見なければ見当がとれないというわけですね。そのくらいにして。

昭和二十七年六月一五日  『御教え集』九号  (11)

 いままで世界でいろんな大きな仕事をした……偉い人は、大ざっぱにみるとおもしろいんです。それについて、私の仕事をみる人は、よく……ちょうど秀吉と同じようですね。ということをよく言われるんです。いままでおおげさにやった人はなかったですからね。それで私はいつも言うんですよ。なるほど見ただけの目ではそう見えるかもしれないが根本が違う。つまり秀吉はなるほど偉いには偉いが、結局、あの仕事をしたのは、遠慮なく言えば大きな殺人強盗ではなかったか、つまり殺人強盗の親玉ですよ。石川五右衛門が千鳥の香炉を盗ろうとして捕まったときに秀吉が、貴様はずるい奴だ、なんて太い泥棒だ、と言うと、冗談じゃない。俺よりか太閤殿下のほうがずっと大泥棒だ。天下を盗ったじゃないかと言ったそうですが、それは決して間違っていないですね。だからいままでの英雄豪傑というのは、大量殺人……とか、人の物を盗るとか、実際殺人強盗のすこぶる大きいのですよ。だから大きいためにそれを褒められることになっちゃったんですね。また徳川家康も偉いには偉いが、結局秀吉が盗ったそれを、やっぱり自分が盗ったんですから……だから物にしたものを物にしたというわけなんだから、根本を考えてみれば、全般的には表面だけですね。ただ仕事の結果は偉いということは言えるけれども、根本はあんまり褒めるわけにはいかないんです。けれどもそれは、そういう考え方は小乗的見方なんです。大乗的に言えば、やはりその時代にそういうことをしなければいけなかったんですね。やはり神様の御経綸の一つだったんです。ですから、要するに善悪の批判はできないわけなんです。そういった、道義的に正邪善悪を正してみれば、そういう理屈になるわけですね。ですから、これは日本に限らない。外国でもそうですが、偉い事業をした人はとにかく悪でやったですね。悪の手段ですね。で、悪を用いない本当に慈悲や善で救おうとしたのが、みんな宗教家ですが、宗教家は善をすすめ悪をするなというだけの話で、仕事はしなかったですね。つまり物質面のそういうことはやらなかったですね。だから結局いくら人を救おうとしても、そういった英雄や政治のために押えつけられて、結局目的を達することができなかった。それはそうとうの功績もあげましたけれども、本当に救うことはできなかった。ただいままではそういう具合に、事業をする英雄と、そういった形のことをしないで、政治をする。そういうふうに別れ別れになっていたですね。私がこれからだんだんする仕事は両方兼ねでいるんです。いっぽうで救いながら、また仕事も大きな……いままでの英雄やなにかのやる、それ以上の形あるものをしようと思ってます。それも、別に私がやるのではなくて、神様が私を使ってやらせるんですから、自惚れることもできないですよ。明からさまに解剖してみればそんなわけですね。ですから?まり聖徳太子という人は、日本的に規模が小さくそういったことをやられたんですね。であるから、いままでの歴史をみてもこういうふうに思われるんですね。どうしても偉い人とか偉いことをするのは、善では駄目だ。善というやつは、要するに意気地なしだ。だから意気地のない奴が宗教にこもったり、宗教人になったりするということを言われますが、それも間違っちゃいないですね。どうもいままでの宗教家というものは、意気地なしの点が非常にあったですね。だから悪に負けて、どうすることもできなかったということなんです。もう一つはこういう点も大いにあるんですが、それは力ですね。いままでの宗教でいろいろ偉い人がやるのは力がなかった。譬えて言えばキリストにしろ釈迦にしろ病気を治すことは……キリスト自身はちょっとはやりましたが、弟子にやらせるということができなかったばかりでなく、病気というものを知らなかったんですよ。だからお釈迦さんなんかは、ぜんぜんいまのお医者さんと同じで、病気は薬で治せと、『薬草彙本』なんてお経を説いたんです。ですから病気は浄化作用ということは、ぜんぜん知らなかったんです。そうしてみると本当に救いということはできなかった。できなかったから悪人に負けたんですね。というのは、それだけの力を与えられていなかった。結局悪人に頭を下げさせるのは病気です。どんなに力のある悪人でも病気にはかなわないですよ。いくらいばっても病気だけはしようがないですよ。ですから結局病気を治すということは、悪に勝るわけですね。ですから私の仕事で、病気を治すということが根本です。それで、あとの貧乏とか争いとかいうのは、その枝葉というくらいのものです。話はそのくらいで。

昭和二十七年六月一五日  『御教え集』十号  (12)

 今度『結核信仰療法』ができあがったのでこれから印刷にかかります。さらにおもしろい本を書こうと思って書き始めたんですが、それは『私物語』という本です。これは、私というものはふつうの人間と違いますから、いろんな神秘なことが多いんですよ。そういうことをただ想像したりするよりか、明からさまに書いたほうが良いと思って、将来私というものを知りたいという人がたくさんできるに違いないですから、それに考えてみると釈迦、キリスト、マホメットという人は、教えだけは書いたり説いたりしましたが、どうも個人的の日常生活とか、自分の内面ですね。そういうことをほとんど言わなかったですね。あるいはあんまりなかったかもしれないですが、それでただ生き神様然としちゃって、はなはだもの足りないわけですね。私はそれとは反対に、思いきってそういった面を書いて残しておこうと思うんですよ。それが、いまの『私物語』という本なんですがね。いま書き始めたので、まだまとまっていませんし、まだ直す点もありますが、ちょっと読ませます。

昭和二十七年六月一五日  『御教え集』九号  (13)

 それから、よく熱海や箱根を見て……これはまあ、未信者の人でそうとう偉い人ですが、先生はちょうど秀吉みたいです。と、よくみんな言うんです。それで秀吉みたいな点もあるが、根本がまるっきり違う。秀吉があれだけのことをしたのは、もとはと言えば殺人強盗の大きいのと同じです。それであれだけのことをしたんです。つまりあのために人を何人殺したか分からない。ところが私は人を助けてやっているんだから、その点をみてもらわなければならない。と、こう言うんです。なるほど家康も偉いが、殺人強盗をして物にしたものを、また物にしたんだから、たしかに偉い人で功績はあるにはあったが、根本が違うからそれだけ知ってもらえば良いということをときどき言うんですが、そんなような具合でいままでの世の中は、いろいろ英雄とか偉人とかいう人は、そうとう罪を犯したんですね。そうして立派なものを作ったり、天下に覇権を握ったんです。それからいっぽう、人を助ける……救うという宗教家は、私から言うと意気地がなかったですね。なるほど教えとかそういうことは、なかなか命懸けで説いて、救おうとしたけれども、結局その時代の……時代も悪かったに違いないが……今日と違ってね。いろんな圧迫をされたり……まあ、お釈迦さんなんかは出が出ですから、それほどでもなかったが、それでも理想に偏って現実的な救いはあんまりやらなかったですね。たくさん教えを説いたり、お説教はしましたがね。例えば、病気の原因を知らせるということはなかった。なかったというよりか、病気の原因が発見できなかった。それから、農業も、芸術も……これが一番不足したと思うんです。キリスト、釈迦、マホメットでも芸術は無関心だった。で、中にはバラモン的に、そういった美なんていうのは罪悪のように思って、粗衣粗食小さな家に住むことを、かえって良いというような説き方をした者もずいぶんあった。そういうような点で歴史に残っている人としては聖徳太子だけです。もっとも、やはりああいった位の高い所から出たですから、そういう影響も多分にあったわけですね。ところが私は本当のどん底から出て、そうして美術を大いにやるんですから、この点も大いに変わっているわけですね。そういうようなわけで、これからやることも……いままでのいろんな偉い人は非常に間違っている。そういう点なんかもこれから書こうと思ってますがね。そこで、私がそんなような、美術でもなんでもやるのは、それは私がやるのではなくて、神様がちゃんとそういう案ができていて、私がやっているようだが私が指図を受けてやっているんですね。要するに神様の番頭みたいなものです。だからさっき読んだ通り、奇蹟でどんどんできていくというわけです。だからその点においては非常に楽ですね。いままで何年も苦労したようなことを、私はなんでもなくやっていくというわけですから、そういう点も、それを心得て見なければ見当がとれないというわけですね。そのくらいにして。

昭和二七年六月一五日 『御教え集』十号 (14)

 いままで世界でいろんな大きな仕事をした……偉い人は、大ざっぱにみるとおもしろいんです。それについて、私の仕事をみる人は、よく……ちょうど秀吉と同じようですね。ということをよく言われるんです。いままでおおげさにやった人はなかったですからね。それで私はいつも言うんですよ。なるほど見ただけの目ではそう見えるかもしれないが根本が違う。つまり秀吉はなるほど偉いには偉いが、結局、あの仕事をしたのは、遠慮なく言えば大きな殺人強盗ではなかったか、つまり殺人強盗の親玉ですよ。石川五右衛門が千鳥の香炉を盗ろうとして捕まったときに秀吉が、貴様はずるい奴だ、なんて太い泥棒だ、と言うと、冗談じゃない。俺よりか太閤殿下のほうがずっと大泥棒だ。天下を盗ったじゃないかと言ったそうですが、それは決して間違っていないですね。だからいままでの英雄豪傑というのは、大量殺人……とか、人の物を盗るとか、実際殺人強盗のすこぶる大きいのですよ。だから大きいためにそれを褒められることになっちゃったんですね。また徳川家康も偉いには偉いが、結局秀吉が盗ったそれを、やっぱり自分が盗ったんですから……だから物にしたものを物にしたというわけなんだから、根本を考えてみれば、全般的には表面だけですね。ただ仕事の結果は偉いということは言えるけれども、根本はあんまり褒めるわけにはいかないんです。けれどもそれは、そういう考え方は小乗的見方なんです。大乗的に言えば、やはりその時代にそういうことをしなければいけなかったんですね。やはり神様の御経綸の一つだったんです。ですから、要するに善悪の批判はできないわけなんです。そういった、道義的に正邪善悪を正してみれば、そういう理屈になるわけですね。ですから、これは日本に限らない。外国でもそうですが、偉い事業をした人はとにかく悪でやったですね。悪の手段ですね。で、悪を用いない本当に慈悲や善で救おうとしたのが、みんな宗教家ですが、宗教家は善をすすめ悪をするなというだけの話で、仕事はしなかったですね。つまり物質面のそういうことはやらなかったですね。だから結局いくら人を救おうとしても、そういった英雄や政治のために押えつけられて、結局目的を達することができなかった。それはそうとうの功績もあげましたけれども、本当に救うことはできなかった。ただいままではそういう具合に、事業をする英雄と、そういった形のことをしないで、政治をする。そういうふうに別れ別れになっていたですね。私がこれからだんだんする仕事は両方兼ねでいるんです。いっぽうで救いながら、また仕事も大きな……いままでの英雄やなにかのやる、それ以上の形あるものをしようと思ってます。それも、別に私がやるのではなくて、神様が私を使ってやらせるんですから、自惚れることもできないですよ。明からさまに解剖してみればそんなわけですね。ですからつまり聖徳太子という人は、日本的に規模が小さくそういったことをやられたんですね。であるから、いままでの歴史をみてもこういうふうに思われるんですね。どうしても偉い人とか偉いことをするのは、善では駄目だ。善というやつは、要するに意気地なしだ。だから意気地のない奴が宗教にこもったり、宗教人になったりするということを言われますが、それも間違っちゃいないですね。どうもいままでの宗教家というものは、意気地なしの点が非常にあったですね。だから悪に負けて、どうすることもできなかったということなんです。もう一つはこういう点も大いにあるんですが、それは力ですね。いままでの宗教でいろいろ偉い人がやるのは力がなかった。譬えて言えばキリストにしろ釈迦にしろ病気を治すことは……キリスト自身はちょっとはやりましたが、弟子にやらせるということができなかったばかりでなく、病気というものを知らなかったんですよ。だからお釈迦さんなんかは、ぜんぜんいまのお医者さんと同じで、病気は薬で治せと、『薬草彙本』なんてお経を説いたんです。ですから病気は浄化作用ということは、ぜんぜん知らなかったんです。そうしてみると本当に救いということはできなかった。できなかったから悪人に負けたんですね。というのは、それだけの力を与えられていなかった。結局悪人に頭を下げさせるのは病気です。どんなに力のある悪人でも病気にはかなわないですよ。いくらいばっても病気だけはしようがないですよ。ですから結局病気を治すということは、悪に勝るわけですね。ですから私の仕事で、病気を治すということが根本です。それで、あとの貧乏とか争いとかいうのは、その枝葉というくらいのものです。話はそのくらいで。