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昭和二十七年十二月一日 垂録16 (9)

【 明主様 】 だから私は今度の京都の美術館は、京都のお寺と提携して、仏像を並べようと思ってます。本尊は残して、それ以外は全部借りて並べようと思ってます。というのは、仏像というのは美術品と思っているからです。拝むものではなく、見るものです。そういった歴史的芸術的の価値なのです。仏教のほうで聞くと怒るでしょうが、キリスト教でもそうです。いままではあれで良いが、これからは駄目です。とにかくキリスト教が共産主義をやっつけるくらいの力があれば良いが、キリスト教のほうがやっつけられているのです。いまはキリストよりもレーニンのほうが本当に人を動かす力があるから、それではしようがないのです。だからメシヤ教は、いまにレーニンでもスターリンでもやっつけます。これは私がやっているのではなく、神様がやっているのです。実際馬鹿げた話です。それでこの間「平和主義を考えてみる」というのを書きました。私はときどきユネスコを奨められるのですが、スターリンをユネスコに入れなければと言うのです。とにかく世界の平和というものは、スターリンが手を合わせて神様を拝まなければならないのです。それ以外に世界平和は絶対にありません。世界中が第三次戦争が起りやしないかという脅威はスターリンです。クレムリンをそのままにしておいて、ほかだけ平和運動をしても、なんにもなりません。それで武器によって平和を維持するのは一時的で、これもしかたはないが永遠性はないのです。第一こっちがそうすればソ連のほうも軍備を充実する。そのために無益な金を使うから、それで不景気になるとか苦しむのです。だから結局スターリンをメシヤ教信者にするということが一番良いのです。それ以外のことは一時の間に合わせです。この間も話したことがあるが、とにかく共産主義の学説を破るだけの学説が出れば良いのです。それでなければ宗教です。それは共産主義の学説は実に良くできているのです。私でも神様ということを知らなければ、共産主義のほうに行きます。だから青年が学問をすると、あれにはまり込むというのも無理はありません。

昭和二十七年一月五日 教集06 (1)

御教え 今日は割に新しい信者さんが多いようですから、そういった話をしようと思ってます……メシヤ教というのは、単に宗教とは言えないんですね。宗教よりも、ずっと大きなものです。つまり、宗教はメシヤ教の一部にあるわけですね。だから、いままでの宗教でも、こういうふうに、病気を良く治すとか、病理を説くということはなかったですね。それは、仏教でもキリスト教でも、どういうわけで病気が起るとか、あるいはどうすれば治るとかいう説明は、『バイブル』にもお経にもないですよ。それから農作物も、無肥料にするほうが良くできる、つまり自然栽培ですね……ああいうことを説いた宗教家もなかったですね。それから美術館を造るなどというのは、ぜんぜんこれもなかったですね。そういうような具合に、宗教というものは、まず心を治すんですね。心の教えですね。そこで、結局お説教が主で、それによって精神的に救って、良い世の中を作るというのが根本だったんです。ですから病気でも、病気を治すことはできないが、病気は治らないでも苦しみながら心で諦めろと説いたんですね。キリスト教でも、御自分のほうで病院を作りながらやっているんですから、はなはだ不徹底きわまるものです。私のほうでは、そんな諦めろというようなことは言わないで、かえって諦めるなと言うんですね。そのために、他の宗教では、疑ぐってはいけない、信じろ。と言うんですが、私のほうでは、大いに疑え、信ずるな。と言うんですからたいへんな違いです。その違いさですね。それをまず、一番認識しなければいけないです。そうして、キリスト教でも仏教でも、いまに天国の世の中が来る。極楽浄土が来ると言っているんですが、私のほうでは、もう来た。来るんでなく、来た。俺のほうで造るんだと言うんですから、その違いさも、またたいへんなものです。ですから、いろいろなことをしゃべるばかりでないですね。実行するんです。どんな病気でも治し、米の増産もするし、あらゆる文化の間違いを指摘して、本当の文化というものは、こういうものだということを教えるという……一口に言えば、本当の救いですね……宗教じゃない。宗教は救いの一部ですね。そこで、その力強さ……力の大きさですね。その違いさというのは、たいへんなものです。ところが、それを……なるほどそれに違いないと信じさせるのが、なかなかたいへんなんです。信仰に入った人は、迷わずにずっとやっていれば、だんだん解ってきますから良いんですけれども、たまには迷う人もないことはないんですね。やはり、いろんな世間の噂とか、インテリ的の偉い人が、迷信だとかインチキ宗教だとか迷わせるようなことを言いますからね。というのは、いままでこういうような宗教というのは、出たことがないんですからね。だから、これを本当に解るまでにはそうとう時間もかかるし、努力もいるんですね。で、ある程度まで解ってしまえば、もう盤石のように固くなりますが、それまでですね。それまでは知るほうも必要だし……しかし、こっちのほうは理屈ばかりでない。事実に現わすんですから、その力というのはたいへんなものです。

昭和二十七年一月六日 教集06 (2)

 それから一、二、三は……正月になってからの日のことですがね。教師とか……そういう資格者が多い話ですが ……五、六、七は割合新しい人が多いと言うので、その意味のお話をしようと思ってます。メシヤ教というのは、本当言うと宗教じゃないんです。宗教じゃ、ないんでなくて、宗教はメシヤ教の一部になってますね。というのは、いままでの宗教というのは、教えですね。宗の字というのは、つまり祖先とか先祖とか、またその家の総領とか、つまり中心とか、よく宗家とか宗匠とかいうような意味で、とにかく古い、大きな、支配者的なものですね。そんなような具合の、その教えですね。それが宗教ですからね。教えだからして、どうしてもお説教になるんです。仏教でも、キリスト教でも、だいたいお説教が中心になっている。お説教が主になっている。ただ、メシヤ教は病気を治す。病気を治すと言うと、いま言う教えじゃないんだからね。これは救いなんだからね。それから自然栽培で食糧問題を解決する。それから、美術を奨励するために、美術館を造る。まだいろいろあります。

昭和二十七年三月二十日 『御教え集』七号  (4)

 それで、今度アメリカからの通信によると、アメリカでは現在カトリック教ですね。あれが七割だそうですね。プロテスタントが三割……そんな割合だそうです。ただ、始末の良いことは、アメリカ人は全部信仰心があるそうです。日本人と違って、神がないと言う……そんなことはないそうですね。ただ、アメリカ人の神様はキリストですが、ただそんな点は非常に始末が良いそうです。無神論はないんです。全部有神論ですからね。ただ、カトリックが勢力を得ている。カトリックは非常に固いんです。カンカンです。で、カトリックは立派な病院を作っているんです。まあ、医学一点張りでやっているんです。いずれ、これを崩さなければならないんですが、たいへんな仕事です。けれども、時期が来れば、なんでもないんですよ、みんな頭を下げますからね。ただ、時期がそうとう間があります。それは神様のほうじゃ予定してますからね。そんなような状態で、宗教が病院を経営するということは、良いことと思っているんですね。それで、こんな論文を書いたんですが……先にも書いたことがありますが、とにかく宗教で病院をやるとすれば、俺のほうは、神の力じゃ病気が治らないということを表白しているので、本当から言うとおかしなものです。その宗教じゃ病気が治らないということを表白しているので、そこに気がつかないので、気がつかないということは、気をつかせる人がなかったんですね。気をつかせる人がなかったということは、宗教で病気を治すということがなかったからで、そういうことを言えるのはメシヤ教以外に、まあないと言っても良いですね。

昭和二十七年三月二十日 『御教え集』七号  (9)

 それから、これはどなたも経験があることですけれども、信仰を人に奨めたり、いろいろしても、なかなか解ってくれない。それから、支部の人やなにかでも、もっと発展しそうなものだが、発展しそうでしないという人なんか、よくあるんです。そこで急って、いろいろ……落ちついていないで、積極的にやりすぎるんですね。これは、肝腎なことを忘れるわけなんです。それは、昔からいろんな宗教やなにかは、ほとんど宗教の歴史と言えば、苦しみの歴史ですからね。特にキリスト教なんか、ひどいですがね。殉教者という言葉があるくらいでね。苦しみ抜いて、そこに植えつける、とね。キリスト教なんか、よくありますがね。アフリカの蕃地なんかに、命懸けで行って、そこに信仰を植えつける。まあ結構なことには違いないですがね。けれども、そのために非常な苦しみをして、結局犠牲になっちゃうんですね。そういうことが宗教を発展させるという上において、必要であるというような頭がだれにもあるんですよ。そこで、メシヤ教信者になっても、やはり苦心惨憺して、そうとうな苦しみをしなければならん。というために無理をするんですね。無理をするから、ますます苦しくなる。それで、あんがい発展していかないんです。その点なんだと言うと、いままでは夜の世界だったですから、夜の世界というのは、地獄の世界ですからね。そこで、信仰でも……つまり地獄的信仰ですね。この間の新聞にも出てましたが、立正佼成会なんてね。子供が死んだ、そうすると今度また、名前が悪いから、何年何月に死ぬということで、嚇されて、それが恐ろしいんで、親子心中したということになってますが、実際はどうだか、あれほどじゃないと思いますがね。と言うのは、当局の新宗教に対する疑いや、新聞のデマですね。ああいうことは、私などは経験してますから、あれを丸呑みにはできないんです。あれほどではないと思います。しかし、ぜんぜん形はないことはないと思いますね。それの起りというのは、ラジオの「社会の窓」ですかね。あれから始まったんですからね。けれども、あれはだいたい、日蓮宗から出ている霊友会から、また別れたんだそうですからね。ところが、ああいう信仰のやり方をみますと、やっぱり苦しみ信仰ですね。地獄的信仰のやり方ですね。それだから結局問題は起りやすいんです。メシヤ教で問題……まあ、私の問題ですがね。新聞やなにかの問題は二度ありましたがね。最初のは脱税問題ですね。その次のは贈賄問題ですね。脱税のときに、税金を軽くしようとして、そうして賄賂を使った。そういう疑いの問題です。ですから、宗教上の問題ではないんです。と言うのは、そういった地獄的のことはやらないですからね。そこでいま話したような、苦しんで発展させようということはいけないんです。メシヤ教では……それをいけないと言うのは、夜の世界の信仰ですからね。メシヤ教のほうは、昼の世界の信仰です。天国を造る宗教です。いままでの宗教で、天国を造ると言った宗教はないんです。来るということは言ったが、造るということは言わなかった。時期が早かった。ところが今度はいよいよ昼間になるんですから、今度は造るんですね。そうすると、天国を造るには、まず一番の元は御自分ですよ。自分が天国にならなければならない。けれども、自分の境遇や家庭を、急に天国にすることはできない。だから、その因である自分の心ですね。心を天国にする。そうすれば、一家が天国になり、一国が天国になり、世界が天国になるんですから、まずなんといっても心を天国にする。そうすると、いろいろなことで苦しむということは天国ではない。一番解りやすいことは、病人なら病人を浄霊に行く。そうすると非常に愉快な楽しい家と、なんだか気の向かないが、嫌々ながら行く家と両方ありますね。そうすると、なんだか気の向かないというのは地獄ですから、本当は避けられれば避けたほうが良いんです。楽しいというのは、良いし、そういう病人は治りが良いんです。発展するんです。けれども、全部が全部そうばかりはいかないですがね。それではまるで、わがまま坊ちゃんみたいでね。そうばかりもいかないが、原則として、そこに重点を置く。神様もそれが思し召しですがね。それが、天国的信仰と地獄的信仰です。そういうことは、神様にお任せすると良い。どこまでも人間の力でやろうということがいけない。ところがいままでいろんな……習慣やそういうような一つの思想を植えつけられてあるので、ともすればそういう心が起りやすい。で、自分で目的を立てて、それを実現しようとして骨を折るんですが……それは人間は目的なしでやることはできないから、良いですが……どこまでも進むから、そこで無理になる。無理になるから、そこで、逆結果になる。その点を良く心得ておけば、かえって楽にうまくいくんですね。私なんかは、最初はそうでなかったが、そのことが解ってから、そうやってますが、少しやってみて、思うようにいかないと、神様に任せておく。忘れるようにする。そうすると、忘れた時分にヒョッとうまくいく。ということがよくあるですね。信仰でも、地獄的信仰、天国的信仰と、こうあるんです。いままでの信仰は全部地獄的信仰です。で、メシヤ教で初めて天国的信仰という信仰が生まれたんですね。その点の区別ですね。それをよく知らなければならないですね。だから、こんな楽なことはないんです。楽にやるほど成績は良いんですからね。

昭和二十七年三月二十日 『御教え集』七号  (12)

これはなんでもそうです。いま、食えない奴ができる、税金で苦しむ、ということを言っても、まじめで働いていれば困ることはないんだから、貧乏で困るのはないんです。ただ、困るのは病気です。病気で金を使う。だから健康になれば、これは解決するんです。だから根本の、因を解決するんです。しかしいまは、根本というのは解決できないんです。根本をはっきり解っても、どうすることもできないですね。いまも言った通り、結核菌……それを殺すということのみ医学は研究しているんです。そこでいま、私は書いているように……「○ヽの文化」というのを書いているんですが、いままでは丸ですね。ポチ……これが元なんです。というのは、いままでの世界は○ヽの力が出なかった。つまり主神は……人間で言えば親父が出なかった。番頭なんです。だからいままでの神様は、神様の番頭なんです。キリストだって釈迦だって、番頭なんです。キリストは天の父と言う。天の父というのは主神ですからね。だから肝腎の中心は、みんな隠されている。丸だけしか見えないし、それだけしか解らなかった。で、メシヤ教というのは、主神の力ということがあるんです。ポチですね。だから、あらゆる人間の災い……その根本を解決していく力……その点がはっきり解ればだいたい解るんです。病気の原因も……結核菌の発生するということは、霊の曇りですから、霊の曇りを取れば、結核菌の因がないから、あと発生しない。というのは、あと発生しなければ、だんだんなくなっていくんです。人間に寿命があるように結核菌にも寿命があるんです。.だから、だんだんなくなっていくんです。古いやつはだんだん死んでいくんです。ところが後々できていくんです。子が生まれて、後々繁殖するように見えるので、医学は間違えたんです。で、菌を本当に殺すことができるような薬なら、人間も殺すんです。飲薬なら、胃に入りますね。胃から腸にいって、それがいろいろな消化機能の活動で、薬はほうぼうにいくですね。身体中にいくとすれば、その時分には、殺菌の力はなくなってます。また注射すると、血管をグルグルまわって心臓にいって、肺の黴菌の所までいくうちに、もう気が抜けちゃっているんです。本当に殺菌するなら……肺なら肺にやればそれは死にます。グルグルまわってもまだ殺菌する力があれば……毒の強いやつだと、それは人間の命がないです。だから、結核を殺すように、人間を殺すことになる。そうすれば徹底してますよ。それを一生懸命にやっているんですから、哀れなものですね。

昭和二十七年三月二十日 『御教え集』七号  (18)

 それで、今度熱海のほうを少し話しますけれども、これはどなたもチョイチョイ見られるでしょうが、ツツジ山ですね。そういう所も最初は小さくするつもりだったのが、どうもおもしろくないので、だんだん大きくした。山の形状やなにかも、植木屋やなにかも、あんなものをこしらえたことがないからね。うっかりすると、自分の思い通りにすると、私の考えに違うことがある。で、私が直させて山の高さ、ふくらみ、周囲ですね。それを直させたり変えたりしてやっていたところが、やっと形だけはできあがりましたがね。最初は二〇〇〇本植えるつもりだったが、二〇〇〇本じゃとても足りない。それで、六〇〇本植えた。ところがそれでも足りない。今度は一〇〇〇本買いましたがね。三六〇〇本ですがね。そうするとミロクになるんですよ。一山にツツジを三六〇〇本なんていうのは、断然日本一ですね。他にありゃしないですね。これは二、三年経つと、すっかり土が見えなくなりますからね。それから花が咲いたらすばらしいものですね。日本中の一つの評判になりますね。そうしてその上に展望台も造りますけれどもね。展望台は最初半円形にするつもりだったんですが、土地が最初の予定より拡がりましたから、半円形より、小判を切ったような形になります。展望台が拡くなければね。そうして、硝子も曲線硝子……いま硝子を曲線にするのは、わけなくできるんですからね。ですから、曲線硝子にして、細い金で継ぎ合わせてやるつもりです。ニッケルのような……ジュラルミンですね。ああいうもので、繋ごうと思う。これもずいぶんいろいろ研究したんですが、最初……もし風のために割れたりするといけないと言うんで、幅三尺のつもりでしたが、考えてみると、風がいくら当たっても、滑っちゃうと思うんです。平たいからね。六尺くらいにするつもりです。硝子工業というのは非常に発達して、いま硝子は長さ三〇間までできるんですからね。これは、最近ロンドンのデパートで、なんでも三〇間……じやないが、十何間という一枚硝子でやったデパートのショーウインドウができたそうですがね。そんなような具合で硝子でして、天井は真っ平らで、下を赤い絨毯で敷きつめちゃおうと思う。まわりが青い所に赤いのでね。そこから二、三間離れて……線をコンクリートで作って……四季の草花を作ろうと思う。それが展望台です。その四季の草花の先にツツジがいくんです。ツツジも低く刈り込ませる。そうして、会館も、だいたいこの間技師に図面を引かせたところが、私の言った通り引かないので、どうもああいった商売人は、素人がなに言うかという具合で、決してこっちの言う通りやらないものですよ。それがあたりまえでしょうがね。素人というのが変わっているのかもしれないがね。で、私が……向こうが商売人というが、こっちも商売人だと言った。私が説明しても分からないんですよ。終いに先生のほうで画いてくださいませんかと言う。じゃよろしいというので、他の製図屋を呼んで画かせた。製図屋はお気に入るまで何回でもやりますと言うので、思うようにできると思いますがね。ところが建築屋のほうでは、いまほうぼうでやっているのしか頭がないんですね。そんなわけで、間口二一間、奥行三〇間の六三〇坪ですがね。ちょうど……椅子で計ってみると二〇〇〇人入って、そのまわりに立たせると一〇〇〇人入って、三〇〇〇人は入りますね。それからお祭りで多いときは、まわりの敲の所……そこにぐるっと立たせると、二〇〇〇人は立ちますから、五〇〇〇人は収容できますね。その代わり外側は六尺幅にして、前の方は三間ですがね。横のほうは一間のコンクリートの廊下……回廊ですね。外側の廊下です。そこに、雨でも降ったときに濡れるから、三尺出した。つまり九尺の廂を作るつもりですがね。硝子の廂です。硝子が結局五一間です。網硝子ですね。真ん中の玄関のほうは、今度図面ができたら良く解りますがね。ただ話だけじゃ、ちょっと解らない。ですから、雨が降っても、そのまわりは濡れないようになりますからね。鉄の丸い細い柱で、それを支えようと思ってね。中なんかもなかなか難しいんですよ。というのは、劇場じゃない。舞台を作ると劇場らしくなる。宗教的なものですからね。そうかといって、キリストの教会堂のようでもおもしろくない。勿論、寺院ではないしね。そこで私は古い所を取って、ごく新しくしようと思ってますからね。ですから、新しい形式を作るようなものですからね。中の天井なんかもいろいろ考えて、だいたい案はできましたがね。こっちは余興の舞台にも使うんですからね。舞台であり、神床ですね。ふだんは拝むんですね。それがすむと舞台になるんですからね。そこのところの調和が、よほどうまくやらなければならない。そうかというと、下のほうはオーケストラがやる。オーケストラは六〇人用意しますけれどもね。歌はヘンデルの「救世主」をやるつもりですからね。あれは、メシヤ教のためにヘンデルが作ってあったんです。ですから、あれは「救世主」と言うんですね。ですから、こっちがあれを使わなければいけないんですよ。ですからいまあれをやっているのは、こっちで貸してあるようなものです。まあ、神様が稽古させてあるんですね。だいたいそんなような具合で、その展望台の後ろにすぐくっついて、いろいろな部屋を作るつもりで、それはいろんな……みんなの会議室だとか、いろいろ……お祭りのときの仕度部屋だとか、余興のときの芸能人の仕度する所とか作って、二階に小さい展望台を造る。お供えみたいになるですね。そこは、私が行ったときの休憩所になる。そこから会館までトンネルになる。外からぜんぜん見えないで行ける。そうすれば、信者さんと一緒に行かないことになるし、天気の悪いときでも平気ですしね。約四〇間以上ですね。あの地形がまたうまくできているんですよ。とても……やっぱり神様ですね。巧妙にちゃんと用意してあるんですよ。まだ、いろいろな話はあります。美術館の話もしたいが、時間があまりないですから、このくらいにしておきますが、というのは、お祭り中は浄霊はしないつもりだったんですが、昨日ぜひしてもらいたいと、当てにしている人がたくさんあるというので、じゃしかたがないので……どうも頼まれれば嫌ということは言えない性分ですからね。やっぱり、神様の慈悲ということもありますし、江戸っ子の義侠心と言うか。そんなものでね。ですから、これから浄霊しますからね。

昭和二十七年五月一五日  『御教え集』九号  (1)

 そこで、私の神様……と言うのは変ですが、はっきり言ってみると、いままでの教祖とか、そういう人たちと違うんですよ。違うということは、位が違うんです。仮にキリストにしろ、天の父の思し召しによって、自分は生まれたとか、あるいはエホバがこう言われたとか、そういうことをよく言われてますね。それから天理教祖とか大本教祖にしろ、神様はこうおっしゃったとか、ああおっしゃったとか、よく言うんです。そして、そういう神様を始終拝むんですよ。私は拝まないんです。というのは、私の腹におられる神様は……私が言ったりしたりすることは、神様が直接するんですから私が拝むことはない。それから、拝むという必要はないんです。私のお腹の中におられる神様は最高の神様ですから、拝まれるのはあたりまえですが、こっちで拝む神様はないんです。みんな下の神様ですから、私の思うままにやっていれば、それが最高の神様がやられているんですから、そこで私は、神懸り的な……私が御神体に向かって礼拝しないと言うのは、そういう意味なんです。これはいままでの宗教には一つもないんです。それは、釈迦でもキリストでもマホメットでも、やはり神様を拝んで、お指図仰いだり、いろいろするんですが、私はそういう必要はないですから、それだけに力も……まあ字を書いても、その字が働くというようなわけでね。これは本当言うと、字を書く前に羽織、袴で祝詞を奏げて、神様にお願いして、そうしてやるものです。それは、いままでどこの宗教の教祖にしろ、いろいろな……お守りなど作る場合も、そうしているんです。私は、裸でアグラかいて書くこともあるし……それで良いんだから、別に面倒なことを言わなくてもね。そういうことを知ってもらえば良いんですね。だから、他に神懸りなど出ても、問題にはならないわけですね。こういうことは、いままであまり言いたくなかったから言わなかったんですが、そうでないと、他の神懸りをたいそうありがたく思いますから、それでお話するわけです。

昭和二十七年五月一五日  『御教え集』九号  (2)

 もう一つ譬えて言えば、信者の人でいろんな奇蹟をやりますが、奇蹟も、やっぱりキリストがやったくらいの奇蹟は毎日やってますからね。これは、時間があったら読もうと思ったが、時間がないから止したんですが、キリストの奇蹟以上の奇蹟ですよ。これはぜんぜん理屈がつかないほどの奇蹟です。

 それから、原子爆弾で助かったお蔭話ですね。これも、七つばかり来ましたからね。私は、それを発表するように言ってあるんです。これも、今度良く説明をつけて、この次あたりに読ませますがね。そんなわけで、私の弟子がキリストくらいの奇蹟をすれば、やはりキリストも私の弟子になるんです。それをはっきり分かっていなければ、キリスト教信者なんか誤解します。というのは、もう一つ言っておくことは、キリストは贖罪主なんです。贖罪主というのは、一つの会社なら専務ですね。専務みたいなものです。もし会社でいろんな過ちがあったりしますと、専務が代表者になって、許してくれと言って社長にお詫びします。贖罪主というのは、そういうものです。万民の罪を御自分が負って、万民になり代わって十字架にかかる。贖罪主とは別に、社長……すなわち、よし許すと言う、許し主がなくてはならない。私は許し主なんです。ですから、そういう点は非常に……主人と家来ほど違うんですね。こういうことも、いままでも言いたかったんですが、あまりかけ離れているから、誤解されますので言わなかった。明主様は、誇大妄想的な脱線だ。と、未信者は言いますから、言わなかったんですが、もうソロソロ言っても良い時期になったので、言ったんですがね。そういうことも知ると、よけいいろんなことがはっきり分かるわけですね。そのくらいにしておきます。