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昭和二十七年七月一日 垂録11 (18)

〔 質問者 〕キリスト教徒の人が御守り、御神体をいただきたいと言いますが、差し支えございませんので。

【 明主様 】良いですよ。キリストだってこっちの部下です。

昭和二十七年八月一日 垂録12 (1)

ようにして、そうして弱らせるようにしたということを書いてます。で、キリストの言った「禁断の木の実」は薬のことです。禁断の木の実をもって悪を発生したということが『バイブル』にある。で、薬によって悪を発生したのです。ですから禁断の木の実は悪なのです。もうその時分に、神様はちゃんと知らせてあるのです。だから、人間から悪をなくするには、薬をなくす……悪の発生は薬によるのです。つまり薬毒は霊を曇らせるから、霊が曇るから動物霊が人間を自由にする。こういうわけなのです。悪が必要だったのですから、神様はうまいことをやったのです。神様が人間を瞞した……だから、神様が瞞すのだから上手いに違いない。私は、神様はいままで人間を瞞したのだ、本当はこうだということを書くのです。そういう悪は不必要だ。だからして悪をなくさなければ本当に幸福な世の中はできないということを知らせる。ということは、そうするとつまり悪というものは、神様に瞞されてできたものだということは、いままでは知らせてはまずいからで、そこで今度は悪の必要がなくなった、悪があってはかえっていけないという時期になって、初めて知らせるのです。だからいままで、善悪一致だなんて言ったが、それは真理だったのです。そういうことをいますっかり書いています。私も驚いたのですが、書きかけるとドンドン出てくる。共産主義もいろいろ騒いでいるが、共産主義の根本は悪だから、悪がもう少し必要だから、それで共産主義に走っている。しかしもう長いことはない。共産主義というものはもう数年くらいのものです。

 今度の『文明の創造』はつまりエホバの『聖書』なのです。キリストが作ったのは、自分は天の父の子であるとして『バイブル』を書いた。だからその『聖書』というのは伜の『バイブル』です。今度は親父の『バイブル』です。だから伜だからして善性だけだった。そこで悪のほうが解らなかった。親父のほうは善と悪と両方作ってあるから、そこでその関係がすっかり分かるわけです。で、親父が悪を作ったのですが、悪があんまりのさばりすぎるから、少し……ある程度にしておかなくてはいけないというので、それで、伜の……キリストを出して、それで悪ののさばりを防いだわけです。それがキリスト教です。それから娘のほうを……お釈迦さんは娘のほうみたいですが、それを出して、悪のために非常に苦しむから大いに慈悲を施すということをして、人間を慰められたわけです。しかし悪をなくすることはできない。どうしてもある程度文化を発達させなければならないから……。だから『聖書』のほうは、なにをする勿れという非常に厳しい正義を説いている。キリストの内部を説くというと、結局修道院に入るよりしようがなくなる。キリスト〔教〕のごく徹底した人は非常に……清教徒といって禁欲一点張りです。キリストがそういう……まあキリストの性格です。それでああいうふうになったわけです。ところが仏教のほうの難行苦行というのはキリスト教のほうとはまるっきり違うのです。禁欲主義というのは、あれは先にも書いた通り仏教の建前ではなかった。難行苦行するのはバラモン教のほうです。バラモン教によって、いろんな神通力やそういったことを……そういう一つの能力を生んだ。

昭和二十七年八月一日 垂録12 (2)

 いましがたラジオで聞いたが、今度英国の学者がみんな寄って一人のインド人を試験した。そのインド人は目隠しして町中を自転車に乗ってまわったというので、そこでそんなことはないというので学者が大勢寄って、目にゴムみたいな物を当てて、その上にセメントかなにか塗って、その上に布かなにかで絶対に見えないようにした。そうすると少しの間坐っていたけれども、間もなく室内を歩き始めて、ドアを開けてドンドン行く、そうして門の所にある自転車に乗って町の中をドンドン一〇分間まわって、そうして帰ってきた。それが科学ではどうしても解らないというのです。そのインド人はまだ若いらしいようだが、聞いてみると、生まれてからそういった目の作用がふつうとは違っていた。ところが自分はインドのバラモンの行者で……なんとかいう行者の名前で……そこに行って十年間とか十何年間とか修行してそういうふうになったということを言っている。それはバラモンの行者から修行受けると、そういうふうになるわけです。いろんな能力があるわけです。しかし、その修行というのは、断食したり山に篭もったりして、いろいろやるわけです。これはキリスト教のほうでいう禁欲生活とは根本的に違うわけです。仏教のほうはそういう点はよほどゆるやかなのです。そこでお釈迦さんは「嘘も方便」と言って、ある場合には嘘を吐いても良いと言うが、キリスト教のほうでは絶対にそういうことはならんと言う。だいたい釈迦、キリストなんていうのは、そんなような性質だということを話したわけです。そこでメシヤ教のほうは、そういう意味のことをみんな包含しているのです。そうしてその中心の柱というものが真理なのです。それは、人間なら骨です。メシヤ教が骨とすると、キリスト教なんか筋みたいなものです。そうして仏教が肉と皮膚みたいなものです。それに、いままでは夜の世界であったから、それ以上はどうしようもなかった。で、だんだん昼の世界になりつつある。このごろは著しい奇蹟が多いでしょう。お蔭話なんか読むと、ずいぶんすばらしい破天荒のがちょいちょいあります。これは、それだけ霊界が明るくなってきたわけです。治り方もだんだん良いでしょう。だんだん良く治るでしょう。いままで一時間かかったのが三〇分で同じくらいの結果がある。しかし、その代わり信者や資格者やなにかで浄化が起る人もずいぶん出てきます。昨夜聞いたけれども、信者でもないのですが、ブラジルのほうの日本人だと思うが、長い間夜尿症かなにかで、私の本を送ってやったが、御神書を読んだだけで夜尿症が治ってしまったというのです。いまにそういうふうになります。『栄光』でも『地上天国』でも、ああいうのを読んだだけでも、たいていの病気は治ってしまう。そうなります。

昭和二十七年十月一日 垂録14 (4)

【 明主様 】それはそうです。民主主義のほうが正ですから御守護をいただけます。その代わり一時は苦しむことはあります。しかし結局勝つことになります。勝たなければ世の中は崩壊してしまいます。正義はどんなことをしても蹂躙されないから、世界というのはいいのです。もし正義がちょっとでも勝たなければ、世界というものは崩壊してしまいます。たいへんなものです。だからキリストだって、正しいから自分の身が亡びてまで、やっぱり世界をなにするだけの力を現わしたのです。だから人間は正義が……これは形だけではありません。正義というものを打ち通そうという信念だけが、人間の値打ちです。それの強いほど人間の価値があるのです。それがなくして、ご都合主義や打算主義の人間は形だけです。骨のない人間です。いまは、ほとんどそういう人間ばかりと言っても良いでしょう。そこで人間の骨です。先に私の大本教時代に、短刀を持ってきた奴がありますが、私はその時分に「おひねり」と「御守り」を出していた。それを止めろと言うのです。それが大本教全体の問題になったのです。それはそうでしょう。聖師様でさえ、オレにはできない。三代様……子供です。 今度三代教祖になりましたが、その人だけは「御守り」と「おひねり」ができるのです。それはお筆先にあるのです。遺言にあるのです。だから聖師様でも、オレでもできないと言っていたのです。ところが私はそれを作っていたのですから、問題になったのです。一信者の岡田さんに許すことはないと問題になって、短刀を持って「止すか、もし止さなければやっつける。返事をしろ」と言うので、私は「止すことはできない」と言ったのです。そうすると奴さんが、にらみつけていたのです。私は危ない。すると急にアアイタタタタとのた打つのです。どうしたと言うと、腹が痛くてしようがないと言う。危機一髪です。それで治してやるからと横に寝せて、治してやったのです。そうすると、まるっきり人間が変わってしまったのです。今度は私に、自分と聖師様の所に行って「御守り」と「おひねり」を作って良いかということを、聖師様の前で伺ってみようと言うので、明くる朝二人で亀岡に行き、聖師様の所に行って、岡田さんはこうこうだ、それはお許しになって良いのでしょうかと言ったのです。ところが聖師様という人のそのときの返事がおもしろいのです。私はなんと言うかと思っていたのですが、「それは信者としてはできない。ワシでさえできないで、三代にやらしたのだが、けれどもあんまり目立たないようにやってくれれば良いだろう。目立つようにするとワシがみんなにせめられて困るが、これからみんなが欲しがるならやっても良いが、目立たないようにやってくれ」と言ったのです。だから奴さんもハッとしてしまったのです。聖師様という人は、私が只者でないということは分かっているのです。だから私が行くと必ず送ってくるのです。信者を送るということはないのですから、送るというと面倒臭いから……近侍の者が四、五人はいますから……「いま散歩に行こうと思っていたところだから」とか「私はちょっとどこかしこに用事があって、いま行こうと思っていたから」とか、そう言って送ってくれたものです。

昭和二十七年十月一日 垂録14 (5)

【 明主様 】そうそう私が治してやったのです。口がきけないので、これはいかんと霊でなにしたら、二時間ばかりで口がきけるようになったのです。それでずいぶん困ったことがありました。面会に行って治してやったのです。大本教というのは、やっぱり私を出すために現われた宗教なのです。つまり教祖様という人は、仏教的に言えば釈迦です。聖師様という人は阿弥陀です。それで釈迦と阿弥陀が観音を生むのですから、私は子になるわけです。ですから私は大本教から生まれたわけです。それで、父と母になるわけです。これは神秘なものです。だから教祖様は「イヅ」で、聖師様は「ミズ」で、私が伊都能売ということになるのです。「イヅ」と「ミズ」の両方の性格を、総合密合させたものです。それが私になる。教祖様や聖師様にしても、他のことは偉かったが、力がなかったのです。病気を治すということでも、力がなかった。なぜかと言うと、力というのは霊と体が密着して力が出るのです。経と緯が組んで力が出るのです。それが私です。「チ」は霊で「カラ」は体だから、霊体が一致して「力」が生ずるのです。つまり伊都能売というのは力です。だから力を持っているというのは、いままで世界に出なかったのです。その力が世界的に広がっていけば良いのです。ですから観音というものは、それになるわけです。観音力というのは、ちょうど男と女、火と水、経と緯、それが一致したものです。そこで観音力といって、阿弥陀力とか釈迦力とかキリスト力なんてありゃしないのです。また、力というものは制限がないのです。無限のものです。だからこのごろキリストと同じような奇蹟を信者が行なうが、そうすると力という点では、キリストは私の弟子くらいしかなかったのです。ところが力においては、日本中の立派な坊さんでも、信者の足下にも追いつきません。弘法大師でも法然上人でも、その点においては、こう(御浄霊)やって病気を治すことはできなかったのです。ところが信者が何千万何百万になっても、私が書いたものを懐に入れていればできるのですから、そうすれば私の力というものは無限と言っても良いのです。

昭和二十七年十一月一日 垂録15 (3)

【 明主様 】アメリカは反対かもしれません。インテリ階級から分かるでしょう。というのは、日本はなぜインテリが分からないかというと、いままでの宗教というのに、ろくなものがないからです。いままでの踊る宗教とか、ウチワ太鼓叩いて「南無妙法蓮華経」と言うのですが、踊る宗教も日蓮宗です。だから日蓮宗は信仰ではずいぶん低級な下劣なものだと宣伝したのです。だから新しい宗教ができても、頭から「いや、あんなものだろう」と高を括ってますから、そのために日本はインテリに開けないのです。ところがアメリカはキリスト教一本だから、そういうような悪影響は受けてないのです。日本で、われわれのほうを邪魔したのは、新宗教です。学者でもジャーナリストでもありません。新宗教です。

昭和二十七年十一月一日 垂録15 (5)

【 明主様 】あれは昔こしらえたのです。やっぱりキリストより、ちょっと前らしいです。やっぱりユダヤです。将来救世主が現われる、そのときにそれをお迎えするという準備です。そのために四つの門をこしらえたのです。それで三つの門だけは開けられるが、一つの門だけは「開かずの門」といって開けられなかった。いまでもありますが、それで一番不思議に思うことは「開かずの門」の上に十六の菊がついている。だからその「開かずの門」には日本の天皇が行かれるという説もあったのです。「一六の菊の門《紋》」といって、菊の花ではないのです。四方に神の光が行き渡るというような意味です。やっぱり八紘一宇《はつこういちう》というようなものです。八紘一宇を戦争の道具に使ったのはたいへんな違いで、あべこべだったわけです。それでイスラエルの流れと言いますが、イスラエル民族の十二の流れというのは、十二の支族になったわけです。それでその一支族だけが東に向かって行って、行方不明になったということがあるのですが、一支族が東に行ったということは、支那に行ったのです。そうして漢民族、漢の英雄になって、それが日本に渡ってきたのです。それが瓊瓊杵尊《ににぎのみこと》なのです。天孫瓊瓊杵尊です。その孫さんが神武天皇です。日本はいままでそれが統治していたのです。そうしてそのイスラエルというのはユダヤの祖先だから、そこで日本というのはユダヤの系統だという説もあるのです。木村鷹太郎という人はそういう説を唱えていたのです。やっぱりそれは神様の経綸なのです。だから何千年何万年前から神様はいろいろな仕組みをしていたのです。だからやっぱりお筆先にあります。「今に世界が唸るぞよ」というのがありますが、メシヤ教というのが本当に分かってきたら、本当に世界は唸ります。それでキリストもイスラエルですから、キリスト教も素盞嗚尊の系統なのです。いま世界の文化というのは、結局ユダヤの文化なのです。だからユダヤというのは非常に大きな手柄をしたのです。それでユダヤというのを非常に悪いように宣伝したのは戦争前の軍部ですが、むしろ本当からいうとユダヤに感謝して良いくらいのものです。いまのこういった機械文明とかを考え出したのは、みんなユダヤ人です。それでユダヤ人を欧州戦争のときなんか、ドイツはどう間違えたのか、みんなユダヤ人を排斥したので、その偉いのがアメリカやソ連に行ってしまったのです。それがいろんなことを考え出してやったのです。いまアメリカやソ連が新しい武器を作ったり、原子爆弾を作ったりしているのは、結局その系統です。アインシュタインというのは、アメリカに亡命したのです。それでアメリカで非常に歓待したのです。原子爆弾の理論を最初に言ったのはアインシュタインです。アインシュタインが「こういう物ができる、原子破壊という物ができる。可能だ」ということを唱えたのです。だからユダヤ人というのは唯物的に非常に良い頭です。ところがそういった良い方面もあるし、また医学のような、あんな馬鹿気たものを作ったのもユダヤ人だから、そこに一つ足りない。九分九厘の力しかないのです。それで私のほうは一厘のほうだから、九分九厘の間違った所を訂正する。いろんな機械やいろんな薬でやったことを、こう(御浄霊)やれば治るということはやっぱりそういう意味です。いままではユダヤ文化によって世界はほとんど支配されてしまったのです。ただ一つ足りなかったために、せっかく作った文化がみんな人間を苦しめる道具になってしまったのです。それで一厘というのは、苦しめた文化、つまり不幸を生んだ文化を、幸福を生む文化にするのです。それがメシヤ教です。もう少し経つとおもしろいのです。いままでのは基礎工事なのです。これからいよいよ建築に取り掛かるのです。基礎工事で、それで模型も造っていたのです。箱根が第一の模型で、熱海、京都と第二、第三の模型です。京都ができると今度は九州です。九州ができると、今度は中国です。

昭和二十七年十二月一日 垂録16 (8)

【 明主様 】そうです。雅楽というのは平安朝時代のものです。そうなると、こっちも衣冠束帯かなにかでやらなければならない。能楽とか雅楽をやるのは、別にそういったものを作らなければなりません。宗教のほうでは、そういうことはやりません。むしろもっとも新しくなければならないのです。だから建築でももっとも新しいところを狙ったのです。今度できる会館というのは、宗教建築ではおそらく世界にありません。宗教建築というと、昔の伽藍式とか、お宮式とか、ありますが、いくら伽藍式を立派に採り入れても、京都の本願寺以上のものはできません。あれを安っぽくしたくらいのものです。そういうものは造る必要がないのです。私はこの間「袴に支配される」ということを書いたのですが、そうすると二〇世紀を狙うよりも、むしろ二一世紀を狙うのが本当です。だから天理教などがやってますが、ああいう古いことは排斥したいくらいのものです。あれでは時代の進歩というものがありません。特に宗教ほど進歩のないものはないと思います。だから私は釈迦とかキリストということを、さかんに批評してますが、古い宗教で救えないということは、あたりまえです。いまの自動車の世の中に牛車に乗れというようなものです。それなら牛車に乗って町を歩いたらどうかということです。ただ歴史的の趣味として見るのはかまいませんが。