昭和二十六年十二月二十五日 『御教え集』五号 (明主様御聖誕祭)(5)
いま書いた……つまり、本当のことをぶちまけてみれば、医学というのは、邪神が作ったものです。では、なぜ医学を作ったかというと、人間を弱らせるんです。それでヒョロヒョロにして、そうして最後の奥の手を出して、世界を制覇しようというのが、邪神の二〇〇〇年前からの計画なんです。ですから、それで……さもさも進歩したように見せて、これによって人間の生命は、医学の進歩によって解決されるというように、実にうまく瞞し込んじゃったんですね。ですから、治りそうに見えていて、結局治らないですね。健康にはならない。これは信者さんは良く知っているけれども、あれはつまり……一時的ちょっと……注射をするとか、いろんな手当てをすると、ちょっと一時的に良いですからね。さもさも治るように瞞しちゃうんですね。瞞しちゃうと言っても、ふつうの人ではない……お医者さんが瞞されたんですね。お医者さんが瞞されて、一般人が瞞されたんですね。それを見破ったのが私なのですからね。邪神のほうにとっては、私という人間はたいへんなんです。そこで、いろんな迫害や、いろいろ妨害しようとして……しかし今度は、以前のキリストやなんかの時代と違って、いま霊界のほうが変わりつつありますから、邪神のほうの力が弱ってきて、結局往生するんです。邪神の力が弱っただけ、こっちが発展したんです。だから、発展するか発展しないかは、邪神の妨害が多いか少ないかに因るんですから、立派なものだ……メシヤ教は、と。病気が治る、と腹の中で分かっていて、どうも入る気になれないというのは、邪神が抑えているんですね。その抑えが弱ってくると、だんだん入ってくるようになる。やっぱり時期ですよ。一日一日霊界が違ってきましたがね。霊界が明るくなるのが、だんだん早くなるんですね。ですから、いずれ一般人がいろんな病気で二致も三致も行かなくなりますね。お医者さんが、手をつけるとすぐ死んじゃうということになる。いままで効いたということは、固め療法ですからね。一時固まったから良かったが、だんだん浄化が強くなるから固まらなくなって、すぐ溶けるからね。浄化が起るから、すぐ熱が出たり、痛くなったり、いろいろする。で、すぐに薬が溶けるとともに、今度は命がすぐに解けちゃう。そうなると、メシヤ教より他に救われるものはないから、というのでたいへんなものです。もう長いことはないです。もう一息の辛抱です。だいたい、一生懸命宣伝したり、こっちでいろんなことを言ったりして、じゃ入ってみようというんじゃ本当じゃないんです。先のほうで「お助けください」とワンワン言ってくるようでなければならないし、こっちのほうで、そう一遍に来ては困るというくらいでなければ本当じゃないんです。こういろいろ説明して、そうして買ってもらうというんじゃ、はなはだどうも……理屈に合わないんですからね。いま、金が一匁三〇〇〇円として、それを三〇円くらいで売るんですからね。少し馬鹿馬鹿しいんですが、そうするよりしようがないんですが、いずれは……他に行けば三〇〇〇円するが……あそこは三〇円だから、あそこに行こうということになる。それがあたりまえなんです。
昭和二十六年五月二十日 『教えの光』(宗教、科学、哲学、芸術)(13)
御伺い ユダヤ、仏教、キリスト教などいわゆる世界の大宗教と称せらるる宗教が、今日の人心世相をすでに二千年、三千年の昔に遺憾なく言い表わしております。このうち最も重大と思わるることで未だ実現しないものに、最後の裁きで地球上の人類の三分の二は篩にかけられ、ピラミッドの王房に入り得る者は残り三分の一であるといわれております。いままでがだいたい当たっておりますので、今後のことを疑うよりも信ずるほうが賢明であるかもしれませぬ。はたしてかくのごとくであるとすれば、その篩は病気、天変、地変、戦争などのいろいろの種類がありましょうが、そのうちもっともなるものはどんな型でしょうか。またその時期はいつごろでしょうか。
御垂示 三分の二滅び、三分の一助かるという予言は私は知らない。釈迦は仏滅の世が来ると言った。これは仏教が滅するとか物質界が滅するとか諸説はっきりしない。キリストは世の終わりとか、最後の審判とか言ったが具体的に言っていない。その時期として釈迦は五十六億七千万年後と言い、キリストは二千年後と書いてある。私も世の終わりとか最後の審判とか書いているが、これは『聖書』によったまでである。こういうことははっきり時期が判っても言えない。言わないところに価値がある。例えば人間の寿命が判ったら働かないことになる。私は予言しないようにしている。誤解されやすいからである。詳しく言えば人心惑乱として法にふれる。ただ世の終わりが近づいていることは言える。これは浄霊が年々よく効くようになるのでも判る。これは霊界に火素が殖えたからで、火素が殖える結果は浄化が強くなることである。浄化はひとり病気だけではなく、あらゆる面に及ぶから想像はできる。
昭和二十六年五月二十日 『教えの光』(宗教、科学、哲学、芸術)(15)
御伺い キリストと十二人の弟子について。
御垂示 キリストには十二人の弟子があった。そのうち一人、かのユダがイエスに叛いたため、実際は十一人の弟子である。
その当時、当局の圧迫がひどく、弟子たちはみんな逃避し一〇年の間はひっそりしていた。一〇年以上経ってみんな寄り合って教えの元を作ろうというので、みんなでイエスから聞いた心覚えを書いた。それが『バイブル』であるから、キリスト御自身の書いたようなわけにはゆかないであろう。『旧約』はモーゼが書いたもので夢みたいな謎が多いが、それは神懸りに因るものである。ヨハネが作ったという説もあるが、これはモーゼが書いたというのが本当であろう。圧迫のほとぼりの冷めるに従い、内密に書いたのが『聖書』である。
キリスト教徒にはなかなか偉い人があった。アフリカ探険の有名なリヴィングストン博士の話を聞いたことがあるが、実に偉い人で私も感心した。この人はアフリカ探険の際、あらゆる危険を犯して伝道したが、土人の鉄砲に包囲された中を平然と通過した。そのときの彼は「もし自分が現世に用事があれば、絶対に神は自分を殺さぬ」という信念であったとのことである。
昭和二十六年三月二十五日 地天22 「教えの光」(15)
--宗教革命の導火原因となったローマ法皇の免罪符発行に対して、時のドイツ神学者マルチン・ルターは福音主義を奉じて強烈に抗争し、ついに、新教の基礎を造りました。免罪符排斥の主点は、民衆の欺瞞と、ローマ法皇の圧政と寺僧の享楽を批難するところにあったものと考えられますが、キリストの殿堂を復旧しようとして執った法皇の行為と、ルターの思想に対しての御見解を御教示ください。
昭和二十六年五月二十五日 地天24 「教えの光」(7)
ヨハネの日本的御神名はない。強いて言えば、報身の弥勒のお働きであるから、キリストの師であってまたキリストに仕えるお役目でもある。というと人間的常識では判らないが、ちょうど釈尊に例えればよく判る。釈尊は観音様を生んだから親であるが、いまは観音様を助けて低位に甘んじているのと同じである。
昭和二十六年九月二十五日 地天28 「教えの光」(7)
--キリスト教徒が教義の根本としての贖罪を強調して、イエス・キリストの十字架上の受難像を信仰の対象としておりますことは、信徒の想念によりて霊界に受難の想念像を像造ることにより、いつまでもイエス・キリストの霊を苦しめることになるのではございませんでしょうか。
右は転向者I・F(教師)が去る一〇月一七日次女「A」(カトリックの熱心な信徒)が、「御心のイエス様」という胸にハート型を抱かれる御像を求めて帰ったことにより、かつて教会において聞かされた話「約一世紀前ある国のキリスト者(マリヤ・マリという修道女)にイエス様が現われ給い人類のために血潮を流し尽くしたのにこの苦しみを償ってくれない、せめて月の始めの金曜日の御ミサを受けてほしい」との意味の言葉を想い浮かべ、その日よりイエス様のために善言讃詞を奉唱し続けておりましたところ、たまたま一一月一日夕方、T(昨年三月一三日帰幽、 その後本教への疑念の浮かぶごとに、夢または幻によりて本教の正しさを強調しております)Tは観音のお使いだ、お使いだと独り言を言っている自分にハッと気づき、そんなもったいないことを、とみずから否定とも肯定ともつかずおりますと、その夜の夢にTは大国主命のお使いだという意味を見せられていたそうであります。その後一一月三日夕方、御不浄にて直観的に十字架の受難像のことが頭に閃いたとのことであります。このことは、明主様のお許しいただく日まで、口外することは絶対許されないことでありますが、かつてキリスト者であった自分の心の中にだけその真実を知り得て、今後キリスト者たちへの布教の信念といたしたいと願っております。しかり、否、の御言葉にても御垂示のお許しを賜りたく伏してお願い申し上げます。
キリストの贖罪は、万人の罪を一身に引き受けて、償われたので、その大愛に対して感謝し礼拝し祈るのである。従って、いままではそれでよかったのである。ところがメシヤ教の信者になれば、その必要はなくなったのである。というのは、もはやキリストは再臨されたからである。これには深い神意があるが、いずれ詳しく説くつもりである。
昭和二十六年七月八日 特別御面会御光話 午前の部
--キリスト。
昭和二十六年七月八日 特別御面会御光話 午後の部(12)
注--このA氏は現在の観音の姿は、蓮華の上に坐ってなにもお持ちになっておらず、蓮華の花弁もうすらいで見えるそうです。お姿の背後に十字架があり、キリストの十字架は であるが、この十字架は でありますと。
昭和二十七年三月一日 垂録08 (3)
〔 質問者 〕後妻でございますが、先妻は離縁したときに亡くなり、祀る人がおらず、キリスト教で姉が祀っておりますが、気になりますのでございますが。
昭和二十七年四月一日 垂録08 (2)
〔 質問者 〕金を出さなくても命を捧げれば良い。だから「金を出せ」と言う幹部は邪霊が憑いている。またお前たちの家庭が地上天国になれば、それから奉仕すれば良いんだ。まず家庭が地上天国の形になってから説くのがあたりまえだ、ということで、波紋が起きております。それで私は、キリストは「天国は近づけり」と言い、釈迦は抜苦与楽<ばっくよらく>を説いただけで、明主様は地上天国をお造りになられるのだから、金もいるということを言っても、徹底しないのでございます。明主様よりも。
私はいままで、あの人は悪い、気をつけなければならないと言われても、やはりその人を使いもするし、会いもするし、いろいろやります。やっぱり大局から見ると、なにかお役に立つことをしているんですよ。で、これは大本教のお筆先に「今度は三千世界の大芝居だ」ということがあるが、これはおもしろいことですね。つまり芝居なんですよ。芝居というものは善人ばかりじゃ芝居にならないんです。悪役がなくちゃね。善人が悪人に苦しめられるということが、一つの、狂言の筋なんですからね。そういう点から言っても……教団には悪役はないんですが、その人の考えが、良いと思って……信者のためだと思うんですね。神様のためだと思うんですが、それが智慧が足りないために、間違ったことを良いことと思うことがよくあるんです。叡智ですね。神様のためと思うが、そうじゃなくてお邪魔になることがあるんです。叡智というものが必要なんですが、叡智というものは、そうとうの修行しないと得られないんです。また互いに言い合っていることに、話を聞いてみると、どっちも合っている場合がある。それも芝居の役としてやらせられているんですから、だからさっきも言う通り、一番まずいのは決めることです。よく、邪神、邪神と言いますが、あれが一番悪いですね。これは口にしてはいけないですよ。邪神だって良い働きするんだからね。神様には必要なんです。自分が邪神にならなければ良い。人の邪神は気にすることはない。大きにお世話です。だから私は今度も書きましたが、人を邪神だということを言う人があるが、それはその人が神様になるので、神様の地位を冒しているんだからね。邪神と言われるが、言う人はたいへんなものですよ。神様の地位になるんだからね。神様じゃない、人間とすれば、たいへんな冒涜ですね。神様になっちゃうんじゃなくて、神様の上になるんだから、この人は本当の邪神が憑いているということになる。第一邪神か邪神でないかということは分かるものではないですよ。狐が憑いているから邪神だと言うが、狐だって立派なのがあるんですよ。もし必要がなければ、神様がなくしちゃいますよ。必要だからあるんでね。善悪を決めるということは、なかなか難しいものですよ。あいつは邪神が憑いてると思う。その思うことは良いが、あいつは邪神だから気をつけろと人に言います。と、言うことが罪になる。あの女は、俺は惚れた。あいつは良い女だと、それだけはかまわないです。しかたがないですからね。キリスト教では、姦淫の罪になりますがね。けれども手を握れば、そこで罪が発生する。こういう話は、いくらしてもきりがないですからね。そのくらいにしておいて。(次節に続く)