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昭和二十六年十一月一日 『御垂示録』四号 (3)

【 明主様 】そうじゃないでしょうね。家来の中にはそんなことがあったでしょうが、そうでないですね。大徳寺に行ってみると、実際に大燈国師に師服したんですね。大徳寺というのは、後醍醐天皇の力でできたんですよ。バラモンというと、物質的になりますが、それは後醍醐天皇は悟らなかったでしょう。信仰しながら天皇になろうと思っただろうが、そこまで悟りきれなかったでしょうが、霊的にそうなっているからしようがない。だから、そこはまた、ちょっと難しいところですね。信仰するそのものによって救われて、そうして自分が、また別の欲望を抱いてやるというのが矛盾するんですね。よくアメリカあたりが、キリスト教を利用して、日本をどうすると言うが、そんなことはないんです。牧師は、本当にキリスト教でやれば救われるというのでやっているんですがね。しかし政府は利用するか分からないですがね。しかし、宗教自体はそんなことはないですね。戦争中だって、日本の神道を軍部が利用したが、神官というのは別に、侵略戦争を助けようという観念は少しもない。ただ軍部で……ああせい、こうせい……と言ったので、それをやらないと、圧迫されるので、して来たにすぎないんですね。

昭和二十六年十一月八日 『御垂示録』四号 (1)

【 明主様 】やっぱり、資格者もなんとなく増えていくんでしょうね。しかし霊的のほうでは、だいぶ発展の段階に入ってきているんですね。実りかけてきたですね。いままでは棒だったんですからね。いくらか実の形がね。いくら良いものでも、やっぱりそれだけの年数を経なければね。でも、われわれのほうは早いんですよ。キリストなんか……死んで、どうやらして一〇〇年くらい経ってからでしょう。それと、お釈迦さんみたいに目出度く死んだのなら良いですがね。キリストなんか、ああいう死に方ですからね。「よほどあいつは悪い人間に違いない。太い野郎だ」というので、そこでみんな本当のことが分からないからね。

昭和二十六年十一月八日 『御垂示録』四号 (28)

〔 質問者 〕学業の中心地で、ノートルダム大学というのがあるそうです。そのとき戦闘機の写真を現像すると、大空いっぱいにキリストの霊写真が出たそうで、あちらのほうで、キリストの再臨が来たので世界中たいへんなことになると、評判が立ちましたそうです。なにか意味があるものかと言うのでございますが。

【 明主様 】それは、大いに意味がありますよ。それは精しく書くわけにはいかないです。仮に、私がキリストの再臨だということが分かったらたいへんです。世界中の人間が、とても来て……仕事ができやしない。『文明の創造』なんか、書けやしない。だから、ぼやかしてあるわけですね。ですから、大いに意味がある。それを知らせるのは時期が早いから……そういうふうに書いてやると良い。それから、メシヤ教と大いに関係のあることだということも書き添えて良いですね。その中の新聞に出して良いようなのは……手紙を私によこしてください。阿部さんに出してください。

〔 質問者 〕また、バハイ教の幹部に会ったところが、キリスト、マホメットの予言をしたというのは、おそらく明主様だろうと言っているそうです。

昭和二十六年十二月八日 『御垂示録』五号 (10)

〔 質問者 〕キリスト教の、女を見て色情を催したのは、姦淫と同じだ、ということがございますが、その時代はそうだったのでございましょうか。

 つまり、キリスト教の中にも大乗と小乗がある。いまの解釈は小乗善なんです。小乗善を説かなければならなかったわけなんですね。小乗的人間は、やっぱり小乗善を説いてないと、大乗でばかりだと危ないんです。しかし、思うのはしようがない。それでなければ神様に苦情言って良い。ああ、あいつは良い女だ。ああ……という心というのは、神様が作ったので、そんなら神様がそういう想念を作らなければ良い。

昭和二十六年九月二十日 『御教え集』一号 (3)

 この間、一五日の日に公判があったですがね。そのとき、証人でしたが、庵原警察署の警官ですが、これが主任になって調べた。それがまるででたらめ、嘘っぱちだらけです。それで、罪をつくろうとして一生懸命になっている。Mという人ですがね。この人を霊的に見ると黒龍ですね。黒い龍の親玉というのです。これは去年の事件当時からですが、あとはみんな眷族です。先に……あの当時言ったことがあります。龍だとか……黒龍だとかね。今度の一五日の公判の一日前の日に家内が夢を見た。黒い、長い、大きな黒い龍……蛇が、最初はこっちを向いていたが、横を向いて縁の下に入って行った。それはやっぱり神様が見せられた。結局、邪神と正神の闘いなんです。邪神はいろんな手を使ってやっているわけです。いずれ私は『神軍戦史』という本を書こうと思っている。たしか昭和二〇年から闘っているんです。先も根気良く、あらゆる手をうって攻めてくるんですが、それがいろいろな事件になるんです。ですから鉄砲玉や爆弾を使わない……霊的だけのすばらしい闘いを続けつつあるのですから。いろいろ書くとなかなかおもしろいです。私というものを邪神界ではたいへんな恐怖になってますからね。メシヤ教に出られたらたいへんだと言うので、あらゆる戦術をやっている。私のほうは金龍なのです。金龍にはかなわないからね。そこで信者の中でも非常に活躍している。新聞が悪口言ったり、官憲を使って……この事件のように……去年の邪神の計画というのは、教団をひっくり返す目的だったんですからね。今度それを書きますがね。みんな邪神の親玉連ですからね。そうして今日に至ったのですが、しかし年々邪神のほうは弱ってくる。昔ほどじゃなくなってきた。昔はこっちの命を取ろうとすることもたびたび……多かったが、今日はこっちのほうに勢力……力も出てきたですからね。やり良くなってきた。時代も違うが、キリストなんか命までなくなった。ですから、この事件もその一つの現われですね。ひっくり返そうとする陰謀が壊れた。だから、この事件というのは、本当言うと結構なんです。検事や検察官を悪く言えない。大いに礼を言って良い。しかし、それは霊的のほうですが、体的の場合は、これをやらないと、世の中に苦しむ人がたくさんあるからで……この間殺人罪で無期徒刑で三年間入っていて、真犯人が出て、出されたが、そんなことがたくさんある。しかしふつうは泣き寝入りしてしまう。こういうわけですね……力のない人ですね。弁護士を傭うとかいうことができない人は我慢して……いまの無期徒刑にされたようにされちゃう。それから多少力のある人は、いくらかやる。だから、そこで大いに遠慮なく言うと、感情害したりして、今度は罪を重くされる。それでおとなしくしている。私はなにもないから……良い弁護士を傭うだけの力があるから思いきってやる。これも印刷にして、裁判長や検察官に配るつもりですが、それはなにも気が咎めることがないからできる。そうすると、いままで泣き寝入りして、罪をつくられた人を助けてやる。それから、日本の裁判の非民主的のやり方をいくぶんでも良くしなければならないという、やはり一つの救いです。救いの別の面のやり方になる。

昭和二十六年八月二十五日 『御教え集』一号 (5)

 キリスト教信者の宗教的のいろいろな……喜びと苦悩をまぜこぜに書いてある。こういうことはたくさんあることですがね。私も昔そういう人にずいぶん会ったが、根本から言うと小乗信仰です。キリスト教でも……カトリック旧教でも、特に小乗なんですね。そこで、やはり終戦前の日本ですね。天皇陛下のために命を捨てるというのが最高道徳でしたが、いまになってみると馬鹿馬鹿しいことだと思う。そういうふうに教育されると、そうなっちゃう。だいたい、キリスト教信者というのがすでに小乗なんです。何教彼教と言うのがすでに小乗なんです。だから何教だとか……非難したり……つまりメシヤ教ならメシヤ教に捉われてはいけない。強いて言えば、世界教ですね。そこで世界救世教と言う。そうすればどんな宗教でもかまわない。だから対立的にはならない。いま読んだのは対立的ですからね。これが小乗の弊害なんですね。ですから、私は日本人じゃいけないと言う。以前終戦時に、私があんまり終戦について言わないので「先生、あなたは日本人ですか」と言うから、「違う」と言うと、「へーえどういうわけですか」と言うから「世界人だ」と言ってやった。「日本人だったから、あんな戦争を起した。世界人ならあんなことはしない。土地を取ったり、人を殺したりしない。日本人だったからあんなことをした」と言うと、ヘンに感心しました。そんなわけだからね。こういう人があります。メシヤ教は他の宗教を非難しないからいい、と言う。上流階級の人が言ったんですが……その宗教はメシヤ教の一部なんです。それを非難するなんてね……自分のなんだから、自分のほうを非難することになる。そういう頭でやらなくてはいけないですね。だから他の宗教でもなんでも結構、なんでも研究しなさいと言うのです。メシヤ教になって良かったら、それでいいですがね。ところが、メシヤ教以上のものはないという自信があるからね。昔のことですがね。深川で大きな風呂屋があった。そこの娘さんがリウマチで、手が……こうする(拝む)ことができない。そこの家は阿弥陀さんの熱心な信者さんで私は「あなたの手の原因は阿弥陀さんを拝むのがいけない。昔は良かったが、いまは違ってきているから、阿弥陀さんを拝むのは時節が違っているから、……手が……拝めないというのは先祖に止められているので、阿弥陀さんを拝まないで観音様を拝みなさい」と言うと、帰って「おっかさんとか親類と相談しましたが、どうも反対する人が多いので、その通りにすることはできない」と言うので、「そうしないで治すというのはできない。それが根本だから」と言って止した。先に書いたことがあるが、やはり湯屋の親父で足が悪く、浄霊してやったが、いい加減治った時分に来なくなった。おかしいと思って近所なので聞いてみた。すると、あの親父さんはこういうことを言っていましたよ。「だいぶ良くなったが、治されたらたいへんだ。阿弥陀さんのそばに行けない」と言う。それで止めたが、それから天理教の先生ですが……病気の人を私がやってやると少し良くなる。それから天理教の先生が来るとまた悪くなる。先生にお願いすると良くなるということは分かっていてもそれを明らかに言えない。もし治るということになると、天理教の先生で治ったということになる。それを聞いて、せっかく治しても天理教で治ったということになるので、骨折り損のくたびれ儲け、と言うことになるのでやめた。ずいぶんひどいことを言う。罪穢れがたくさんあるから懺悔をせよと言う。懺悔をするとまだあるだろうと言うので、いくら考えてもないと言うのです。そういうことを、相談ではないですが……愚痴を言ったことがある。それで、つくづく懺悔信仰は良くないと思いました。キリスト教にはよくありますね。しかし、懺悔をするということはぜんぜん悪いことではないですが、しかし懺悔をしないで治すのがいいですね。懺悔は、どうも人に言えないことが多いですからね。要するに改心すればいいんです。自分の心を改めてそれで結構なんですから。それでメシヤ教には懺悔というのはないんです。まあーなるべくきれいに良い人間になるほうが良いんです。

昭和二十六年九月五日 『御教え集』二号 (10)

 人という字の「ノ」ですね。これは天から神の分霊が降った形です。下でつっかえ棒をしているのは、下から支えている。上は神から来たので、下は獣から来たのが支えている。これが善と悪で……これが人になっていれば間違いない。悪は横棒です。物質欲……体欲です。悪がなければ人間は活動力がなくなる。そこでこれが勝つと間違う。これが勝つと「×」になる。「×」は物を消すのですからね。消すとすれば滅びてしまう。だから「×」にならないように……「人」の形になっていれば間違いないのですから、これ「ノ」の上を抜かないようにするんですね。しかしこれ「ζ」がなかったらたいへんなんです。仏教や、キリスト教なんかで禁欲主義……仏教では山に篭もったりするんですね。

昭和二十六年九月十五日 『御教え集』二号 (4)

 宗教もこういうふうに説いていくつもりですがね。それでなくては一般が分かるということができないですね。難しく……宗教哲学や……いろいろな学究的に説くということは、おもしろいこともなくて分からない。できるだけだれにも分かるように説いていくつもりですがね。ただ、一人よがりの理屈では信じられない。実際の証拠を見せるんですね。そうすると、いままでのいろんなことが良く分かってくる。いまは仏教だけですが、他の宗教……キリスト教や神道も説くつもりです。そうして結局……つまりいままでの宗教にない宗教以上のものができなければならない。そうでなければ駄目だという点ですね。それから、共産主義ですね。あの根本も説くつもりです。あれもなかなかおもしろいです。いまちょっと話すると、共産主義の元は、やはりフリーメーソンですね。マッソン秘密結社と言って、二〇〇〇年前にできた。世界を掌握するというんですね。それが中途で派に分かれた。フリーメーソンのほうは、その中でごく良いほうですね。これは資本主義を作ったものです。アメリカはフリーメーソンですね。アメリカの偉い人はほとんどフリーメーソンの会員です。

昭和二十六年九月十八日 『御教え集』二号 (6)

 こういう具合にいろいろ説いていくんですが、興味があって、知らず知らず深い所が分かっていくんです。深い所に入っていくと、なかなかおもしろいんです。仏教から神様に入り、そういう関係を説いていく。そういった宗教的ないろいろなことはすっかり分かることになる。いままでの宗教というのは、曖昧模糊だったんです。それは夜の世界のことを説くものだからしかたがない。本当に説いたら、どうしても、仕事をする気にならなくなる。そこで、うまくぼかして、無理な欲望など抱かせない。そのために苦しみが生まれる。それを助けるためにお釈迦さんは、ぼかして、ぜんぜん諦めさせないような、諦めさせるようなことを言った。仏滅後五六七の世が来るというのは、諦めさせないようにですね。そういうわけだから、後世の学者やそういう人たちは自分流の考えで、いやに七難しくして、非常に神秘な尊いもののように作ったんですね。だから、本当のことが分からないからして、いろんな説ができ、いろんな宗派ができた。結局、迷いをなくするために一生懸命やるのが、迷いを増やしている。そうでしょう、肝腎なことを説いてなかった。また説いてはいけなかったんですね。キリスト教なんか、『バイブル』などは良いですが、徹底しない。「汝なにをするな」「汝なにをせよ」と言うがどうしてそれをしてはいけないということを説いてない。丸飲みにすれば良いが、そうはいかない。だんだん文化が進歩してくると、理屈をつけるようになる。合理性を持ってくる。そうすると、あんな宗教というのは空みたいなものになる。そうすると、物質的に進歩した結果、悪の発生になる。悪の発生のために世の中が悪くなる。人間が苦しむ。だから結局、いままでの世の中は、不徹底きわまる、曖昧模糊としたものです。だから、そういうものと諦めるよりしかたがない。ところが、今度は昼間の世界になるから、はっきり分かってくるからして、迷いがないばかりか、人間の思う通りになる。なにが思う通りになるかというと、健康です。人間というものは、病気というものはないものだと思えなかった。どんなに偉い人でも、いつ病気にかかるか分からない。これだけは取れない。事実偉い人になっても病気で死ぬからね。お釈迦さんでも病気で死んだ。そうしてみると、本当に安心ができない。ところがメシヤ教では、病気の心配がなくなるんですからね。私の娘が結婚した婿になるのが、この間会社で健康診断で、結核の初期だと言うんです。いま来てますが、そんなのはすぐ治るからすぐ来いと言って、なにも心配ない。非常に喜んでいる。これが世間だとたいへんだ。子供がありますから、染るとたいへんだと、隔離されて、絶対安静で、どんなことになるか判らない。ところがこっちは平気ですからね。そんなものは風邪引いたくらいです。この安心はいままでにないんですからね。そこで、これで五六七の世の一番肝腎な根本ができたわけです。人間が地上天国の資格者になっているんです。結局、いつも言う通り、病気の心配、戦争がなくなる。だんだん進んでいくと戦争の原因を書きますが、病気と戦争がなくなれば、それでいいんです。あとはすべて解決する。今度の講和会議など、各国がいろいろ……日本もそうですが……いろんな国際法だとか、連盟だとかいろいろ作ってます。国家も……社会組織、経済組織と作りますが、結構なんです。良い組織なんです。ところが、やる人間が駄目なんです。だから悪くしてしまう。良い人間が法律を運用すれば……法律なんかいらないくらいのものです。これを悪い人間が使うと、法律を逃れるとか、ひっかかるとかとなる。だから、法律というものは、かえって悪の働きをすることになる。今度の『新しき暴力』の付録にも書いてあるが、悪を取締る御本人が悪をしようというんです。だから被告はいばってますが、警察官なんかビクビクしてます。この間のときなんか……弁護人も勇気がないんです。勇気がないと言うより……悪いけれど……心の底に確たるものを握ってない。だから、おっかなびっくりしながら役人に向かっている。だから私は立ってウンと……叱ってやったんです。先も気の強い奴だと思ったらしいですがね。こっちは正当なんですからね。私を調べた警察官ですが、検事から招ばれて証人になっていたが、嘘っ八です。「あなたが言っているのはほとんど偽証だ」「そんなことない」「そんなことないと言ってもぜんぜん嘘だ。偽証ということを取ったら、私のほうはなにも罪はないじゃないか」馬鹿馬鹿しいと言ったらない。「それじゃ水掛け論だから止すが、私がせめられてひっくり返ったことが二度あるが知っているだろう」「知らない」「もう一人の人がおぶって行くのを見たでしょう」「いや」「気の毒そうな顔して見ていただろう」「いやそんなことはない」浅ましいものです。罪をさばく御本人が、嘘吐いたり忘れたと言っては問題にならない。ついに「あなたのような人間に話しても、しようがないから、あなたが本当になったら話をしよう」と言ってやった。なにしろ水掛け論をやっているんですからね。「私は水掛け論は嫌だからこれで止す」と言った。裁判長は笑っていました。すると検事の先生「裁判長、笑うというのは止してもらいたい」と言うんです。笑いたくて笑うんじゃない。笑わざるを得ないんです。だから笑わせる奴が悪いんです。というのは、知れきった馬鹿馬鹿しい嘘を言うからで、憎むどころじゃない。それを通り越している。裁判所の神聖を穢すのは先生たちです。こっちは笑わせられるんですからね。馬鹿馬鹿しいものですね。ちょうど、いままでの世の中がそういうふうになってますね。