昭和二十四年四月四日 御歌 光録07
キリストにサタン釈迦に提婆あり我にもありぬもろもろの曲
キリストも釈迦も孔子もマホメットもわが現れ出づるまでの楔そ
栄光の雲より降るキリストの世に知れ渡る時ぞ近みぬ
あな尊と天より降るキリストを祝ふハレルヤの声ぞ嬉しき
キリストも釈迦もメシヤも観音も人の姿の神にぞありける
いやはてに天より降るキリストに世のもろもろは甦るらむ
昭和二十四年四月二十三日 講話(1) 光録07
これは絶対に言えません。こんなことを言うとかえって思い違いされて、新聞や当局がさっそく目をつけますからね。教導師が自分でそう思っていろいろ言うんでしょう。ただ近寄ったってことと、きっとあるってことだけは言えますね。しかし、これはキリスト教でも最後の審判とか、世の終わりとかって『聖書』に書いてあり、それを信じろって言うんですからね。私がこう言ったって別にどうってことはありませんよ。近寄ったってことは言えますね。けれども近寄ったと言ってもまだ来月とか再来月とかじゃなくてまだちょっとはありますからね、そんなに……
昭和二十四年四月二十三日 講話(21) 光録07
最後につけ加えたいことは、かのキリスト教であるが、キリスト在世中は迷信邪教として迫害された結果、キリスト御自身が贖罪のためとは言いながら、茨の冠を被せられ刑場の露と消え、残った十一人の使徒の努力によって二千余年の歳月を閲し、今日の大を成した事実は深く考えなければならないところであろう。以上のごとき理由をもって、貴局がその過失を認めそれに対する責任を負うべき義務がある。そのことを具体的に言えば、謝罪の意を表するとともに、今後本教団に関する放送は、事前において本教団の承認を得ることの誓約書を提出されんことである。なんとなれば一方的の言説を信じて、他の一方善意の第三者に被害を与えることは民主的に相反するからである。
昭和二十四年五月三十日 講話(15) 光録08
〔 質問者 〕あるクリスチャン、御浄霊をいただき感謝しながら死にましたが、このような人はやはり死後キリスト教の霊界へ行くのでしょうか。
そうですね、ただ感謝しただけじゃ観音様の霊界には行けませんよ。やっぱりキリスト教のほうの団体へ行きますね。しかし、まあ霊界へ行ってから、自分は観音様のほうの団体へ行きたいからってお願いすれば行けないこともないですがね。いったんはどうしてもキリスト教のほうへ行きますよ。
昭和二十四年七月三十日 講話(1) 光録09
これはね、邪神に負けるとか、引かれるとかいうこの人の心が間違っているんです。邪神かどうかってことは人間には判らないんですよ。神様でないと判るもんじゃないんです。だから、こんなことを言う人は神様の地位を冒してるんです。つまり「裁いている」んですね。キリスト教の『聖書』にも「裁く勿れ」ってあるでしょ、それですよ。邪神が憑いてるかどうかってことは決して人には判らないんで、かえってそういうその人があるいは邪神かもしれない。だからこんなことは絶対に言っちゃいけないし、また言えないんです。こんな人は、自分の気に入らない人はみんな邪神にしてしまうもんですよ。ところが邪神だなんて言われる人で、馬鹿にいい働きをする人もあるものです。まただれが見てもいい人であっても、実は反対のこともありますしね。だから神様でなければこういうことは判らないんですよ。
昭和二十四年五月十三日 講話(10) 光録10
〔 質問者 〕お道に入信した人の先祖をキリスト教で葬ってある場合、その仏の御位牌はいかがいたすべきでしょうか。
いや別にお祀りしなくてもいいですよ。キリスト教を信仰してたんなら、本人は死んでからキリスト教の団体に行きますからね。やっぱり霊界にもキリスト教の団体ができてるんで、仏教式に祀られるとかえって有難迷惑ですよ。
昭和二十四年五月十三日 講話(13) 光録10
〔 質問者 〕キリストも釈迦もメシヤも観音も人の姿の神にぞありける
昭和二十四年五月二十三日 講話(5) 光録10
で、これはその至聖先天老祖が書かれるんです。これを直接書くのは、釈迦、キリスト、観音、弥勒、孔子、マホメット、舎利弗っていうような偉い人や大宗教家が、この老祖様の言いつけで書くわけです。傍に立っててそこに出た文字を書きとめる係りがあるんですが、そりゃあ、とても早いもんだそうです。そのときは、「観世音菩薩、老祖
の命により何々の教えを伝う」とか「釈迦如来、経文の誤りを訂正す」とか出てきて「どのお経のどこを訂正しろ」と言うんです。また、キリストだと「老祖の命により今日イエス汝らに教う」というふうにいろいろ出てくるんです。それから棒に筆がつけてあれば、絵を書いたり字を書いたりするんですよ。
昭和二十四年八月二十一日 講話(2) 光録11
ところが実際として、そんなに長い先を予言するなんてことはないし、本当にそれだけ先のことを予言するのだったら頭がどうかしてる人ですよ。予言というものは数千年より上は無駄なんです。だからキリストが二千年後に再臨すると予言したのはちょうどいい……ちょうどいいって言っちゃおかしいが、ま、人間が覚えてられるんですね。だから、五十六億七千万年っていうのも数字を表わすためにそう造ったんだと思いますがね。また、本当のことを言うのは具合が悪いんですよ、やはり「釈迦に提婆」で、悪魔が始終邪魔しよう邪魔しようとしてますからね。実際、お釈迦だけじゃなくて、私にも提婆がいろんな手段で邪魔してますよ。昨日なんかもやって来ましたがね。こんなのは何十年もやってるんですが、年々悪魔の力は弱まりつつあるんです。以前にはそうとうやられたもんですが、年々神様の力が強くなってきたので、今度も悪魔はそうとう大規模にやったけど、こっちにはいっこう影響がなかったんです。
昭和二十四年八月二十一日 講話(29) 光録11
〔 質問者 〕キリスト教では、戒名はございませんが、洗礼のときのクリスチャンネームでよろしいのでしょうか。
仏教っていうのは経の教えですから、つまり霊界を重視するんです。それに対してキリスト教は緯ですからぜんぜん違うんです。西洋の霊界はそうなっているからそれでいいし、それから日本の霊界にもキリスト教の霊界ができてますからね、戒名をつけなくてもキリスト教の人は差し支えないんですよ。戒名をつけられて仏教で祀られるとかえって迷惑なくらいなんです。ところがキリスト教に入った人で、いままでの先祖を祀らないと、先祖は困っていろいろ知らせようとするんです。だからキリスト教になっても、仏様だけは従来の通り仏壇に祀っておくべきですね。