昭和二十三年十二月十八日 御講話(16) 光録(補)
これは嘘です、拵え事です。水を葡萄酒にしたなんてことも嘘です。こういうことは開祖をよくするために後世つけ加えたことです。……キリストは偉い人には違いないが、力がなかった。彼の力は私の力の何分の一、何十分の一です。「ハリツケ」になることも判らなかった。もし事前に判れば逃げたでしょうから。しかしキリストの教えと予言はたいしたものです。もしキリストが出なかったら、西洋はいまよりずっと野蛮国だったでしょう。キリスト教が西洋文化の発展に寄与した力はたいしたものです。釈迦も往来で倒れ非常に苦しみをしたが、その教えである仏教により、東洋人がいかに大きな恩恵をうけたかは判らない。諦めにより気持ちを安らかにし得たことはたいへんなものです。
昭和二十三年十二月二十八日 御講話(2) 光録(補)
〔 質問者 〕日本観音教の名称と五六七教との関係および仏教、キリスト教と対比した場合の名称について……
ええ別派です。が「五六七」も観音も元は一つです。キリスト教にだってカトリックもあればプロテスタントもあるんですから、これと同じです。……観音様が縦なら五六七は横と思えばよい。結べば一つなんですから。もう少し先にはまた分派ができるかもしれないし、またその先には一つになるかもしれない。名称だってそうですよ。また他の関係もあるんです。例えば拍手を打って神道と見られるが、神道だと調査を要すという規定が進駐軍にある。調査なんかされるのは面倒です。されないほうがいいです。だから時勢に応じていろいろに変わるんです。
昭和二十三年十二月二十八日 御講話(8) 光録(補)
キリストの「人若し汝の右の頬を打たば左をも向けよ」との無抵抗主義。
ほー慈悲の解剖ですか、……これはいいでしょう、これくらいの心持ちなら間違いはない。これがいいんだがなかなかできないんですよ。大本教祖の出口なお刀自は、人が金を貸してくれと言えばすぐ貸してやる。先方がいい人か悪い人か、すぐ返すか返さぬかなんかには頓着せず、貸してやったことも忘れてしまうのです。これはいいが現実問題としては無理です。殊に個人ならいいが国家の間では成り立たない。国土を半分とられて、ではこっちも……というわけにはゆきませんから。だからキリストの言ったような心持ちでいればいいのです。そして臨機応変にやってゆけばよろしい。戦時中滅私奉公とよく言われたが、これはウソで、私を滅してしまってはオジャンです。滅するのではなく犠牲にするのならいいのですが。
昭和二十三年十二月二十八日 御講話(12) 光録(補)
〔 質問者 〕キリストが十字架に上るまでの行動、心情はやはり不義への抗議と見られますが……
キリストは宗教家ですから不義への抗議ということは当たらないですね。キリストはピラト王の命令で殺されたのですが、王は臆病で、偉い人が出て王位を奪われることを怖れて偉い人間を殺させたのです。で、キリストは殺される前の日にあれを知ったのでしょう、もし以前に知れば逃げてしまっていたはずです。『聖書』には前から知っていたように書いてありますが、あれは教祖を立派にするために後からつけ加えたものです。
昭和二十三年十二月二十八日 御講話(13) 光録(補)
四、五年前までは楠木正成や吉田松陰なんかはすばらしい正義だったのですが、いまではそれは戦犯のごとく悪なのです。だから正義とか悪とかは時代によって違ってくるのです。従って時代によっても変わらない孔子やキリストの教えはたいしたものです。
昭和二十三年十二月二十八日 御講話(20) 光録(補)
〔 質問者 〕イエスが自分はキリストだと信じたのは神様からわざと思わせられたのでしょうか。
昭和二十四年一月二十八日 御講話(19) 光録03
〔 質問者 〕『新約聖書』の中の左の句、……大祭司いふ「汝はキリスト、神の子なるか」イエス言ひ給ふ「なんぢの言へる如し、かつ我なんぢらに告ぐ、今より後、なんぢら人の子の、全能者の右に坐し、天の雲に乗りて来るを見ん」
〔 質問者 〕実はキリスト教信者にこのお仕事のお話をいたしますと、たとえ信者でなくとも一度でも『聖書』をよく読んだ人ですと『聖書』の中にその……偽キリストだっていうんでしょう。
駄目です、疑いを解こうとしたって駄目ですよ。いくらあんたがね、一生懸命に言ったってね、分かりませんよ。言えば言うほどますます偽キリスト、巧妙極まる偽だと思うだけですね。ええ。まあ時機が来なければ駄目ですね。……それにね、もしあの時代に救世主が現われたとしても、あのころは交通が不便だったし、人もまばらであったし、世を救おうとしてもとうてい全世界を救うなどということはできなかったでしょう。しかしいまは交通が極度に発達して国と国との連絡もすぐつくようになり全世界は一つになりつつあり、世界連邦という案さえ出ている。まあこんなことから考えればだいたい分かるでしょう。
昭和二十四年二月八日 御講話(13) 光録04
神式なら俗名を墓石に刻んでもいいが、しかし本当は神道なら墓ではなく碑にすべきです。キリスト教なら十字架ですが最近はあまりこういう点はきちんとしてないようですね、殊に地方では。
昭和二十四年二月二十八日 御講話(15) 光録04
世間、迷信邪教というが、迷信邪教の一番はキリスト教である。キリスト在世時代を考えればよく判る。当時、迷信邪教と誤解されて、十字架にまでかかられた事実が物語っている。それが時の経過によって、迷信邪教の汚名は消え、今日のごとく立派なものとなったのである。宗教のほとんどは、生まれた当時は迷信邪教視せられたものである。日蓮も、親鸞も、法然もそうであった。だから、実際、迷信邪教であるか否かは時を待たなければ確定は困難である。本当の迷信邪教であれば必ず滅びる。そうでなければ必ず発展する。
昭和二十四年三月十三日 御講話(14) 光録05
〔 質問者 〕学校ではキリストを拝み、家に帰ると観音様を拝むことがなんだか……
キリストも観音様も同じことですよ。キリストは西洋の観音様、観音様は東洋のキリストです。だから、あんたの娘さんが洋服を着たり、和服を着たりするのと同じだと思えばいいんです。(笑声) そのことを詠んだ歌がありますがね。
観音も弥勒もメシヤもキリストも人の姿の神にぞありける
〔 質問者 〕その場合のキリストとイエスの関係はいかがでしょうか。