昭和十年四月十一日 御講話
それは、たしかに既成宗教によって救われてる点はたくさんにあります。もし釈迦、キリストが現われなかったならば、もっともっと人類は悲惨な状態になっていたかしれない。いかに今日まで人類を救ったことか、その点は大いに感謝しなければならぬ。
昭和十年四月十七日 御講話
キリスト教では、人は神に似せて作られたということがありますが、神に似せて作ってあっても行なうことが獣であってはいけない。少なくとも四足の境涯を抜け出た人でなくてはならない。
昭和十年五月一日 御講話
キリスト教では、人は神に似せて作られたということがありますが、神に似せて作ってあっても行なうことが獣であってはいけない。少なくとも四足の境涯を抜け出た人でなくてはならない。
昭和十年六月二一日 御講話
実際のことをお話すれば、お釈迦様でもキリストでも、日蓮だの親鸞、弘法大師でも、昔から有名な人がテンでやらなかった。それを今度初めてやるのであります。
昭和十年七月一日 御講話
昔からある、世に出た釈迦、キリスト、親鸞とか、日蓮、空海とか有名な偉い坊さん、そういう聖者のやったり言ったのはなんでもかんでも絶対のものとありがたいものと決める。それが迷信の因となる。でありますから、なるほどいままではそれでよかったが、本当の大光明世界建設するには許せない。お釈迦様の言ってたことも間違ってることは間違ってる。キリストにしてもそうで間違っているところがある。
それが観音様の思し召しであります。なんとなれば、お釈迦様やキリストや阿弥陀が、観音様よりは下の神様ですからで、今度観音様が出て、いままで釈迦やキリストの言ったことはいかんと叱言<こごと>を言われ、間違いを正される。実に滑稽なことがたくさんある。しかもバイブルはあの当時反逆罪で磔刑<たっけい>になった、弟子が十一人残ったんであります。それでうっかりすればさんざんに<ママ>身を隠しほとぼりの醒めるのを待った。そのほとぼりが醒めるのに一〇年以上かかった。そしてボツボツ、イエスから聞いたことを書いた。たしかにそういうことを聞いたということを書いた。ですからあえてイエスのみを責めるのも酷かと思います。
ところが今日の頭で考えると楽にするために説いた経文があまりにも多すぎる。あの時分のような生活難もなく、国際的紛糾な問題もないすこぶる暢気に暮らされた。天然の物を食べて生きておれる、山や林間へ篭もって、幾日もボーッと考えておっただけで食って行けた。ところが今日の人間は、その経文を読むだけもたいへんで、みんな読まなければ今日悟りを得られないというと、あれをみんな読んだら一家は干ぼしになる。商売はなくなる。そういうわけでありますから、仏教のお経文なんてものは廃止したほうがよい。しかもこの言葉たるや、梵語を漢訳して支那で訳し、日本へ伝わったものですから、よほどこの点に間違いがある。分からぬ……分からぬものを読む必要はない。ですから、観音会の祝詞などは判るように書いてある。分からんもので人類を救うのは無理です。分からぬと迷いが起る。今日、経文で救うなどということはあまりにも時代錯誤で、食うに困らず、晒し木綿を着けてブラブラしていた時代のもので今日を救うとは、それは無理で、バイブルの中に金持ちの天国に入るは駱駝<らくだ>の針の穴を潜るよりも難しいとある……すると金持ちはどんなことをしても救われぬ、というふうに説く。もしキリスト教信者が救われるとしたら貧乏にならなければならぬ。
昭和十年七月一日 御講話
昔からある、世に出た釈迦、キリスト、親鸞とか、日蓮、空海とか有名な偉い坊さん、そういう聖者のやったり言ったのはなんでもかんでも絶対のものとありがたいものと決める。それが迷信の因となる。でありますから、なるほどいままではそれでよかったが、本当の大光明世界建設するには許せない。お釈迦様の言ってたことも間違ってることは間違ってる。キリストにしてもそうで間違っているところがある。
それが観音様の思し召しであります。なんとなれば、お釈迦様やキリストや阿弥陀が、観音様よりは下の神様ですからで、今度観音様が出て、いままで釈迦やキリストの言ったことはいかんと叱言<こごと>を言われ、間違いを正される。実に滑稽なことがたくさんある。しかもバイブルはあの当時反逆罪で磔刑<たっけい>になった、弟子が十一人残ったんであります。それでうっかりすればさんざんに<ママ>身を隠しほとぼりの醒めるのを待った。そのほとぼりが醒めるのに一〇年以上かかった。そしてボツボツ、イエスから聞いたことを書いた。たしかにそういうことを聞いたということを書いた。ですからあえてイエスのみを責めるのも酷かと思います。
ところが今日の頭で考えると楽にするために説いた経文があまりにも多すぎる。あの時分のような生活難もなく、国際的紛糾な問題もないすこぶる暢気に暮らされた。天然の物を食べて生きておれる、山や林間へ篭もって、幾日もボーッと考えておっただけで食って行けた。ところが今日の人間は、その経文を読むだけもたいへんで、みんな読まなければ今日悟りを得られないというと、あれをみんな読んだら一家は干ぼしになる。商売はなくなる。そういうわけでありますから、仏教のお経文なんてものは廃止したほうがよい。しかもこの言葉たるや、梵語を漢訳して支那で訳し、日本へ伝わったものですから、よほどこの点に間違いがある。分からぬ……分からぬものを読む必要はない。ですから、観音会の祝詞などは判るように書いてある。分からんもので人類を救うのは無理です。分からぬと迷いが起る。今日、経文で救うなどということはあまりにも時代錯誤で、食うに困らず、晒し木綿を着けてブラブラしていた時代のもので今日を救うとは、それは無理で、バイブルの中に金持ちの天国に入るは駱駝<らくだ>の針の穴を潜るよりも難しいとある……すると金持ちはどんなことをしても救われぬ、というふうに説く。もしキリスト教信者が救われるとしたら貧乏にならなければならぬ。
昭和十年七月十一日 御講話
こういうふうに宗教は貧乏を作る。どういうわけか、これがまだだれも気がついてない。天理教にしろ、あらゆる宗教にしろ、最初教祖の出たときはよい。信者の行いも正しかった。ところで、邪神界のほうでは二〇〇〇年以前から大きい野望をしてる。それがフリーメーソンであります。新しい宗教とか、新しい思想とかが起ると、すぐにそれを狙う。そして、これもご承知のことですが、将来世界を自分のものにしようというために、ユダヤ人はいまもって国家を形成していない。キリスト教は表面ああなっているが、実権はユダヤ人が握っている。彼は最後にならなければ表面にならない。で、ロシアなどはまだ本当に表面に出ていない。奥の奥で操っている。フリーメーソンは各宗教へ働きかけている。そして世界の人間を残らずフリーメーソンの会員にしようとしている。そのため、金はみんな自分のほうへ吸いとってしまうというやり方で、ご承知の通りインターナショナルなどははっきりと貧乏を謳歌している。つまり、貧乏人を非常に待遇をよくし、金持ちには恐怖を与え、金持ちになるのをイヤにさす。
日本なんかは最近だんだんそういうことは影が淡くなったように見えるが一しきり金持ちは非常に恐怖心を抱いたもので、それはできるだけ金持ちを造らず、その国家が富まぬようにする。これが彼らの重大なる方針で、金がなかったら国防や軍備などが充分にできぬ。彼の策略としては各国を貧乏にして、自国が大いに軍備を造るので、今日ロシアなど自国の軍備を世界一にならしめようとして、他国を貧乏にしようとしている。この方針はキリスト教も実はそれにかなっている。この前に、「金持ちの天国に入るは駱駝の針の穴を潜るより難し」という、これは有名な標語ですが、実はユダヤから出ているんで、金持ちにさせないためのもので、金持ちが一番恐い、金持ちがいると軍備をされるからです。
この講座によって、各聖者、キリスト、釈迦、阿弥陀などの本体が判るから、これら聖者はいままで手形を発行している。いまに支払うと言ったのがいまもって支払えない。今度は観音会によって、その手形をみんな支払うんであります。観音様は几帳面で借金は嫌いなんで、人の借金なども払ってくださる。
昭和十年八月一日 御講話
いままでの釈迦やキリストの教えも、結局観音行へ行くまでの準備で、間違ってはいないが、まだあれは手前のものなんで、いずれ講座でお話しますが、完全ではない。大学へ行くのにも小学中学を終えて行くように、やはりそれも必要なことだったんであります。
昭和十年九月一日 御講話
近ごろ新興宗教を非常に貶す。それは有識者に多い。理屈に合わないからだという。キリスト教や仏教は理屈に合ってるという。
昭和十年九月十一日 御講話
偶像崇拝ということを言われてる。昔から特にキリスト教のほうで言っている。なにか木仏でも金仏でも拝むと、偶像崇拝だという。そういう意味からいうと、キリスト教もやはり偶像崇拝です。天を拝しますが、天なら天として見えざる神を想像して拝する。やはりこれも偶像ですが、観音会はそうは言えぬ。観音様は生きた人間を使うから、生きた人間は偶像にならぬ。故に、あるいは今度の「観音運動」のために偶像崇拝ということを言ったんだと思うくらいであります。