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「日本五六七教会」

 キリスト教では、七日間で天地が出来たという。それで七日目に日曜を造った。ナルとか、まとまるという事。

(二)言霊による浄めについて

『悪によって曇らされたる霊界を、善言によって晴らすのである。この場合善言は光となって曇りを解消する。たとえば、キリスト教においての讃美歌の合唱も、仏教における読経も、神道の祝詞も、いずれも善言讃詞であるから、霊界清掃に役立つのである』

(二) 意義について  

『たとえば、キリスト教においての讃美歌の合唱も、仏教における読経も、神道の祝詞もいずれも善言讃詞であるから、霊界清掃に役立つのである』とあるのも、よく理解させていただけるのである。ただ、このお言葉の中の善言讃詞は、賛美歌、経文、祝詞を指す広い意味の一般的な名詞であり、本書にいう善言讃詞は、この祝詞を指す固有名詞であり、明主様がお作りになられたこの祝詞こそは、他の讃美歌、経文、祝詞にも増して、より言霊の働きを強めたいというお気持からお作りになられたものと拝察されるのである。

三 神秘の扉

 明主はいう、「よく神人合一ということをとなえるが、そういう人は今までに一人もなかつた。釈迦・キリスト・マホメットの三大聖者にしても、神人合一のように見えるが、実は神意の伝達者であり、神意の取次者

 かの釈尊は七十二歳で吾見真実となつたといい、日蓮は五十余歳で見真実となったということであるが、見真実とは、宗教をはじめ、哲学・教育・思想などあらゆるものの深奥なる核心にふれたことをいうのである。それによってあきらかとなったのが、釈尊においては法滅尽と弥勒下生<みろくげしょう>ということである。法滅尽とは仏法の滅尽することである。仏滅後、五百年間、または千年問で、法儀未だ改まらず証悟の人なお多い時代である。つぎの千年間または五百年間は、仏道の感化がゆがめられ、正法変じて似法のおこなわれる時代となる。そしてつぎの一万年で教法の一分を残してはいるが、もはや修業と証果のない時代となる。かく次第を追うて次第に滅し、この三つの時代をすぎれば、仏法は尽く滅するということである。弥勤下生とはつぎのようなことである。弥勒菩薩は釈尊の教えをうけて兜卒天<とそつてん>に上生し、天衆を化導している。釈尊の滅後、五十六億七千万年を経て、再びこの世に下生し、釈尊の教化にもれた一切衆生を救うというのである。さて日蓮においては六百五十年後に浄行菩薩が出現し、義農の世となるということである。キリストは見真実についていっていないが、「天国は近づけり」ということと、「キリスト再臨」の予言は、見真実によらなければ、わかるはずがないのである。

 ここにキリストの使徒ポーロの回心(心霊的体験)について述べる。ポーロはもとソウロというユダヤ教徒で、キリスト教徒迫害のため、ダマスコへ追跡の道すがら、天の一角から神の声をきく。新約聖書の使徒行伝

の第九章にこうある。「往きてダマスコに近づきたるとき、忽ち天より光いでて、彼をめぐり照したれば、かれ地に倒れて『ソウロ、ソウロ、何ぞ我を迫害するか』という声をきく。彼いう、『主よ、なんじは誰れぞ。』答えたまう。『われは汝が迫害するイエスなり。起きて町に入れ、さらば汝なすべき事を告げらるぺし。』同行の人々、物云うことあたわずして立ちたりしが、声は聞けども誰れをも見ざりき。ソウロ地より起きて目をあけたれど、何も見えざれは、人その手をひきてダマスコに導きゆきしに、三日のあいだ見えず。また飲み食いせざりき。」と、ダマスコにアナニヤという弟子、幻影のうちにキリストの命をうけてソウロの家にゆき、「彼の上に手をおきていう、『兄弟ソウロよ、主すなわち汝がきたる途にて現われ給いしイエス、われをつかわし給えり。なんじが再び見ることをえ、かつ聖霊にて満たされんためなり』ただちに彼の目より、鱗のごときもの落ちて見ることを得、すなわち起きてパプテスマをうけ、かつ食事して力づきたり。」とある。

 天の光を見、(霊視)神の声を聞いて(霊聴)はげしい衝撃に打たれて地に倒れ、盲目<めしい>となつた。アナキヤは宗教幻想(霊視)にキリストを見、その命によって、ソウロの上に手をおけば、(奇蹟能力)「彼の目より鱗のごときもの落ちて見ることを得」たとある。現実を見る目は一度は盲目となり、鱗のごときもの落ちて第三の眼が開かれた。それは真の神霊を観る眼であり、霊の眼である。そしてこの心霊体験は全人格革命をおこし、異教徒ソウロをしてキリストの使徒ポーロに転身させた。「もはやわれ生くるにあらず、キリストわれにありて生くるなり」と、ソウロはポーロとして転生した。「もしわれら御霊<みたま>によりて生きなは、御霊によりて歩むべし」かくて「聖霊の中を歩む」ポーロの布教がはじまつた。

 無神論者であつた明主も、入信から見神にいたつて、第三の眼が開かれた。神霊の存在を覚証し、憑霊現象に神示のコトバをきいて己が使命を悟つた。そして悪覚者の段階に入ったが、やがて昭和九年には霊能者となってあらわれるのである。さきにみたように霊能力には、神霊の姿を観る霊視能力(宗教的幻想・透視・千里眼をふくむ)と、神霊の声を聴く霊聴能力と、神霊がのりうつってコトバを発する憑霊能力(神懸)と、霊力によつて病者を治し(治療能力)、奇蹟をあらわす奇蹟能力などがある。明主には霊視・霊聴・憑霊の能力をはじめ、特に治癒霊力としての奇蹟能力が顕著にあらわれてくるのである。ポーロの「もはやわれ生くるにあらず、キリストわれに在りて生くるなり」の覚証と転生はまた、すでに明主のなかに起っていた。それはつぎのことによつてわかる。大正十三年に某の霊現に明主の右方に観音をみたこと、大本教信者の某が、明主の頭上に、渦巻の中心に観音様が見えるといつたこと、昭和元年の神懸りに、観音様が明主の肉体を使つて人類救済の大業をさせるのだというお知らせのあったこと、それによつて、「昭和元年から観音様は始終、私の肉体に憑られ、私に種々の事を教えられ、命じられ、自由自在に私の肉体を使われる。まつたく私を機関として、一切衆生を救わせ給うた」とあるのは、「われ生くるにあらず、観音われに在りて生くるなり」といいかえることができる。

四 光は闇を追う

 まず天時到来とはなんであるか。釈尊の弥勒下生は仏滅後、五十六億七千万年であり、キリストは「天国は近づけり」といつたが、それはいつとはいっていない。日蓮の義農の世は六百六十年後といつて、まだ天の時の到っていなかったことをいうのである。ところが明主の霊智による観相によれば、霊界の昼夜は転換し、今や黎明期に入り、太陽は上昇しつつ昼の世界に入り、光明世界は来らんとしている。かく今や霊界においては何千年目か、何万年目かに当然、来るべき昼夜の切替時がきた。これを天時到来というのである。

一 新しい宗教家

 ヨルダン河の東、砂漠の予言者ヨハネの洗礼をうけたキリストは、群集と喧騒をあとにして、ひとり砂漠のなかへ入つていった。瞭野の孤独におそいくるサタン(悪魔)をしりぞけて、ふかい瞑想からでてきたときには、天国の福音、人類の愛を説く聖者として、光の中を歩いてきた。

 宗教もまた人類の理想である幸福にして平和な社会を建設するにある。政治や経済は現実の施策でこれを実現しようとするのに対して、宗教は霊魂の救いによってこれを実現しようとする。戦後、人心の動揺と社会の混乱と政治の貧困のなかから、多くの新しい宗教がうまれたのは、古い宗教がすでに時代性や社会性を失っていたからである。神道者は神前の祭祀に終始しているし、仏教者は葬祭を事としているだけだし、キリスト者は福音の伝道とわずかな慈善事業をなすにとどまって、いずれも現代の苦悩の解決と新しい社会の建設には、なんらの積極的な意欲を示さないからである。

 しかし、いわゆる新興宗教のなかには、迷信、狂信、邪教もすくなくない。しかし真実のないものは、いつまでも人の心をとらえてはいないであろう。戦後、人道主義の原理にたつ民主主義の社会が建設されつつある今日、この時代に即応する新しい宗教は、もう過去の現世否定の宗教ではなく、現世肯定の人間的な宗教でなければならない。この意味において、救世教は現代の宗教である。神道は古代の神ながらの道を再現しようとする時代逆行の宗教であり、仏教は現世は苦の娑婆だから、来世には極楽浄土にうまれさせるという未来宗教である。キリスト教は世界の終末を説き、天国の近づくことを祈念するが、この現世の解決は問題にしない。これでは既成宗教に対する社会の関心がうすれ、宗教の社会生活への浸透性が失われるのも無理はない。しかるに救世教は現世の苦悩をのぞき、幸福にして平和な社会を現在に建設しようとする。ここに救世教の現代性と社会性がある。

七 花の天国

 実に偉大である。古往今来、洋の東西を問わず、いかなる大芸術家が、これほど雄大な構想をもって、現実の大絵画を描きえたであろうか。実に雄渾である。いかなる大宗教家が、かくも豊かなる美の天国を実現しえたであろうか。釈迦の説く浄土の曼陀羅は、あの世の姿であり、生死の彼岸の高い霊界のありさまであり、いわば宗教的幻想の世界である。キリストは「天国は近づけり」といったが、それは遠い未来の平和の世界を暗示したにすぎない。ダンテの「神曲」の世界は中世的な、かつ詩的幻想にすぎないではないか。現実の大地の上に、現世の美の天国を描いてみせ、世界の人はかかる美の天国に住むべきであり、また住むようになるのであると、永遠の筆を振るつたのである。

二 宗教物語

 そこで現在まで進歩してきた物質文明に魂を入れかえて、新しい文明を創造しなくてはならない。つまり「悪の文明」を「善の文明」におきかえるのだ。それが地上天国の建設ということだ。 そこで一言いいたいことは、キリストは「天国は近づけり」といい、釈迦は「ミロクの世がくる」と予言したが、御自身で天国を造るとはおゃしゃらなかった。ところがこちらでは、天国を造ると宣言するのである。主神の天国建設の大経綸を今や実現すべき天の時が到来したと申しそえておこう。

三 幸福について

 宗教が人間にとって、いかに必要であるかはこの点にある。すなわちキリスト教の愛といい、仏教の慈悲というのも、他人を幸福にする利他的観念をうえつけるのが本義である。幸福をうるには善の種を播けばいいのである。その反対の悪の種とは人を苦しめ、損害をあたえ、自分さえよければ、人はどうでもいいというような利己的観念で、善の種とは他人をよろこばせ、他人に利益をあたえる利他的観念である。としたら、甚だ簡単なようだが、それがなかなかむずかしいのであるから、人生は厄介なものである。ではどうすればいいかというと、右の道理を信じ、守りえられる心をつくることで、そうなれば嫌でも実行するからである。それにはもちろん信仰よりほかにないが、わが救世教こそ、その条件に最も合致している信仰であるから、不幸に苦しんでいる人は、一日も早く入信することをおすすめする次第である。

昭和十年二月十一日 御講話

 キリストは笑いは罪悪だ。「笑い合うところ罪悪生まる」という、牧師の説教は、まるで泣き声をしています。これでは岩戸は開けません。大いに笑って大いに朗らかでなければ駄目です。朗らかな人のことを明るいと言いますが、明るくしていねば天国は開けません。