第三次戦争は果して有る?
私は常に旧文明世界は、近き将来終りを告げ、変って新文明世界が生れるという事を唱えているが、もちろんこれは神定<かんさだめ>のプログラムであるから、信ずるより外はない。という意味で第三次戦争もプログラムの中での最も大きな節であると思えばいいのである。しかしこれは私が今日改めて曰うのではない。巳に二千年前キリストは世の終りが来ると曰い、天国は近づけりとも曰っている。しかもキリストの再臨まで予言されたばかりか、又ユダヤ教の聖典にも、将来メシヤが降臨し、世界を救われるという予言もあるので、もしこれ等を信ずるとしたら、当然来るべきものが来る訳である。今私はそれを具体的にかいてみるが、前記のごとき新世界というのは、悪に充ちた醜汚<しゅうお>の世界が崩壊し、反対に善に充ちた清麗な世界が生れるのである。その為どうしても何千年来溜りに溜ったところの人間の犯した罪穢の汚れを浄めなければならないのは当然である。罪穢とはもちろんあらゆる醜塊物<しゅうかいぶつ>であって、その大掃除が近づいたのである。
自由なる信仰
ではその理由はどこにあるかというと、もちろん信者を減らしたくないからの苦肉の策でもあろうが、その他の理由もある。それは昔からある事だが、その宗教が隆んになるとよくにせ物が出たがる。本教なども今までにそういう事が時々あるので、その都度私は曰うのである。宗教も化粧品と同様、売れるとにせ物が出るもので、にせ物が出る位なら世の中から認められた証拠だから、むしろ結構ではないかと笑うのである。この事は形は異うがキリスト教にもあるようだ。それは偽キリスト、偽救世主が今に出るから注意せよと戒めているが、これは善い事もあれば悪い事もある。何故なればもし本物の救世主が出ても、偽物と思い誤り、救われない人が出来るからである。
東方の光
ここで今迄の日本におけるあらゆる文化を検討してみると、そのことごとくは西に生れ東に向って移行発展したものである。宗教上では仏教、キリスト教始め、日本に発生した神道、仏教の各宗各派も、ことごとく西に生れ東漸したものであって、只日蓮宗だけが東から生れた唯一の宗教である。というのはこれには深い理由がある。それはどういう訳かというと、そもそも仏教本来の意義は、いつも言うごとく夜の世界であった期間中の救いであって、つまり月の神の守護であったのである。ところが時節到来昼の世界に転換する事になるについては、一切は霊界が先であるから、霊界においては已に七百年前に、黎明の第一歩に入ったのである。
太陽の救い
ところが手前味噌ではないが、我メシヤ教は右のような信仰とは全然異っている。まず第一常識を重んずる事、生活も行動も一般人と少しも変らない事、いかなる人とでも親和を旨とし、円満を欠かない事等をモットーとしているので、この真相が分ったならいかなる人でも安心して、本教の信者とならないまでも接近したくなるであろう。ところが右の真相を知らない為、漫然と客観して前記のような常識外れの信仰と同一視せられるので、実に迷惑である。従って本教の発展を妨害するものは無神論者でも科学迷信者でもない。むしろ右のごとき好ましからざる新宗教といってもよかろう。しかも意識的妨害ではないから、反って始末が悪い位である。この事は考えるまでもなく日本特有の宗教界のあり方であろう。というのは欧米においてはどの国も大体キリスト教一本である事と、文化の発達が日本より早いので、宗教の見方にしても比較的公平であり、合理性に富んでいるから洵<まこと>にいいが、日本は仏教あり、神道あり、キリスト教あり、しかもそれ等が幾派にも分れているので、実に正邪混淆<こんこう>雑然としているから、その点実にやりにくいのである。
最後の審判
キリストの曰われた最後の審判というのは、何か恐ろしい事が突如として起り、それによって信仰なき者は亡び、信仰ある者は助かるというように、至極簡単に割切っているが、そういう事はないとも言えるが、有るとも言えるのである。というとはなはだ不得要領であるが、これには訳がある。それは今後の神様の活動によって、悔改める人間が多くなれば、その様な極端な方法は必要がないからそれでいいが、そうでないとすれば止むを得ず徹底的に裁かれる事になるのであるから、これ結論は人間次第という事になる。
医学革命の書 序文
以上の如く此驚異的新医術の出現こそ、今日迄の如何なる発明発見と雖も比肩する事は不可能であろう。何しろ人類から病を無くし生命の延長も可能になったとしたら、彼のキリストの予言された天国の福音でなくて何であろう。之が世界に知れ渡るに於ては、一大センセーションを捲き起し、世界は百八十度の転換となるのは火を睹<み>るよりも明かである。最近の大発見として世界に衝撃を与えた彼の原子科学にしても、之に比べたら問題にはなるまい。私は叫ぶ、最早人類最大の悩みである病は茲に完全に解決されたのである。故に此著を読んで信じ得られる人は天国の門に入ったのであり、之を信ぜず躊躇逡巡<ちゅうちょしゅんじゅん>、何だ彼んだといって見過す人は、折角天の与えた幸福のチャンスを自ら逃して了い、何れは臍<ほぞ>を噛む時の来るのは、断言して憚<はばか>らないのである。
序論
昔から革命と名の付くものは幾度かあったが、それは一国家、一民族、もしくは一時代、一思想といったように限られていたが、今私が行わんとするこの医学革命に至っては、全人類の生命を永遠に救うという、その福祉の大きい事は、破天荒といっていいか、画期的といっていいか、言葉では現わす事は不可能であろう。要するに神は全人類苦悩の根本である医学の過誤に目醒めさせるべく、私に対しそれに必要な智慧と力を与えられたのであって、この事こそ真理の具現であり、救いの基本的条件である。ところが人類は何千年間にわたって真理を知らなかった。否神はある事情によって知らせなかったのである。しかししいよいよ天の時到ってここに真理を知らせ、文明転換という史上空前の偉業は開幕されたのである。これこそキリストの曰った「世の終り」であり、「最後の審判」であり、世界的大清算である。
この時に際して、神の大慈悲は今やこの渦中に巻込まれ、溺<おぼ>れんとする最大多数の生命を救わんとするのである。もちろんこの大清算こそ、既成文明の欠陥を明かにし、真の文明のあり方を教え、神の大目的たる理想世界を実現せられるのである。これもキリストの曰った「天国」釈尊の曰った「弥勒の世」、本教のモットーである「病貧争絶無の世界」であり、その根本こそ何といっても人類から病を無くす事である。
浄霊とは何か
ここで以上のごとき三段階を一層徹底してみるとこうである。すなわち今日までの世界は物科学と霊科学との二段階のみであったが為、人間生命や病気健康等の根本まで分らなかったのである。もちろん独り医学ばかりではない。あらゆる文化がそうであって、永遠性のない一時的間に合せ物がそのほとんどであったのである。という訳で治病方法にしても、前記のごとく三段階中の物科学と、そうして霊科学中の信仰療法のこの二つだけであった。前者は略すが、後者においては治病方法としては祈り、苦行、禁厭<まじない>等であって、医学と同様見るべき効果はなかったのである。又これは別の話だがかの釈尊にしてもキリストにしても、なるほど見真実の境地に達したとは云われているが、最高ではなく二段階の上位程度であり、智慧も力もそれ相応であって、絶対でなかった事は歴史の示す通りである。これも時期の関係上やむを得なかったのである。ところが私においては右の第一段階の最高地位に置かれている以上、無限絶対の大本元を把握しており、一切の事物に精通すると共に、病気その他万般に渉って驚異的奇蹟を現わし得るのである。こんな事をいっても、第三者はすぐに信ずる事は出来まいが、これこそ真理の具現である以上、何人といえども結局信ぜざるを得なくなるのは断言して憚<はばか>らないのである。しかるに今日までの人類はそこまで分らないが為、釈迦キリストを最高神仏として崇敬し信じて来たのであるが、事実がそれに伴わない為、人々は疑雲に閉ざされ、霊の実在を否定し、科学万能時代を生んだのである。そうして『聖書』には再臨のキリストを予言してあり、仏教は弥勒下生を唱えており、ユダヤ教やその他の教派にしても救世主降臨<メシヤ降臨>を待望している。というようにそれぞれ昔から期待はかけられていたが、只その時が明示されていなかった為、大衆はそれ等の説は理想の表徴<ひょうちょう>位にしか思わず、いつとはなしに忘れられたのが現在の世界である。
私は今更自分が救世主だとも、再臨のキリストとも曰わない。何故なれば昔から今日まで随分そういう名乗りを上げた者もあったが、みな煙のごとく消えてしまったからで、今日それを唱え出したところで、偽キリスト、偽救世主か大山師位にしか見られないのは分り切った話であるからである。要は実際問題であって、今後私の仕事の上において、救世主的救いの力を発揮するか、キリスト再臨的威力を表わすか、弥勒や観音の力徳を顕現するか、天照大御神としての光明を放つか等によって、信ずる信じないを決めればいいであろう。つまり全世界の人々が公正なる批判の眼を以て観てくれれば私は満足であり、それ以外の望みはないのである。
従って我救世教こそ、最高最貴の主神が経綸し給うところの神科学の具体化であり、それから生れた浄霊医術である以上、超偉力を発揮するのも不思議はないのである。何よりも事実が遺憾なく証明している。例えばキリストの治病奇蹟にしても、一人対一人であったに対し、私は私の弟子をして、キリストと同様の奇蹟を日々無数に顕わしつつあり、その数も数十万に及んでいるので、言わば現在すでに数十万のキリストが日本に生れている訳である。この神力こそ主神以外にあり得ない事は、常識で考えても分る筈である。
天国的宗教と地獄的宗教
今日世界を風靡しているキリスト教の開祖、イエス・キリストにしてもそうであって、十字架上の露と消えた事蹟や、パリサイ人共の迫害は有名な話であるが、日本においても大なり小なり、茨の道を潜らない宗教家はなかったといってもいい、只その中で釈尊と聖徳太子のみが例外であったのは、言うまでもなくその出身が皇太子であったからである。
そうしていかなる宗教の開祖にしても、もちろん悪ではないどころか、凡人以上の善者であり、人並外れて愛が深く慈悲に富み、不幸な者を救わねば措かないという信念を以て、命を犠牲にしてまで救いの業を貫こうとしたのであるから、善の塊りともいうべき聖者である。従って本当からいえばその時の政府も民衆も、その労苦をねぎらい感謝し、最大級の優遇を与えるべきにかかわらず反ってその逆に悪魔の巨頭のごとく憎悪し、迫害圧迫生命までも絶とうとするのであるから恐らくこんな不合理な話はあるまい。故にこれを冷静に批判する時、右のごとく大善者を憎み虐げ、葬ろうとするその行為はその人達こそ悪魔ということになるのは理の当然ではあるまいか。そうして本来人間という者は善か悪かのどちらかであり、決して中間は存在しないのであるから、換言すれば神の味方か悪魔の味方かどちらかである。とすれば神を嫌い、無神思想を唱え善を行う宗教に反抗する人は、悪魔の僕ということになるのは当然である。そうして今日偉大なる宗教とされているその開祖にしても、初めの中は悪魔扱いにされ、極力迫害されたに拘わらず、遂に悪は負け善が勝ったのは歴史の示す通りである。キリストが受難に遭いながら「吾世に勝てり」と言われたのもその意味であり、味わうべき聖言である。
故に既成宗教は、開祖の死後相当の年数を経てからようやく認められ、神と祀られ、仏と崇められたのがほとんどである。もちろんその教によって人間に歓喜を与え、社会の福祉増進に寄与するところ大であったからであろうが、開祖生存中にそのように認められた宗教はないといってもいい位で、法難は当然のように思われ、信者としても苦難の生活を寧ろ喜ぶ様な傾向にさえなってしまったのである。特にキリスト教のごときはキリスト贖罪の受難を亀鑑として、苦しみを覚悟の上蕃地深く分け入り、身を挺して活躍した悲壮なる史実も、これを読んで胸の迫る思いがするのである。だからこそ今日のごとく世界至る所にキリスト教程、根強く教線の張られた宗教はないのである。日本においてすらかのキリシタバテレンの迫害や、天草の乱などを見ても思い半ばにすぐるであろう。
ところが以上かいた事は他動的不可抗力による苦難であるが、そうではなく自分自ら進んで苦難を求める信仰も少なくはない。ちすなわキリスト教における一派の戒律厳守、禁欲主義者、修道院に一生を捧げる人達もそうだが、かのマホメット教、中国の道教やラマ教、インドのバラモン教なども同様であって、彼等は禁欲を以て信仰の主眼としている事である。
救世教奇蹟集 序文
とはいうもののこれも深遠なる主神の経綸であって、今日まではそれでよかったのである。というのは神の御目的である理想世界を造るには、その準備としてまず物質文化を、あるい程度完成しなければならないからで、今日まで治乱興亡限りなき人間苦闘の歴史もその為であったのである。という訳で唯物科学時代はここに終りを告げると共に、精神文化勃興の時代が来たのである。そうして唯物唯心の両科学が、歩調を揃えて進み、真の文明時代が実現するので換言すれば宗教と科学の一致でもある。それにはまず霊の実在を認識させる事が先決問題であるから、神はこの方法として奇蹟を顕わすのである。その役目を担うべく選ばれたのが私であり、もちろん奇蹟の力も与えられたのである。それについては昔から多くの宗教の中、特に顕著なものとして、今なお有名なかのキリストの奇蹟であろう。盲の眼を開かせ足萎<あしなえ>を立たしめ、悪人から鬼を追い出し、集った数十人の信徒に、水を葡萄酒に化して飲ませた等々であるが、私はこの葡萄酒の件だけは、後世誰かが作ったものと思うが、その他はもちろんあったに違いない。ところが本著にあるほとんどの奇蹟は、キリストと同じ位か、それ以上のものさえあるので、全く驚異の一語に尽きるであろう。しかも全部私の弟子が顕わしたのであるから、正直にいって歴史を覆えすほどの大事件であろう。
そうしてキリストの曰われた彼の有名な「世の終り」とは、この唯物文化時代の終りの事であり、次で「天国は近づけり」との予言は、今や生まれんとする飛躍的高度の文化時代であり、真の文明世界であるのは言うまでもない。故にこの世界の大転換期に際して、神は空前の奇蹟を顕わし、世界的文化革命を遂行され給うのであるから、この事が信じられる人にして来るべき新時代における幸福者たり得るのである。ところで私はこれ以上かきたいが、それでは純宗教書になるからこの辺で止めておくが、読者はこの意味を充分銘記して、精読されん事である。それと共に本教を以て従来の宗教観を捨て、宗教以上の超宗教として見られん事である。