第二の誕生【散花結実】

昭和二五年六月一五日

 なにしろ神様は、もう時期が近寄って来たので、予想外の事をやります。だから救世教信者なら大体分るが、そうでない人だったらテンデ分るはずがないです。
 そういうわけで、最近いろんな霊的の事柄が出て来たのです。この間は、キリストやいろいろな偉い開祖、教祖などの神憑りの事を言ったけれども、あれは京都の方の若い女性ですが、今度は熱海に居る若い女の人が、やはり霊憑りで、いろいろそういう事を言われたのですが、それが京都の人とよく合っているのです。新しい点もありますから今読ませます。

(御報告)

 これをみると、キリストはキリストらしい、バイブルの書き方みたいな事を言われているので、面白いと思います。バイブルのいやにくどい所などがよく似ています。

 そういうわけで、今までは光を持った人間が現われなかったのです。つまりヨハネが二千七百五十年地下に苦しんだという事は、光というものがなかったからです。それで、光を受けなければ救われないのです。神仏も、つまりこの光をいただきたがって、今霊界では大変なのです。

 それで今度奈良へ行くについて、あっちの各海、湖水、池などの龍神が、次々と京都の人に憑って、その報告が来ました。そういうようなわけで、まあ、光を憧れているわけです。

 それで、今読んだ中に。″神ならぬ神″という事を言ってますが、これは非常に面白いと思います。実際今まで神といって拝んでいたのは、実は本当は神ではなかったのです。ですから″神ならぬ神″というのは、うまく言いまわしたものです。そういうわけで、「聖夜」と言って、キリストの聖歌でしょうが、これはあまりにキリストを讃えたので、かえってキリストとして苦しんでいるのです。

 そこで歌詞を教えたのですが、これで非常に面白いと思うのは、私は、メシヤ会館が出来たら、前から言っているとおり、ヘンデルの作った「救世主(メシヤ)」という歌を御祭や何かの時には歌って、オーケストラもやるつもりで、舞台の下の所にオーケストラボックスを拵えましたが、歌うその歌詞は、ヘンデルのような外国語では工合が悪いですから、どうしても日本の言葉でなければならないのです。

 私か作ろうと思っていたのですが、ところが私か作るという事は嘘なのです。私は歌うのではなくて、歌われる方なのですから・・・。だから讃えるという事が、自分が自分を讃えるような事になってしまうから、どうしても何か然るべき歌詞が欲しいなと思っていたのです。そうかと言って、適当に作れる人はないのです。ところがキリストが作ってくれたのですから、実に結構なのです。そこで私も一安心したわけです。この歌詞もなかなか良くできてます。簡単で実に讃える心持、気持がよく表れてます。ですからこれを採用するつもりです。

 そういうようなわけで、これからは、ああいう″神ならぬ神″達が大いに活動始めますから、どんな事があるか分らないです。いよいよ本舞台になったわけです。今年から表になるという事の、最初の一つの現われです。

 もう一つ面白い、ちょっとした何かあるのですが、この間ハワイで英語教修をした時に、聞き手が四十人ばかりあって、その時に外人は十人ばかりだそうですが、その中で最近信者になった、アメリカの人で、ちょっと面白いことを言ったのを書いてありますから、読ませます。樋口さんの報告の中にある一節です。      
 (ハワイ通信 十八)

 今の″世界を救う聖者が八人目に出る″という事は、伝説にあるのです。仏教の方では、釈迦が八人目だ、という事になっているのですが、それは仏教に都合のよいように作ったものです。

 釈迦は「八」という事はないのです。釈迦は「七」で、七人目なのです。というのは五六七のミロクとして、釈迦が七のミロクになるのです。釈迦は何処までも「七」の数字で支配される人です。だからつまり「地」は「七」ですからして、地のミロクです。

 私は伊都能売<いづのめ>ですから「八」になるのです。伊都能売というのは、数で言うと「五」「三」ですから「八」になるのです。そして「八」という数字は富士山になるわけです。ですから「八」という数字を書くと、富士山の形になります。

 それで、私は大和民族の宗家になるのですが、大和民族というのは、今の駿河の附近が発祥地なのです。(本当は富士山の上なのですが)富士山の麓なのです。だから昔は、富士山が本当の神様の山として、あそこの上に、今でも木の花咲爺姫が祀ってありますが、それで静岡の裁判であっちの留置所に入った時に、大きな神秘な事があったという事も、そういう因縁なのです、そういった意味で、私は富士山と非常に因縁があるのです。

 そうして、あの時も話したとおり、夢で、私か富士山に乗っかって、景色を見るという話もしましたが、その時が、私か生れた、第二の誕生です。

 そこで、出てから「散花結実」という事を言いましたが、花が散って実を結ぶで、「散花結実」という事は、″種が宿った″という事です。それから私の力とかいろんな、そういう事が違ってしまったわけです。

 それからが本当に開けたわけです。ですからあの時に、救世教というものはすっかり壊れてしまったわけです。もうこれで駄目だ、というくらいに見えたのですが、それが花が散るという形です。それはその当時よく話しましたが、そういうようなわけで、今の八人目という事も合っているのです。

 それから一週間ばかり前に、例のアメリカのグリリ夫妻が、駐留軍の星条旗(スターズ・アンド・ストライプス)の主筆の人を連れてきて、いろいろ話し合ったのです。私は五分か十分ぐらい会うつもりだったのですが、話をすると、話がばかに面白くなって一時間以上話をしました。(中略)

 非常に驚いて、″自分は今まで世界でのいろんな偉い人を見たり聞いたりした事は随分あったが、みんな、つまり一人対一人か、或いはただ教えというようなわけで、釈迦、キリスト以上という人の話は聞いた事がない。ところがキリストぐらいの奇蹟をやる弟子を多く作るという事は、おそらく見た事も聞いた事もない。そういう点において実に驚いた″というような事を言ってました。

 そこでやっぱりアメリカの人らしい事を言います。″明主様をどうこうと批評はできない。もし相手を批評するとしたら、相手と同程度か、それ以上の人でなければ批評はできない。ところが明主様は人間よりずっと上としたら、ただそれを有りのまま感じるだけの事で、批評という事はできない″という事を言ってましたが、これは非常に正直な言い方です。 

「御教え集33号」 昭和24年04月07日

御教え集栄光