昭和二十九年四月一日御講話(12)

〔 質問者 〕神様のことにつきまして、本日もお言葉がありましたが、最近霊的な現象がいろいろ出てきており、信者として神様のこともお伺いいたしたいのでございますが、非常に難しいことでもありますので遠慮いたしておりましたが、二つほどお伺い申し上げます。

 伊弉諾尊、国常立尊、伊都能売神、天照大御神、明主様との御関連と、主神が邪神をお使いになっており、御神業になにかと邪魔をするということとの御関連を。

【 明主様 】邪魔をすると言うが、それは見方によるのです。本当は邪魔ではないので、必要なのです。つまり浄化作用の一種なので、その人に穢れがあるから、穢れを取るにはその人を苦しめなければならない。それから時期があるから、その時期を延ばすために邪神が邪魔するのです。ですからいま言ったとおり、正邪両方を主神が作ったのですが、邪というものも必要なのです。邪というのは、邪魔したりすることですが、その人を磨くにはそういうことも必要なのです。ある期間は邪だが、イコール正なのです。

 
〔 質問者 〕明主様の意向に邪魔する邪神というのは、表面的にはあるような形の場合と、そうでない場合と、

【 明主様 】邪魔しているということはどうして分かりますか。

 
〔 質問者 〕なにかと御神業に差し障りがあるということでございます。

【 明主様 】どうして差し障るまたは差し障らないという判断が分かりますか。

 
〔 質問者 〕それは分かりません。

【 明主様 】あなたの目には邪魔するように見えるが、神様のほうではそれでよいのです。だから人間の小智小才で判断して「あれが悪い」とか「これが悪い」とか言うが、実は御自分のほうが悪いのです。例えば「医者というのはけしからん。病人を作り、人を死なせる。病気を治らないようにしている。詐欺だ、けしからん」と言うが、医者がそうだから救世教が発展するのです。もし医者がそうでなかったら、救世教の信者は一人もできないです。そうすると医者はたいへんな役をしているわけです。だから医者がそうして病気を作っていることは、神様のほうからは必要があるのです。それはいずれ説きますが、いまはまだ早いから言わないのです。ですから人間が、善いとか悪いと言うことはできるが、結論は人間ではつかないのです。「あいつは悪い、お邪魔している」ということも、それはたしかに邪魔しているから、邪魔しているということを言うのは差し支えないです。しかし「だからあいつはやっつけなければならない」ということはいけないのです。というのは、もしやっつけなければならないものなら、神様がやっつけるのです。「あれは邪魔しているようだが、やっぱり神様のほうで御都合があるのだろう」として、善いとか悪いとか決めることはいけないのです。

 
〔 質問者 〕たとえてみれば、三大新聞が広告をとらないということは、邪魔しているのではございませんでしょうか。

【 明主様 】邪魔しているのです。だからけしからんのです。しかし憎むことはできないのです。あんがいそれがよかったという時節が来るのです。あなた方でもそうでしょう。「あいつはびどい奴だ。あんなことをやった」というが、何年かたってから、「あれでよかった、あのためにこうなった」ということがあります。人間ははなはだ安直なので、じきに決めるのです。決めるのはよいが、ある程度で止めればよいが、どうしても「やっつけてしまえ」とかということが間違ってしまうのです。私は言うのです。いま原子爆弾を嫌っていろいろ言うが、日本人は原子爆弾に対して大いに感謝しなければならない、と。あのくらい感謝しなければならないものはないのです。なぜなら、あれが広島、長崎にドカンと来たので戦争がすんだので、そうでなければ日本の都市という都市はあれで壊されてしまいます。なにしろあの当時、軍人は非常に執着が強くて、どこまでも戦争を続けるという決心であったのですが、原子爆弾によって「これはもうかなわない、手をあげる」という決心が決まったのですから、あの戦争を打ち切りにした力は原子爆弾です。だから広島、長崎ですんだわけですが、そうでなかったら他の都市も全部壊されるのです。とともに人間も殺されるのです。それを救ったのは原子爆弾です。これは神様のほうから私は分かったのですが、原子爆弾は神様が作ったのです。あれは悪魔が作ったように思いますが、そうではないので、神様が作ったのです。これもいまに「なるほど」ということが分かります。だから主神がいろいろな経綸をされているのは、とても人間などの判断で分かるものではないです。実に深い、大きな、たいへんなものです。だからお筆先に「神界の事が分らぬと言う人は分りたのであるぞよ」とありますが、それほど分からないものです。だから人間が、善いとか、悪いとか、善とか悪とか、いろいろ決めるということは、実にごく薄ッペラなものです。だから多く、逆が多いです。救世教を発展させているのは医学なのです。医者が病人を作り治さないようにしているから、救世教というものがありがたいものになっているのです。医者のほうでそんなことをしないで、病人を片っ端しから治してしまえば、病人はなくなってしまいますから(その代わり医者もなくなってしまいます)、そうすれば救世教の出る隙もなくなってしまいます。神様は医学とか薬という、そういった間違ったものを作り、病人を作り、人間を苦しめるというそのことがまた非常に必要な意味があるのです。医学や薬で人間を弱らしているが、また一つにはすばらしい、よいことがあるのです。それはまだ時期が早いから言わないが、それが分かっては、ちょっと具合が悪いことがあるのです。また自然農法にしても、肥料が良いとして米の不足やいろんなことをしたということは、神様としてはまるで無慈悲なように思うが、ところがやっぱりそれがたいへんな必要があったわけです。だから本当の深い意味というものは、いままでに説いた人もないし、またそういうことがいままでは知れてはいけなかったし、やっぱり時期が来て、そういうことを知らせなければならない時期が来たわけです。それを知らせる役が私なのです。

「『御垂示録』三十号、岡田茂吉全集講話篇第十二巻p80~」 昭和29年04月01日